第8話「聞かない代償」— 店主の過去を知る人物
開店の直後は、鈴が鳴るまでが店の時間だ。鈴が鳴るまでの間に、棚の背表紙が落ち着く。落ち着くと、店が店になる。
その日、鈴は鳴らなかった。
扉の蝶番が静かに動き、風が少しだけ入った。入った風が毛布の端を揺らし、揺れが止まる前に扉が閉じた。閉じた扉の音も薄い。薄い音は、押さえられた音だ。
私は視線を上げなかった。上げる前に、相手の手つきが見える。扉の縁を押さえ、鈴の揺れを殺す動きだった。殺す動きは、この店の勝手を知っている動きだ。
「客ならベルを鳴らせ」
私は帳面の横に置いたペンを拭き、机の上の紙の反りを直しながら言った。言い方は硬い。硬くすると、距離が戻る。
「相変わらずだ」
相手が笑った。笑いは短い。短い笑いは、機嫌がいい笑いではなく、癖の笑いだ。
私は作業を続けた。釣り銭を揃える。レジのロール紙を確認する。棚の角を指で撫でる。撫でた指に埃がつく。埃がつくと、相手の存在が薄くなる。薄くならない相手もいる。
カウンターの前に影が落ちた。影は細い。けれど、立ち方が軽くない。軽くない立ち方は、慣れだ。慣れは理由を持っている。
「これ、届いた?」
影の持ち主が小さな封筒を持ち上げた。封筒は薄い。薄い紙なのに、角がきちんと折られている。折り目が揃っている紙は、誰かが丁寧に扱った紙だ。
差出人欄は空白だった。空白は意図だ。意図は、責任を逃げるためではなく、責任を移すためにも使われる。
私は答えなかった。答えると、会話が確定する。確定した会話は、引き返しが難しい。
封筒の紙質が目に入った。白いのに、白すぎない。繊維が少し見える。触ると指に引っかかりそうな質だ。以前、同じ手触りの便箋を見た気がする。気がするだけだ。確かめるには触る必要がある。触ると来るものがある。
相手は封筒を指先で弾いた。弾くと、紙が乾いた音を立てる。乾いた音は冬の音だ。冬の音は、店の中でよく響く。
「鍵を渡して。もう十分だ」
相手が言った。言い方が淡々としている。淡々としている言い方は、頼みではなく確認に近い。
「十分じゃない」
私は言った。短く言うと、言葉が刃物に見える。刃物に見えても、これは拒絶ではない。境界の確認だ。
「まだ終わらせ方を選んでるつもり?」
相手が言った。終わらせ方、という言葉が店の空気を少し変えた。変わった空気は、棚の背表紙を硬くする。硬くなると、音が減る。減った音の中で、言葉が残る。
私は封筒を見ない。見ないで、レジ横の帳面を閉じた。帳面を閉じると、仕事が終わる合図になる。合図を出すと、相手はそこで止まるはずだ。止まらない相手もいる。
「選んでない」
私は言いかけて止めなかった。止めなかったのは、口が先に動いたからだ。
「避けてるだけだ」
言ってしまってから、私は口を閉じた。閉じた口は戻らない。戻らない言葉だけが、机の上に残る。
相手が少し笑った。笑いは優しくない。優しくない笑いは、正しさの側に立っている笑いだ。正しさの側は、いつも人を疲れさせる。
「それ、同じじゃない」
相手が言った。私は返さなかった。返すと、議論になる。議論は勝ち負けになる。勝ち負けは店にいらない。
相手が封筒をカウンターに置いた。置く動作が軽い。軽いのに、置かれた瞬間、空気が変わる気がした。
消毒液の匂いが鼻の奥に刺さるような気がした。刺さる匂いは白い。白い匂いの奥に、布が擦れる音がある気がした。カーテンの布。白いカーテン。夜の蛍光灯。硬貨が落ちる音。自販機の硬貨音が混ざる。
混ざるだけだ。今、店には消毒液もカーテンもない。あるのは紙と木と埃と、外の冷えだ。
私は封筒に触れなかった。触れないと、相手は封筒を引っ込める。引っ込めない相手もいる。
「触らないの」
相手が言った。私は返事をしなかった。返事をすると、触らない理由を説明することになる。説明はこの店の外へ流れる。流れたら戻らない。
相手は封筒を指で押さえ、少しだけこちらへ滑らせた。滑る紙がカウンターの木目を撫でる。撫でる音が耳に残る。残る音は、触れたくなる音だ。
「じゃあ、これだけ置いていく」
相手が言った。
「預からない」
私は即座に言った。言葉を置く。置いた言葉は動かない。動かない言葉がないと、線が溶ける。
「預けるんじゃない。置くんだ」
相手は言って、封筒を持ち上げた。持ち上げて、棚の方へ向かった。向かう方向が上段だった。上段は売り物の棚ではない。売り物でない場所に置かれるものは、店の外のものだ。
私はカウンターから出なかった。出ると、店の中で追いかける形になる。追いかける形は、相手に主導権を渡す。
相手は脚立も使わず、背伸びで最上段に手を伸ばした。伸ばした指先が、布装丁の背の近くに届く。届いたところで、封筒が滑り込む。滑り込んだ封筒が、棚板と本の間に挟まった。
私の視線が、そこに一瞬だけ吸われた。吸われる視線は、止められない。止められないほど、そこは私の線の内側に近い。
「この店のルール、まだ効いてる?」
相手が笑った。笑いは乾いている。乾いた笑いは、扉を押さえたときと同じだ。慣れが人を雑にする。
私は何も言わなかった。言うと、ルールの穴を認めることになる。認めた穴から、相手が入ってくる。
鈴が鳴った。
今度は普通の鳴り方だった。普通の鳴り方は、客が扉を押した鳴り方だ。鳴り方が普通だと、店が戻る。
老婦人が入ってきた。コートの襟を整えながら、足元を見ている。足元を見ている人は転ばない。転ばない人は時間を急がない。
「こんにちは」
老婦人が言った。声が柔らかい。柔らかい声は店に合う。店に合う声は、棚の背表紙を緩める。
相手はすっと道を譲った。譲り方が自然だ。自然な譲り方は、礼儀を知っている譲り方だ。礼儀を知っている人が、なぜ扉の鈴を殺すのか。そこに意図がある。
私は仕事の顔に戻った。戻るのは簡単だ。簡単なのは、仕事が道具だからだ。
老婦人は短歌集の棚で止まり、一冊を選んだ。選ぶ手つきが丁寧だ。丁寧な手つきは、紙の時間を尊重している。
「ここは落ち着くわね」
老婦人が言った。落ち着く、という言葉は好意だ。好意は時々、店を重くする。重くしても、受け取るしかない。
「ありがとうございます」
私は言った。言うだけで十分だ。十分以上言うと、押し付けになる。
老婦人が会計を終え、包みを受け取った。受け取る指が少し冷えている。冷えた指は冬だ。冬は短歌に合う。
老婦人が帰ると、鈴が鳴って消えた。消えたあと、相手の気配がまた戻る。戻る気配は、さっきより近い。
「落ち着かせてるだけ」
相手が小さく言った。私は聞こえた。聞こえないふりをした。ふりは選択だ。選択は人を守ることもある。
相手はカウンターの前に戻った。戻るときの足音が軽い。軽い足音は、悪意ではなく、遠慮のなさだ。遠慮がないのは親しさの形に見える。見せかけの親しさもある。
「次は、あの人が来る」
相手が言った。あの人、という指し方が具体的だ。具体的な指し方は、私の中の名前に触れる。
私の眉が動いた。動くのは稀だ。稀な動きは、相手に勝ちを渡す。
「来させるな」
私は言った。言葉が少し速くなる。速い言葉は余裕がない。
「渡す相手を決めたのはあなた」
相手が言った。声が静かだ。静かな声は突き刺さる。突き刺さるのは言葉が少ないからだ。
私は返さなかった。返すと、渡す理由を語ることになる。語ると、過去が輪郭を持つ。輪郭を持つと、今が動く。動くのは怖い。怖い、とは言わない。手が冷える。冷える手で鍵を握ると、鍵の冷たさが同じになる。
相手は去る準備をした。コートの襟を直さない。直さないのは、寒さを気にしていないからだ。気にしていないのは、ここに長くいないからだ。
扉へ向かいかけて、相手は引き出しの前で止まった。止まって、鍵穴を指で叩いた。叩く音は小さい。小さい音が、店の中ではよく響く。
「壊すこともできる」
相手が囁いた。囁きは近い。近い囁きは、距離を侵す。
私は立ち上がらなかった。立ち上がると、相手の距離を認めることになる。認めないために、私は手元の紙の反りをまた直した。直す動作は無意味に見える。無意味な動作が、人を現実に繋ぐ。
相手は扉を押さえ、鈴を鳴らさずに出ていった。出ていく背中が細い。細い背中は、なぜか重い。重いのは、残したものがあるからだ。
扉が閉まっても、封筒は最上段に残る。残った封筒は、預かっていないのに、店の中にある。あるものは、私に責任を寄せる。
私は棚の上段を見ない。見ないまま、引き出しの鍵を握った。握った鍵が掌の熱を奪う。奪われた熱の代わりに、空白の帳面が頭に戻る。
今日の仕事は、まだ始まったばかりだ。始まったばかりなのに、次が来ると言われた。来る、と言われた時点で、もう来ている。
私はペンを取り、仕入れ帳を開いた。開いたページに、昨日の空白がある。空白は埋まらない。埋めないと決めた空白だ。
私はページを閉じた。閉じるのも選択だ。選択だけが残る。残るのは答えではない。残響だ。
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