第9話「渡す相手」— 手作りカバーの本が“戻る”
開店前の時間は、店がまだ固まっていない。
棚の背が少しだけ浮いている。浮いた背表紙は、触ると戻る。戻るまでが準備だ。
私はシャッターの鍵を回した。
金属が短く鳴る。鳴った音が路地の壁に当たって、すぐ消える。消える音は朝の音だ。
シャッターを押し上げた。
手のひらに細い埃がつく。埃は乾いている。乾いた埃は、昨日の終わりの埃だ。
店の前に、人が立っていた。
傘を差している。差しているが、雨は降っていない。地面も濡れていない。濡れていないのに、傘は閉じられない。
その人は動かない。
動かないのに、位置が決まっている。扉の正面ではない。少しだけ外れている。外れているのは、道を空けるためだ。空けるための立ち方は、客としては丁寧すぎる。
私は視線を上げなかった。
上げると、待っている理由を聞くことになる。聞くと、仕事が仕事でなくなる瞬間がある。瞬間を作らないために、私は鍵を探した。
鍵束を指で分けた。
小さな鍵が触れ合って鳴る。鳴る音が薄い。薄い音は、指の力が抜けている音だ。
店の鍵を差し込んだ。
差した鍵が少し引っかかる。引っかかるのは、昨日の湿気のせいだ。湿気は木に残る。残るものは、拭いても消えない。
鍵を回す。
金属が短く鳴る。
その音に合わせるように、相手が一歩下がった。
一歩下がるのが早い。早い動きは、待っていた動きだ。待っていた動きは、用件が決まっている動きだ。
扉を引いた。
ドアベルは鳴らなかった。鳴る前に揺れを殺す動きがある。動きがあるのに、私は見ない。見ないのは、線を守るためだ。
私は中へ入った。
靴底が床を撫でる。撫でる音が小さい。小さい音は、店がまだ眠っている音だ。
相手はすぐには入らない。
私が一歩進んでから、同じ距離で入ってくる。同じ距離は、慣れの距離だ。慣れは理由を持っている。
私は電気を点けた。
蛍光灯が一度だけ瞬く。瞬いた光が背表紙の金箔を薄く照らす。照らされた金箔は、光の下でだけ真面目に見える。
レジの鍵を開けた。
鍵の冷たさが指に残る。残る冷たさは、昨日の終わりの冷たさだ。
釣り銭を揃えた。
硬貨の縁が指先を少し削る。削る感触は現実だ。現実の感触があると、余計なことを考えにくい。
相手はカウンターの前で止まった。
椅子に座らない。バッグを置かない。名乗らない。名乗らないまま、視線だけが机の上をなぞる。なぞり方が迷わない。
年は三十代の前半に見えた。
服は乾いている。けれど袖口だけが白い。白さは擦れだ。何度も洗った布の痕だ。痕は、繰り返した時間の痕だ。
「……その本、来ていますか」
声は低い。
短く、言い切らない。言い切らない声は、頼みの形をしているようで確認に近い。
私は即答しなかった。
即答すると、探す形になる。探す形は、預かる形に近い。預かる形は、この店ではやらないことになっている。
「何の本です」
言葉を返した。
返した言葉は線だ。線がないと、会話が店の外へ流れる。流れたら戻らない。
相手は少し間を置いた。
間が長い。長い間は、言葉を選ぶ間だ。選ぶのは言葉だけではない。言葉の外側の責任も選んでいる。
「布じゃないです」
それだけ言った。
布、という語が棚をよぎる。よぎるのは第2話の布装丁のせいだ。せい、と断定しない。私はよぎっただけにしておく。
「手で作ったカバーです」
声が少し低くなる。
低くなるが、体温は乗らない。体温が乗らない声は、言葉を守る声だ。
その言い方で、私は思い出した。
段ボールの底に残した一冊だ。
私は奥へ下がった。
足音が棚の間で吸われる。吸われる音は、店の音だ。
段ボールの蓋を開けた。
紙の匂いが立つ。新しくはない匂いだ。新しくない匂いは、人の手の匂いだ。
手作りのカバーが見えた。
布ではない。紙でもない。触ると少し柔らかい。柔らかいのに湿っていない。湿っていない柔らかさは、撫でられた柔らかさだ。
私は本を持ち上げた。
重い。重いのは紙の重さだけではない気がする。気がするだけだ。私は重さを数えない。
段ボールを閉じた。
閉じる蓋が少し歪む。歪みは何度も開け閉めした歪みだ。歪みがあると、私は自分の手を思い出す。思い出すが、語らない。
カウンターへ戻った。
相手の視線が机に落ちている。最初からそこを見ていたような視線だ。
私は奥の机に本を置いた。
中央ではない。光が当たりにくい位置だ。光が当たりにくいのは、見せ場を遅らせるためだ。遅らせるのは、私の癖だ。
「これですか」
私は聞いた。
聞き方は確認だ。答えは決まっている。
相手は頷いた。
頷きが小さい。小さい頷きは、声を使いたくない頷きだ。
私はカバーの縁に指を置いた。
縁が少し浮いている。浮いたところの糸が一本だけほつれている。ほつれは直そうとした痕ではない。ほどけたまま残されたほつれだ。
私はほつれを軽く押さえた。
押さえるが、直さない。直すと、私の時間が混じる。混じるのが嫌だ、とは言わない。言わない代わりに、指を離した。
相手は視線を落とした。
落とした視線が机の木目で止まる。木目を見ている人は、言葉を探している。
「処分されたくなかったんです」
言葉は短い。
理由は続かない。続かないのは、理由がひとつではないからだ。
私はペンを一本抜いた。
抜いたペンで、机の端の紙の反りを直した。反りは湿気の反りだ。湿気はさっきの白い空のせいでもある。
「処分されるのは、物じゃない」
私は言った。
続けなかった。続けると、価値判断になる。価値判断はこの店の商品じゃない。
相手の喉が動いた。
言葉を飲み込む喉の動きだ。
「……あの人の字が、残ってる」
字、という語が机の上に落ちる。
落ちた字は拾えない。拾えない字は、触れない方がいい字だ。
私はページを開かなかった。
開くと線が消える。線が消えたら、店の外へ流れる。流れたものは戻らない。
「開かない方がいい」
私は止めた。
止める言葉は短い。短い言葉は刃に見える。刃に見えても、これは拒絶ではない。境界の確認だ。
相手の手が動きかけて止まった。
止まった手が、自分の指を握る。握る指が少し白くなる。白くなるのは力だ。力は、怖さの形にも見える。
私は本を持ち直した。
重みを確かめるように両手で受ける。受けると、カバーの柔らかさが掌に移る。移る柔らかさが温度のように感じる。感じるだけだ。
その瞬間、感覚が重なった。
一瞬だけ、光が違って見える。違って見えるのは、スタンドライトの輪が浮かぶからだ。浮かぶ輪の中に、針の動く音がある気がした。
糸が引かれる音がする。
引かれるたびに、微かな鳴きが混じる。鳴きは金属の鳴きだ。針が布ではないものを通る鳴きだ。
私は呼吸が浅くなるのを感じた。
感じても顔は動かさない。動かすと相手が気づく。気づかれたら説明になる。説明はこの店に似合わない。
音の中に、笑い声が混じった。
短い笑いだ。機嫌のいい笑いではない。癖の笑いだ。癖の笑いは、第8話の相手の笑いに似ている気がする。気がするだけだ。
相手は気づかない。
本に手を伸ばしかけて止めた。止めた指が空中で迷う。迷う指は触れたい指だ。
私は本を机に戻した。
戻すとき、紙が机に当たって小さく鳴る。鳴る音は乾いた音だ。乾いた音は冬の音だ。
私は棚から包み紙を取った。
新品ではない。以前使った紙の切れ端だ。切れ端でも角が揃っている。揃っている紙は、私が揃えた紙だ。
本を包んだ。
包む動作は仕事だ。仕事は気持ちを含ませないための動作だ。含ませない動作があると、手が勝手に泣かない。
角を合わせた。
合わせた角を折り込む。折り込むと、紙の繊維がわずかに鳴る。鳴る音が耳に残る。残る音は慎重に触る音だ。
「開けてもいいですか」
相手が聞いた。
聞き方が静かだ。静かな聞き方は、覚悟を隠す聞き方だ。
私はすぐに答えなかった。
答えないまま、最後の折り目を押さえた。押さえる指先が少し冷える。冷える指は、さっきの音のせいでもある。
「家で」
私は言った。
包みを相手の方へ滑らせる。滑る紙が机の木目を撫でる。撫でる音が残る。残る音は、触れたくなる音だ。
「ここでは開けるな」
言葉を足した。
足した言葉は、線を残すための言葉だ。線が残ると、私は仕事に戻れる。
相手は包みに触れたまま動かなかった。
動かないのは、受け取った瞬間に何かが終わってしまう気がするからだ。
相手が言いかけた。
口が開いて、すぐ閉じる。閉じる口は言葉を戻す口だ。戻す口は、言葉を守る口でもある。
「……怖いんです」
相手が、ようやく言った。
怖い、という感情語が遅れて出る。遅れて出るのが、この人の順番だ。
私は頷かなかった。
頷くと慰めになる。慰めはこの店の仕事ではない。私は慰めの代わりに、包みの端をもう一度押さえた。押さえる動作は現実だ。
「怖いなら、怖いまま持て」
私は言った。
言い方は淡々としている。淡々とさせるのは、救いを置かないためだ。救いを置くと、相手の覚悟を奪う。
相手が包みを持ち上げた。
持ち上げる手に力が入る。入った力で紙が少し鳴る。鳴る紙の音が、さっきの糸の音と重なる気がする。気がするだけだ。
相手は礼をしなかった。
礼をしない代わりに目を伏せた。伏せた目が、包みの角を見ている。角を見ている人は落とさないようにしている。
扉へ向かう足音がした。
足音が軽くない。軽くない足音は迷いを連れている足音だ。
相手が扉の前で止まった。
止まって、棚の方を見た。見る棚は店の中央の棚ではない。少し奥の、擦れた背が混じる棚だ。
「その……表紙が擦れて、題名が読めない本」
相手が言った。
言い方が遠回りだ。遠回りは、触れてはいけないところを避けている。
私は初めて視線を動かした。
動いた視線が相手の横顔に当たる。横顔の口元が固い。固い口元は、言葉を切る準備の口元だ。
「見たことがあります」
相手が言った。
私はすぐに聞いた。
「どこで」
相手は首を振った。
振り方が小さい。小さい首振りは、答えを持っている首振りだ。
「母が……それを捨てられなくて」
相手はそこで言葉を切った。
切った言葉の後ろが空く。空いた後ろに別の話が見える。見えるが、私はそこへ手を伸ばさない。伸ばすと預かる形になる。
私は追わなかった。
追わないことが私の選択だ。選択は、語らない形でしか残せない。
相手は扉を開けた。
鈴が鳴る。今度は普通の鳴り方だ。普通の鳴り方は客の鳴り方だ。客の鳴り方が店を戻す。
扉が閉まった。
閉まった扉の向こうで、包みがどんな音を立てるかは分からない。分からないものは店の外にある。
私はカウンターへ戻った。
戻る途中で、机の上の紙の反りが気になって直した。直す反りは、今の会話を薄くするための動作だ。薄くしないと店の中が重くなる。
仕入れ帳を開いた。
開いたページに、昨日の空白がある。空白は埋められる。埋められるのに、埋めないと決めた空白だ。
私はペンを置いた。
置いたペンの音が小さい。小さい音がよく響く。響く音は、店が静かだからだ。
窓の外に影が動いた。
動く影が止まる。止まる位置が、さっきの相手とは違う。違うのに似ている。似ているのは、扉に近づく足の運びだ。
扉は開かない。
開かないのに、気配がこちらを見ている。
私は視線を上げなかった。
上げなくても分かる。分かるのは、鈴を鳴らさない入り方を知っている相手だからだ。
「渡したね」
声が外から聞こえた。
声は小さい。小さいが距離は近い。近い声は境界を侵す声だ。
私は返事をしなかった。
返事をすると会話が確定する。確定した会話は、客の会話より面倒だ。
「次は、帳面」
相手が言った。
帳面、という言葉で、私の手が一瞬止まった。止まるのは稀だ。稀な動きは、相手に勝ちを渡す。
私は手を動かした。
動かして、レジ横の帳面の角を揃えた。揃える動作は、帳面が売り物ではないことを確認する動作だ。
「帳面には触るな」
私は低く言った。
低く言うと、言葉が刃に見える。刃に見えても、これは拒絶ではない。境界の確認だ。
外の相手が笑った。
笑いは短い。短い笑いは、機嫌がいい笑いではなく癖の笑いだ。
「もう欠けてる。だから見える」
欠けてる、という言葉が空気を変えた。
変わった空気が棚の背を硬くする。硬くなると店の音が減る。減った音の中で、言葉だけが残る。
私は引き出しの鍵を握った。
握った鍵が掌の熱を奪う。奪われた熱の代わりに、指の関節が白くなる。白くなるのは力だ。力は落ち着きの形にも見える。見えるが、落ち着いているとは限らない。
私は立ち上がらなかった。
立ち上がると、相手の距離を認めることになる。認めた距離は戻らない。
外の気配が少し離れた。
離れる気配が扉を押さえたのか、鈴は鳴らない。鳴らない鈴が、今日の順番を乱す。
店の中が静かになった。
静かになると、さっきの糸の音が戻ってきそうになる。戻ってきそうになるだけだ。私は、戻ってくる前に手を動かす。
棚の角を指で撫でた。
撫でた指に埃がつく。埃がつくと、現実が指先に残る。残る現実があると、余計な輪郭が薄くなる。
私は棚を見ない。
見ないまま、仕入れ帳を閉じた。閉じるのも選択だ。選択は答えではない。
私は帳面を引き出しの中へ押し込まなかった。
押し込むと隠す形になる。隠す形は、相手の言葉に反応した形になる。反応した形を残さないために、私は帳面をそのまま置いた。
帳面の端を指で揃えた。
揃えた端が机の線と重なる。重なる線が、店の線だ。
今日の仕事は、まだ始まったばかりだ。
始まったばかりなのに、次が来ると言われた。来る、と言われた時点で、もう来ている。
私はペンを取り、仕入れ帳の今日の欄に日付を書いた。
書いた日付が、どこか欠けているように見える気がした。気がしただけだ。私は線を引かない。線を引くと、そこが穴になる。
ペン先を紙で拭いた。
拭いた紙が黒くなる。黒くなった紙は捨てる。捨てる紙は、預からない紙だ。
紙屑をゴミ箱に落とした。
落ちた紙が乾いた音を立てる。乾いた音は冬の音だ。冬の音が、袖口の擦れを思い出させる。思い出すが、私は追わない。
残るのは答えではない。
残響だ。
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