第6話「約束の回収」— 返しそびれた貸本
開店前の路地は、まだ眠っている。眠っている路地は音が少ない。音が少ないと、紙の匂いが遠くまで届く気がする。
私はシャッターの鍵を回し、金属が擦れる音を聞いた。音は短い。短い音のあと、静けさが戻る。戻った静けさの中に、昨日の小包があった。
店先の床に、小さな包みが置かれている。紙で包まれ、紐がきつく結ばれている。結び目は崩れていない。崩れていない結び目は、置いた人が慌てていなかった証拠だ。
私は小包を拾い上げた。冷たい。紙が外の冷気を吸っている。吸った冷気が指先に残る。残る冷気は、置かれていた時間だ。
店に入る。鈴を鳴らさないように扉を閉める。扉が閉まると、店の匂いが戻る。戻る匂いは、いつも同じで、少しだけ違う。季節が混ざるからだ。
カウンターの上に小包を置き、紐に指をかけた。結び目は固い。固い結び目は、ほどくのに時間がかかる。時間がかかるものは、ほどく前に呼吸が一つ必要になる。
私は紐をほどいた。ほどけた紐が紙に落ちる。紙が擦れる。擦れる音が、店の奥まで届く。奥まで届いた音は、棚の背表紙を少しだけ目立たせる。
包み紙を開く。中身は薄い文庫が一冊だった。表紙の角が擦れている。背が少し曲がっている。持ち歩かれた本だ。持ち歩かれた本は、持ち主の癖を吸う。
表紙の角に、小さな赤いシミがある。インクではない。インクの赤より鈍い。鈍い赤は飲み物か、飴の色か。色だけでは決められない。
文庫の上に付箋が貼られていた。黄色い付箋。文字は黒い。短い。
返して。
差出人の名前はない。宛名だけが私の名前だった。私は付箋を剥がさなかった。剥がすと、言葉が軽くなる。軽くなると、返す理由が薄くなる。薄くなるものを、私はまだ扱いたくなかった。
文庫を手のひらで押さえる。押さえると、赤いシミのざらつきが指に当たる。乾いたざらつきだ。乾いたざらつきは、時間の経ったしみだ。
私はその文庫をカウンター下にしまった。しまう場所は決めている。鍵のかかる引き出しではない。鍵をかけると、重くなる。重いものはまだここに置かない。置いたら、店が変わる。
棚を拭く。レジを起動する。釣り銭を揃える。仕入れ帳に日付を書く。ペン先が紙に引っかかる。引っかかりは、小さくても気になる。気になることは、今日の空気に混ざる。
鈴が鳴った。
開店の時刻より少し早い。早い来客は、用件が整っていないことが多い。整っていない用件は、言葉が追いつかない。
扉が開き、冷たい空気が入った。入った空気に乗って、甘い匂いが少しだけした。香水ではない。甘い飲料の匂いに近い。近いだけだ。
若い女性が入ってきた。大学生くらい。息が切れている。走ってきたのか、早歩きだったのか。頬が赤い。赤い頬は寒さの赤だ。
「ここ、古書の……」
彼女は言いながら、視線を落ち着かせられない。落ち着かせられない目は、棚を見ていない。床とカウンターと自分の手元を行ったり来たりする。
手にはビニール袋がある。袋の表面が濡れている。濡れは雨だ。けれど、彼女は濡れに気づいていない。気づいていない濡れは、今の頭が別のところにある証拠だ。
「買取ですか」
私は短く聞いた。短く聞くと、相手が答えやすい。
「いえ、たぶん……売るんですけど、その前に」
彼女は言い直した。言い直しは迷いだ。迷いは用件の中心に近い。
彼女はビニール袋から文庫を出した。帯が外れたままになっている。帯がない文庫は、家で読まれた文庫だ。家の中で帯は邪魔になる。邪魔になるものが外されるのは自然だ。
彼女はその文庫を机の上に置いた。置くとき、角をぶつけない。ぶつけないのは、本を大事にしているからだ。大事にしているのは本か、そこに付いているものか。
「これ、貸したまま返ってこなくて」
彼女は言った。声が小さくなる。小さくなる声は、相手の反応を先に見ている声だ。
「売る前に、これだけ確認してほしくて。たぶん、同じシリーズで」
彼女は続けた。確認してほしい、という言葉は、買ってほしいと違う。買ってほしいは金の話になる。確認してほしいは形の話になる。形が整わないと、手放せない。
私は文庫を手に取った。背表紙を見る。巻数表記。出版社。版。奥付の年。見慣れたシリーズだ。棚にも同じ背がある。私は立ち上がり、棚から該当の巻を一冊抜いた。
彼女の持ってきた巻と、棚の巻を並べる。背の色。字体。装丁のわずかな違い。違いがない。版も同じだ。
「同じです」
私は言った。言うと、彼女の肩が少し下がった。下がる肩は安堵にも見えるし、次の困りごとの準備にも見える。
「良かった……いや、良くはないんですけど」
彼女は笑いかけて止めた。止めた笑いは、笑う理由がないからだ。理由がないのに笑うと、何かが壊れる。
私は価格表を見なかった。先に状態を見る。濡れ。折れ。ページのヨレ。書き込み。帯の有無。中古の価値は、まず物の状態だ。物の状態を見れば、余計な会話が減る。
彼女の文庫は角が少し潰れている。潰れは軽い。ページに書き込みはない。匂いも強くない。けれど、背がわずかに曲がっている。曲がりは持ち歩きの曲がりだ。
彼女は言いかけた。
「友達が……」
友達、という言葉が出た時点で、話は人のほうへ寄る。寄った話は店の範囲を超える。超えた話は、戻る場所が要る。
私は文庫の端を指で揃え、揃えたまま言った。
「貸した本は、戻らないこともあります」
事実だけを置く。置いた事実は冷たい。けれど、冷たさは残酷と違う。残酷は相手を切る。事実は境界を作る。
彼女の唇が、少しだけ噛まれた。噛まれる唇は、言葉を飲み込む前の形だ。飲み込むと、息が詰まる。詰まった息は、涙に近づく。近づけたくない。
私は文庫を閉じ、もう一冊、棚の巻も閉じた。閉じると、話がいったん止まる。止まると、相手が自分の言葉を選べる。
彼女は机の上の文庫を見ていた。目は動かない。動かない目は、そこにあるものが本ではなくなっている目だ。今は関係の象徴になっている。
「それでも、返したくて」
彼女は言った。返したいのは本か。返したいのは、貸したままになっている時間か。どちらかは決めなくていい。決めなくていいまま、形だけ作れることがある。
私はカウンターの下の文庫を思い出した。赤いシミのある文庫。付箋の言葉。返して。返す、という言葉は軽い行為だ。けれど、軽い行為は人生の重さを運ぶ。
私はまだ出さない。出すと、彼女の話と繋がる。繋がると、店の中で二つの返却が同じ色になる。色が同じになると、見分けがつかなくなる。
彼女の文庫の背を指で押さえる。押さえた指先に紙の硬さが返る。硬さの中に、赤いしみのざらつきが思い出のように混ざる。
その瞬間、甘い匂いが強くなった気がした。缶の甘さ。自販機の前の甘さ。冬の空気に混じる甘さ。蛍光灯の白さが、目の奥に入る気がした。
白い光の下で、誰かが笑っている気がした。笑い声は遠い。遠いのに、耳の近くにあるようにも感じた。感じただけだ。音を聞いたわけではない。
私は文庫の角を見た。角の潰れは、誰かが握った回数だ。握ると、そこにいた。そこにいた回数が、角になる。
彼女は私の手元を見ていない。見ていないのに、声だけが出た。
「友達、もう連絡つかないんです」
連絡がつかない、という言葉は、途切れた線だ。線が途切れると、返す先が消える。消えた先に返そうとすると、空へ投げることになる。空へ投げると、自分が痛む。
私は顔を上げずに言った。
「返すなら、返せる場所を作る」
私はそう言って、文庫を彼女の前へ戻した。戻すと、彼女の手が自分のものへ戻る。戻った手は、次に動ける。
「場所……?」
彼女の声が小さく震えた。震えは泣きではない。決める前の揺れだ。
「ここに置いていけとは言いません」
私は先に否定を置いた。否定を置くと、相手は身構えなくて済む。
「でも、返したいなら、返す形を決めてください」
形は道具だ。道具は感情を動かさない。動かさない道具は、仕事の範囲に収まる。
彼女は文庫を手に取った。指が表紙を擦る。擦る指は、迷いの指だ。迷いの指は、決めるまで同じところを触り続ける。
「手紙とか……?」
彼女が言った。言った瞬間、自分で恥ずかしそうに目を伏せた。伏せる目は、自分の気持ちを小さく扱おうとする目だ。
「短く」
私は言った。長い手紙は重くなる。重いものは持ち歩けない。持ち歩けないと、返せない。
彼女は鞄を探り、小さなメモ帳を出した。ペンも出した。出したペン先が震える。震えるのは寒さではない。決めるときの震えだ。
彼女は机の端で、短い文字を書いた。書く間、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は、言葉を削る。削った言葉は、必要な部分だけ残る。
書いた紙を折り、文庫の最初のページに挟んだ。挟むと、本が少し厚くなる。厚くなるのは紙一枚だ。紙一枚でも、形が変わる。
「元気なら、返さなくていい」
彼女は自分の書いた言葉を口に出した。出した声が、すぐ消える。消える声は、誰にも届かないかもしれない声だ。届かないかもしれないのに書くのは、返すためではなく、自分が戻るためだ。
彼女は顔を上げた。目の赤みは増えていない。けれど、目の焦点が少し整っている。整うのは、形が決まったからだ。
「これ、売らないです」
彼女は言った。言い切ると、背筋が少し伸びた。伸びた背筋は、持ち帰る覚悟の背筋だ。
彼女は続けた。
「もし、同じ版を探してる人が来たら……」
託す、という言葉がまだ出ていないのに、託したい空気が出る。託すと、責任が動く。動いた責任は、戻らない。
「預かりません」
私は即座に言った。言い方は硬くしない。硬くしないのは、彼女を拒絶しないためだ。拒絶ではなく線引きだ。
彼女の目が少し大きくなる。大きくなる目は、傷つく直前の目だ。直前で止める必要がある。
「代わりに、探し方なら教えます」
私は文庫を指で示した。奥付のページを開く。版の表記。ISBN。初版の記載。刷数。数字と漢字は感情を運ばない。運ばないから、今の彼女に渡せる。
「同じ版が欲しいなら、この番号で探すと早いです。古書サイトでも店でも、聞かれるのはここです」
私は短く言った。短く言うと、彼女は覚えられる。覚えられると、行動に変えられる。
彼女は頷いた。頷き方が今度は速い。速い頷きは、動く準備ができた頷きだ。
「ありがとうございます」
彼女は文庫を鞄に入れた。入れる前に、一度だけ表紙を撫でた。撫でるのは別れではない。確認だ。自分が持っているという確認だ。
彼女は立ち上がり、ビニール袋を持った。濡れた袋が指に貼りつく。貼りつくと、彼女が眉を寄せた。初めて濡れに気づいた顔だった。
鈴が鳴り、彼女は出ていった。扉が閉まり、店はまた静かになる。静かになると、机の上の紙の反りが目に入る。反りは小さい。小さい反りも、今日は気になる。
私は昼の間、普通に仕事をした。買い取り。値付け。棚の整理。常連の短い会話。短い会話は店の体温だ。体温があると、問いが薄まる。
夕方、店を閉めた。シャッターを下ろし、鍵を回した。鍵の音が短く鳴った。鳴った音のあと、路地の空気が外へ戻る。
私はカウンター下から、朝の文庫を取り出した。赤いシミ。黄色い付箋。返して。
私は付箋の端をつまみ、ゆっくりめくった。めくると紙が擦れる。擦れる音が、夜の店に響く。
付箋の裏に、さらに小さな文字があった。表の命令よりも小さい字だ。小さい字は、言い切れない字だ。
鍵はまだ?
私は指を止めた。止まった指先が、赤いシミのざらつきに触れる。触れると、甘い匂いがまた戻る気がした。戻るだけだ。私は匂いに名前をつけない。
引き出しの鍵の場所を、体が知っている。知っている場所へ、指が伸びる。伸びた指が、途中で止まる。止めるのは意志だ。意志は、遅れてやってくる。
私は文庫を閉じ、付箋を元に戻した。戻すと、文字が隠れる。隠れると、問いが一度だけ静かになる。
文庫をカウンターの端に置き、手を洗った。冷たい水。石けんの匂い。指先のざらつきが落ちる。落ちても、文字は落ちない。
私は引き出しの前に立った。鍵穴を見る。見ても、鍵は差し込まない。差し込むと回る。回ると開く。開くと、出てくる。出てきたものは戻らない。
私は引き出しに手を置き、すぐ離した。離す動作は、何もしない選択だ。何もしない選択も、選択の一つだ。
カウンターの上の文庫が、紙の重さでわずかに反っていた。反りは小さい。小さい反りが、返してという言葉を立たせる。
私は照明を落とし、店の奥を暗くした。暗くすると、目に入るものが減る。減ると、選べるものも減る。減った中で、今日は開けないと決めた。
鍵はまだ、という問いだけが残る。残った問いは、答えではなく残響になる。
私は最後に、カウンターの上の文庫を布で覆った。覆うのは隠すためではない。埃を避けるためだ。埃を避けるのは生活の技術だ。技術だけは、迷わずに使える。
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