第5話「借りを作らない」— 代行業者と“引き取りの倫理”

 午前の路地に、軽トラの音が入ってきた。エンジンの震えが壁に当たり、古い看板を小さく鳴らす。鳴った音はすぐ消える。消えても、空気だけがざらついた。


 私はカウンターから入口を見た。店先に白い軽トラが止まっている。荷台には段ボールが積まれていた。段ボールの角が潰れている。潰れた角は、積み下ろしの回数だ。


 運転席から男が降りた。四十代前後。体つきは固い。固い体つきは、動きがまっすぐになる。男は軍手をはめている。軍手の表面が毛羽立っている。毛羽立ちは、何かを運び続けた手だ。


 男は段ボールを一つ、抱えた。抱え方が慣れている。慣れている抱え方は、重さを測らない。測らないまま運ぶ。


 店の静けさに、外の音が混ざる。ガムテープが裂ける音。段ボールが擦れる音。靴底が濡れた路地を踏む音。音が多いと、店の匂いが少し引っ込む気がする。


 私は入口の毛布に手を伸ばし、少しだけ位置を直した。毛布はずれていない。けれど、直した。直すと、自分の動きが揃う。揃うと、余計なものが入ってこない。


 鈴が鳴った。


 男は段ボールを抱えたまま入ってきた。段ボールの底が少し湿っている。湿りは雨ではない。荷台の湿りが移った湿りだ。


「お邪魔します」


 男はそう言った。声は丁寧だった。丁寧な声は仕事の声だ。仕事の声は、相手を人として扱いながら、目的を優先する。


 男は段ボールを床に置いた。置くとき、床にぶつけない。ぶつけないのは、壊れるものが入っているからではない。癖だ。癖は、職業の中で作られる。


 男は胸ポケットから名刺入れを出した。名刺入れは黒い。角が擦れて白い。白い角は、何度も出し入れした角だ。


 名刺が差し出される。紙が少し厚い。印刷がはっきりしている。会社名。担当者名。電話番号。肩書きに、遺品整理と書いてある。文字は整っている。整った文字は、現場の荒さを隠す。


「まとめてお願いできればと思いまして。大量なんですが」


 男は言った。大量、という言葉を先に置いた。先に置くのは、こちらの判断を急がせるためだ。急がせると、受けてもらえる確率が上がる。


「量より中身です」


 私は名刺を見て、いったん返した。名刺を預からないのは線引きだ。名刺を預かると、関係が伸びる。伸びた関係は、断りにくくなる。


 男は一瞬だけ笑った。笑い方が軽い。軽い笑いは、相手の言葉を褒めるときに使う。


「そういう店、好きです」


 男は言いながら、棚を見た。目が棚を滑る。滑り方が値踏みの滑り方だった。値踏みは悪いことではない。仕事だからする。仕事だからする目は、優しくはならない。


 私は査定机へ案内した。男は段ボールを二つ、机の横に置いた。置くとき、段ボールの側面に手を当てる。側面を押さえるのは、角が潰れないようにするためだ。潰れないようにする気遣いは、本に向けたものではない。段ボールの中身全体に向けたものだ。


「全部、処分で」


 男は言った。処分という言葉は速い。速い言葉は軽い。軽い言葉の中に、重いものが混じることがある。


 私はガムテープを切った。刃がテープを裂く音がする。音は乾いている。乾いた音は手元を冷やす。


 中身は揃いの全集が多かった。背の色が同じ。金の文字が並ぶ。並ぶ文字は、揃えた年月だ。揃えた年月は、誰かの生活の棚を作っていた。


 古い辞書も出てきた。背が割れている。背が割れている辞書は、よく引かれた辞書だ。よく引かれた辞書は、言葉に迷った時間を持っている。


 それらに混じって、一冊だけ違うものがあった。手作りのカバーがかかっている。布のカバー。布の端が少しほつれている。ほつれが外へ向いていない。ほつれを内側へ押し込んだ跡がある。押し込むのは、守る癖だ。


 男はその一冊を見ていないふりをした。見ていないふりをするのは、見てしまうと扱いが変わるからだ。扱いが変わると、段取りが変わる。段取りが変わると、時間が伸びる。


 私はその本を手に取った。手に取ったとき、布の柔らかさが指に残る。残る柔らかさは、手の温度に反応する柔らかさだ。反応するものは、誰かが長く触ったものだ。


 私はカバーを外した。外すとき、布が擦れる音が小さく鳴った。音は小さいのに耳に残る。残るのは、店が静かだからだ。


 紙の匂いが立った。新しい匂いではない。古い紙にインクが染みた匂い。匂いが立つと、机の上の空気が変わる。変わった気がした。


 机の上に、スタンドライトの輪が見えた気がした。光の輪が紙の上に落ちている。輪の外側が暗い。暗いところに、手が動く影がある。影が紙を押さえ、ペンが走る。ペン先が紙に触れる感触が、指に移った気がした。


 私は本を開かなかった。開くと、内容に入る。内容に入ると、仕事が変わる。仕事が変わると、線引きが揺れる。


 私は本を閉じたまま、机の端へ置いた。置くと、輪の光も影もほどける。ほどけても、布のほつれだけが残る。


 男は言った。


「これも全部で大丈夫です。まとめてお願いします。来週、別の現場があるんで」


 来週という言葉が入る。入れるのは、こちらの時間を使うためだ。使わせると、断りづらい。


 私は値段を計算した。全集は巻数が揃っている。揃いは強い。けれど、全集は重い。重い本は動かしづらい。動かしづらい本は回りが遅い。回りが遅いものは値が伸びない。


 辞書は状態が悪い。悪いものは買取対象から外れることがある。私はその線を引いた。引くのは店の都合ではない。置いたあとに困るからだ。困ると、結果的に本が雑に扱われる。雑に扱うのは、私の店の外で起きても嫌だ。


 男は机の上を見ながら、ぽつぽつと話した。


「うちは効率で回してるんです。現場が多いんで。溜めると回らない」


 効率という言葉が繰り返される。繰り返される言葉は、その人の職業の中心だ。


 私は金額を紙に書き、男へ滑らせた。男は数字を見る。見る目が速い。速い目は計算に慣れている。慣れている目は迷わない。迷わない目は、迷う余地を作らない。


「預かりでいいので、来週まとめて取りに来ます。現場の都合で、今日は全部運べないんです」


 男は言った。預かりという言葉が出た。預かりは、責任が動く言葉だ。動いた責任は戻らない。


「預かりません」


 私は即座に言った。即座に言うと、交渉の糸口が減る。糸口が減ると、相手は別の言葉を出す。


 男の口元が少し硬くなった。硬くなるのは、想定外の返事だったからだ。


「そこをなんとか。うちが困るんです」


 困る、という言葉が出た。困るという言葉は、情を呼ぶ。情を呼ぶ言葉は、店の空気を揺らす。揺れた空気は、どこかに溜まる。


 私はカウンターのほうへ視線を置いた。視線を合わせないのは冷たさではない。視線を合わせると、相手の顔がこちらへ入り込む。入り込むと、断りが個人の拒絶に見える。個人の拒絶に見えると、話が変わる。


「困るなら、困る方へ戻してください」


 私は言った。言葉は短くする。短い言葉は、責任の位置を示すだけになる。示すだけなら、説教にならない。


 男の表情が止まった。止まった顔は、怒りの前か、諦めの前かの顔だ。どちらでも、次の言葉が出る。


「儲けの話をしたいわけじゃないんですけどね」


 男は言いながら、少し笑った。笑いは薄い。薄い笑いは、圧を柔らかく見せるための笑いだ。


「うちも、現場、抱えてるんですよ」


 男は続けた。現場という言葉が、今度は重くなる。重くなるのは、苦労を見せるためだ。見せると、こちらが折れる期待がある。


 私は金額の紙を指で押さえ、少しだけ位置を直した。位置を直す動作は、会話を一段冷やす。冷やすのは相手のためでもある。熱くなると、言葉が増える。増えた言葉は、戻れない。


 男は段ボールの縁を叩いた。叩く音が乾いて鳴る。乾いた音が、店の静けさに刺さる。


 男が諦めかけたとき、声の調子が変わった。声が少しだけ落ちた。落ちた声は、本音に近い。


「あなた、前も同じこと言いましたよね」


 私はペンを持つ手を止めた。止まったのは意図ではない。反射だ。反射は隠せない。


 男は私の手元を見ている。目がこちらを見ていない。目がこちらを見ていないのに言葉が刺さる。刺さるのは、言葉が過去に触れているからだ。


「預かった瞬間から、終わらせ方まで背負うって。そう言いましたよね」


 男は続けた。言い方は淡々としている。淡々としているのに、確信がある。確信のある言葉は、相手を知っている言葉だ。


 私は否定もしなかった。肯定もしなかった。どちらかを言うと、続きを呼ぶ。続きを呼ぶと、私の範囲が崩れる。


 私は手作りカバーの本を手に取った。取って、男のほうへ押し出した。押し出す動作は返す動作だ。返すと、責任が戻る。


「これは処分じゃなく、渡す相手がいる」


 私は言った。相手の名前は言わない。名前を言うと、男が探しに行く。探しに行くと、事情が広がる。広がった事情は戻らない。


 男は本を見た。布のほつれに指が止まった。止まった指が少しだけ動く。動くのは、扱いを変える前の動きだ。


「……じゃあ、これは保留で」


 男は言った。保留は便利な言葉だ。便利な言葉は責任の場所をぼかす。ぼかすと、どこかが背負う。私は背負わない。


 私は他の本の金額をまとめて提示した。まとめるのは、相手の段取りのためだ。段取りが整うと、争いが減る。減ると、店は店のままでいられる。


 現金の受け渡しは淡々と終わった。男は札を数え、財布にしまった。しまう動きが速い。速い動きは、次の現場へ行く動きだ。


 男は段ボールを持ち上げた。持ち上げる前に、一冊だけ別の箱へ移した。手作りカバーの本だ。箱の中で、その本だけ角が守られる位置に置かれる。守られる位置は、意識の中で作られる。


 男は帰り際に、入口で一度止まった。止まって、振り返らずに言った。


「誰かのために残すって、面倒ですね」


 面倒、という言葉は軽いようで重い。面倒と言うとき、面倒の中に手間と時間と気持ちが混ざる。


 私は答えを探さずに言った。


「面倒だから、残る」


 男の足が一瞬止まった。止まって、すぐ動いた。動いたのは、否定できなかったからかもしれない。否定できない言葉は、どこかに残る。


 扉が開く。鈴が鳴る。外の冷たい空気が一度だけ入る。毛布が揺れる。揺れて戻る。扉が閉まり、鈴の音が消える。


 店の静けさが戻った。戻ると、ガムテープの裂けた音も靴底の音も、もうない。ない音の代わりに、棚の紙の匂いが戻ってくる。戻ってくる匂いは、いつも少しだけ安心する。


 私はカウンターに戻り、金額の記録を仕入れ帳とは別の紙に書いた。書くのは習慣だ。習慣は、仕事を仕事に戻す。


 書き終えたとき、入口の外で小さな音がした。段ボールが置かれる音ではない。紙が擦れる音に近い。私は顔を上げずに、耳だけを向けた。耳だけを向けると、体は動かない。


 もう一度、音がした。今度は靴底が離れる音だ。離れる音は、誰かが去る音だ。


 私は立ち上がり、入口へ向かった。毛布をめくり、外を覗く。店先に小さな小包が置かれていた。小包は手のひらより少し大きい。紙で包まれている。紐がきつく結ばれている。結び目が丁寧だ。丁寧な結び目は、急いでいない手だ。


 宛名が書かれている。私の名前。字が少し丸い。丸い字は、昔の誰かの字に似ている気がした。似ているだけだ。確かめる前に、私は目を離した。


 小包を持ち上げる。軽い。軽いのに、手に残る。残るのは重さではない。紙の冷たさだ。冷たさは、外に置かれていた時間だ。


 私は小包を店の中へ持ち込み、カウンターの上に置いた。置くと、紐が少し鳴った。鳴った音は短い。短い音のあと、小包は黙る。黙った小包は、開けられるのを待つ。


 私はまだ紐に手をかけなかった。かけると進む。進むと、戻れない。戻れないままにする勇気を、今日はまだ持っていない。


 カウンターの下の引き出しに、鍵がある。鍵を見ずに、私は手を止めた。止めた手は、何も選ばない手だ。選ばない手も、選択になる。


 私は小包の宛名だけをもう一度見た。見た瞬間、ペン先が紙に引っかかる感覚が指に戻る気がした。戻るだけだ。理由は言葉にしない。


 私は照明を少し落とし、店の奥の静けさを濃くした。濃くなると、小包の存在だけが浮く。浮いたまま、私は今日は開けないと決めた。決めたことで、店の空気が少しだけ整った。

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