第7話「買う理由」— 売るはずの客が“買って帰る”

 棚替えの朝は、埃が先に動く。棚の前で本を抜くと、背表紙の上の薄い粉が舞う。舞った粉が光に浮く。浮いた粉は、季節の境目を見せる。


 私は脚立を出し、上段の軽い本から箱に入れた。旅行記。薄い随筆。夏の装丁の文庫。紙が薄いと、指の熱がすぐ移る。移る熱は長く残らない。残らないものから片づける。


 段ボールに本を並べ、ガムテープで封をした。テープが裂ける音が店内で小さく響く。響いた音が棚の奥へ沈む。沈んでいくと、店がもう一段静かになる。


 仕入れ帳はレジの横にある。開かないまま置いている。開かない帳面は、存在だけで仕事を締める。締めるのは数字だ。数字は感情を運ばない。


 私は厚い装丁を前へ出した。背が硬い本は、冬の棚に合う。硬さは安心に近い。安心は重い。重いものは、人が寒い日に手に取る。


 鈴が鳴った。


 扉が開き、外の冷えが入る。入った冷えが毛布を揺らし、すぐ戻る。戻った毛布の下から、スーツの男が入ってきた。


 若い会社員。二十代後半から三十代前半。髪が整っている。整いが崩れていないのに、目の下が少し落ちている。落ちているのは寝不足か、気持ちの重さだ。


 男は紙袋を抱えている。紙袋が新しい。新しい紙袋は、買った場所の匂いが残る。残る匂いは、生活の匂いではない。


「買取、やってますよね」


 男は言った。声は明るい。明るさが薄い。薄い明るさは、笑う理由が足りない明るさだ。


「やってます」


 私は答えた。言葉を増やさないと、相手が話す。


「全部、売りたいです。こういうの」


 男は紙袋から本を出した。自己啓発。ビジネス書。背表紙のタイトルが断定的だ。断定は強い。強い言葉が並ぶと、店の静けさとぶつかる。ぶつかると、空気が硬くなる。


「全部、読んでないです」


 男は笑った。笑いが軽い。軽い笑いは、失敗を小さく見せる笑いだ。小さく見せても、本は重いままだ。


 私は本を受け取り、机へ置いた。置くとき、背が揃う。揃う背は、買ったときの気合いを見せる。気合いのまま読めなかったのは、時間か、心か。


「読まない本は、売れます」


 私は言った。慰めない。責めない。事実だけ置く。置くと、会話が落ち着く。


「じゃあ、助かります」


 男は言った。助かる、という言葉が出ると、売る理由が見える。理由は片づけではなく、逃げだ。逃げるのは悪いことではない。逃げないと生き残れない日もある。


 私は状態を見た。折れ。焼け。書き込み。帯の有無。中身を読んでいないなら、状態はいいはずだ。いいはずなのに、表紙の角が少し傷んでいる。傷みは持ち歩きの傷みだ。持ち歩いたのは読まないままでも、必要だったからだ。


 査定を進める間、男は店内を歩いた。歩き方が速い。速い歩き方は落ち着かない。落ち着かない人は、棚の前で止まっても、目が止まらない。


 男の視線が、断定の棚から外れる。外れて文学棚に寄った。寄り方が慎重になる。慎重になるのは、正しさの棚から離れたからだ。


 男は古い随筆集の前で足を止めた。背表紙が地味だ。地味な背は、買う人が少ない。少ないのに残っているのは、残される理由があるからだ。


 男は随筆集を一冊抜いた。抜く指が少し震えた。震えは寒さではない。寒さなら肩が先にすくむ。指が先に震えるのは、気持ちが先に動いている。


 男はページを開き、すぐ閉じた。閉じたのは内容が難しいからではない。難しいなら、眉が動く。眉は動いていない。動いていないのに閉じるのは、触れただけで十分だったからだ。


 私は査定を続けながら、随筆集が戻される棚を見た。見た瞬間、布団の重さが胸に落ちてくる気がした。日曜日の昼。起きる理由がない時間。窓の光が細かい粒になって床に落ちる。粒がゆっくり動く。動くのは雲だ。雲が動くと、部屋の形が変わる。


 そんな気がしただけだ。匂いも音も、実際には店の中にある。あるのは紙と埃とガムテープの残り香だ。


 私は随筆集を棚に戻したまま、値段の紙を作った。数字を書き、合計を出す。合計は人を切る。切ると、手放せる。


「これで、合計です」


 私は紙を男へ滑らせた。男は数字を見た。目が一瞬だけ細くなる。細くなるのは期待より低かったからか、予想どおりだったからか。どちらでも、次の動きが出る。


「……ありがとうございます」


 男は言い、現金を受け取った。受け取った札を財布に入れる動きが丁寧だ。丁寧なのに速い。速さは、ここに長居しない速さだ。


 男は出口へ向かった。鈴の手前で一度止まる。止まった背中が、少しだけ丸くなる。丸くなるのは重さが残っているからだ。残っているのは本ではない。


 男は振り返り、棚の方を見た。見たのは随筆集のあたりだ。視線がそこで止まる。止まる視線は、欲しいものが決まった視線だ。


「さっきの随筆……いくらですか」


 男は言った。声が小さくなる。小さくなる声は、欲しいと言う声だ。欲しいと言うのは、恥ずかしいときがある。


 私は棚の値札を指した。値札は小さい。小さい文字でも、この店では通じる。通じるのは、店が急がせないからだ。


 男は値札を見て、少し迷った。迷いは短い。短い迷いは、もう決めている迷いだ。決めているのに、最後の一押しが欲しい。


「これ、ください」


 男は言った。言ったあと、息が一つ抜けた。抜けた息は軽くなる。軽くなった顔は、初めて今日の顔になる。


 私は随筆集を包んだ。紙で包む。角を揃える。テープは使わない。テープを使うと、剥がす手間が残る。手間は、読む前の壁になる。


 レジで会計をしながら、男が言った。


「これ、読むと……変わりますか」


 変わる、という言葉は大きい。大きい言葉は、人を疲れさせる。疲れた人ほど大きい言葉に頼る。頼ったあと、裏切られる。


 私は釣り銭を渡し、言った。


「変わりたいなら、変わる」


 言葉を短くする。短くすると、名言になりにくい。名言になると、相手が持ち帰るのは言葉だけになる。言葉だけは軽い。軽いものでは変わらない。


「読むだけでは変わらない」


 私は続けた。続けても説教にはしない。事実だ。事実は突き放さない。突き放さないから、相手が立っていられる。


 男は苦笑した。苦笑のあと、口の端が少し上がった。上がり方が自然だ。自然な上がり方は、久しぶりに自分の顔を使った上がり方だ。


「そうですよね」


 男は言った。言って、随筆集を胸に抱えた。抱えるのは守るためだ。守りたいのは本か、そこにある生活の重さか。


 男は出ていった。鈴が鳴る。鳴って消える。消えたあと、店の中に随筆集の抜けた隙間が残る。隙間は小さい。小さいのに、今日の店の形を変える。


 私は午後の仕事を続けた。客が来る。値段をつける。棚に戻す。閉店の時刻が来る。シャッターを下ろし、鍵を回す。金属音が短く鳴る。


 私はレジ横の帳面を開いた。仕入れ帳だ。日付の欄に、今日の日付を書く。冊数を書く。売れた冊数ではない。入った冊数でもない。私はいつも、私が数えやすい方を数える。数えやすい方だけが残る。残るものは偏る。


 ペン先を数字の欄に置く。置いた瞬間、手が止まった。止まるのは迷いではない。迷いなら、ペン先が紙をこする。こすらないまま止まるのは選択だ。


 私は今日の欄を空白にした。空白は目立つ。目立つのに、誰にも見せないなら意味がない。意味がないはずなのに、空白は残る。残る空白は、私が見てしまう空白だ。


 帳面を閉じ、引き出しの鍵を握った。鍵は冷たい。冷たい鍵は、引き出しの中の時間を守っている。守っているのは私か、別の誰かか。決めない。


 外で、誰かが店の前を通る音がした。靴底が路地を擦る音。音が止まる。止まると、空気が変わる。変わった空気は、呼ばれる前に肌に触れる。


「……店主」


 私の名ではなく、呼び方で呼ぶ声だった。呼び方は距離だ。距離が近い呼び方は、勝手に近づいてくる。


 私は振り向かなかった。振り向くと、目が合う。目が合うと、話が始まる。始まる話は、店の外に出る。


「まだ持ってるんだね」


 声が続いた。鍵、と言わない。言わないまま伝わる。伝わるのは、相手が私の引き出しを知っているからだ。


 私はカウンターの端に手を置いた。置く手は支えだ。支えがないと、体が一歩出る。一歩出ると、相手の方へ行く。行くと、線が崩れる。


 入口のガラス越しに、影が見える。影の形が、見覚えのある形に近い気がする。近いだけだ。確かめるには扉を開ける必要がある。開ければ鈴が鳴る。鳴ったら、店がその人を入れる。


「鍵、まだ持ってるんだね」


 相手はもう一度言った。言い方が優しくない。優しくないのに、笑っている気配がある。笑いが温度を持たない笑いだ。温度のない笑いは、用件だけを運ぶ。


 私は返事をしなかった。返事をしないのは無視ではない。返事をすると、同意か否定になる。同意も否定も、どちらも次の言葉を呼ぶ。


 店の中は静かだ。静かだから、外の音がよく聞こえる。遠くの車の音。風の音。鈴の前の沈黙。


 私は引き出しの鍵を握ったまま、指を少しだけ緩めた。緩めると、鍵の冷たさが掌から逃げる。逃げた冷たさの代わりに、赤いシミのざらつきが思い出のように戻る気がした。


 私は扉に向かわなかった。向かわないまま、今日の空白の帳面だけが頭に残る。残るのは答えではない。残響だ。

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