第4話「言葉にできないお願い」— 子どもの本と母親

 風が冷たくなった。路地の空気が薄くなる。薄くなると、店の中の匂いが少し強く感じる。古紙の匂いは変わらない。変わらない匂いの中に、季節だけが混ざる。


 私は入口の内側に、小さな毛布を掛けた。店の扉は古い。隙間風が入る。隙間風は手元の紙をめくる。めくれた紙は戻らない。戻らない紙は、角が折れる。角が折れた本は、早く疲れる。


 毛布は薄い。薄くても、風は減る。減ると、音が少し穏やかになる。鈴の音も、今日は乾いて聞こえた。


 カウンターの貼り紙を直す。買い取りの案内。営業時間。支払いは現金のみ。文字は黒い。紙は白い。紙の端が少し反っている。私はマスキングテープを剥がし、貼り直した。貼り直すとき、紙が少し曲がった。曲がったことに気づく。気づいても、直さなかった。直し始めると、直す理由を探す。理由を探すと、他のものも気になってしまう。


 鈴が鳴った。


 扉が開き、冷たい空気が一度だけ店に入ってきた。入ってきた空気は、毛布に当たって止まる。止まると、店の中の匂いが守られる。


 入ってきたのは、母親と男の子だった。男の子は小学生くらい。ランドセルではない。リュックでもない。肩に小さな布のバッグを掛けている。母親はコートを着ている。コートの前がきちんと閉まっている。閉まっているのに、首のあたりだけ寒そうに見えた。


 母親は入口で一度止まり、周りを見た。見る目が遠慮がちだった。遠慮がある人は、ここに入るのに勇気がいる。


「少しだけ……」


 母親は小さな声で言った。声がかすれている。喉が乾いている声だった。


 男の子は母親の声を聞かなかったみたいに、棚のほうへ歩いた。棚の背表紙の色に目を奪われている。背表紙は色が多い。子どもの本は特に多い。色は入口になる。


 男の子はまっすぐ児童書コーナーへ向かった。迷わない動きは、場所を知っている動きだ。初めての店なのに、初めてじゃないような動きだった。


 私は母親を査定机へ案内した。


「買取ですか」


「はい。引っ越しで」


 母親はそう言った。言い方が整っている。整っている言葉は、準備していた言葉だ。準備していた言葉の下に、別の言葉があることも多い。


 母親は紙袋を机の上に置いた。紙袋は薄い。持ち手の部分が少し伸びている。何度も持った跡だ。紙袋の角が柔らかくなっている。家の中で、同じ場所に置かれていた袋の角だ。


 母親の目の下が青かった。隠している化粧が薄い。薄いところに、色が残る。残る色は睡眠の不足だ。睡眠の不足は事情だ。事情は聞かない。


 母親は袋から絵本と児童文庫を出した。絵本は何冊かまとまっている。児童文庫は背の揃ったシリーズがある。揃えていた人がいる。


 男の子が棚から一冊の絵本を引き抜いた。引き抜く動きが軽い。軽い動きは慣れている。


「これ、家にある」


 男の子は言った。声が明るい。明るい声は店の中でよく響く。響くと、紙の匂いが少しだけ柔らかくなる。


 母親は男の子のほうを見なかった。見なかったまま、短く返した。


「もう、ないの」


 声が硬かった。硬い声は、角のある紙みたいに引っかかる。引っかかった声は、すぐにはほどけない。


 男の子は手にした絵本を見た。表紙の絵を指でなぞり、もう一度母親を見た。見ても、母親の目は合わない。合わない目は、合わない理由がある。


 私は会話に割り込まなかった。割り込むと、母親の硬い声が説明に変わる。説明は、店の範囲を超える。超えたら戻れない。


「こちらで確認します」


 私は母親にだけ伝え、絵本を受け取った。母親の手が一瞬遅れて本を渡す。遅れは、躊躇ではないように見えた。体が重いときの遅れだった。


 査定を始める。絵本を一冊ずつ開く。紙の状態を見る。ページの端が少し波打っている。水か涙か飲み物かは分からない。分からないままにする。分からないことは、名前をつけない。


 波打ったページを指先でそっと押さえる。紙は柔らかい。柔らかい紙は、何度もめくられた紙だ。何度もめくられた紙には、指の跡が残る。指の跡は汚れではない。体温の跡だ。


 ページをめくった瞬間、夜の照明が浮かんだ気がした。蛍光灯ではない。小さなスタンドの光。黄色い光。光が絵本の紙に落ち、ページの端が少し影になる。影は指の形をしている。


 子どもの笑い声が一瞬だけ差し込んだ気がした。


 店の外では、風が鳴っている。路地の向こうで車が走る音がする。それなのに、笑い声だけが耳の近くにあるように感じた。感じただけだ。音が聞こえたわけではない。


 私は絵本を丁寧に閉じた。閉じると、夜の光も笑い声もほどける。ほどけたあとに残るのは、紙の波打ちだけだ。


 母親は机の向こうで座っていた。背筋は伸びている。伸びているのに、肩が少し落ちている。落ちた肩は、力が抜けているというより、力を入れられない肩だ。


 男の子は棚の前で立っている。手にした絵本を開き、閉じ、また開く。開くたびに、口が少し動く。声にはならない。声にならない言葉は、読んでいる言葉だ。


 私は値段を淡々と積み上げた。絵本は状態がまちまちだ。児童文庫は揃いが良い。揃いが良いものは値がつく。けれど、児童文庫は市場の回転が速い。速いものは傷も目立つ。目立つ傷は値を下げる。


 紙に金額を書く。総額と、簡単な内訳。母親の目は数字を追う。追い方が速い。速い追い方は、慣れている追い方だ。慣れているのは、この作業に慣れているのか、数字に慣れているのかは分からない。


 母親は紙を見たまま、小さく息を吐いた。吐いた息が白くならない。店の中は暖かい。暖かいのに、母親の指先は冷たそうに見えた。


 母親は紙袋の中をもう一度見た。手が動き、一冊だけ抜いた。抜いた本の表紙は擦れている。題名が読みにくい。読みにくい題名は、何度も触られた題名だ。何度も触られたところは消える。


「これだけは、売らないで」


 母親は言った。声は小さい。けれど、硬さは少しだけほどけていた。ほどけた声は、お願いに近い。


 母親はその本を胸のほうへ引き寄せた。引き寄せる動きが、守る動きだった。守る動きは、相手を選ばない。守るべきものがあるとき、人は同じ動きをする。


「この本、うちの……」


 母親は言いかけて止まった。止まった言葉の先は、言わないほうがいい。言えば、固まる。固まると、男の子が見る。男の子が見ると、言葉が残る。残った言葉は戻らない。


 私は頷いた。頷くのは同意ではない。聞いたという合図だ。合図だけを返す。


「買い取りません。預かりもしません」


 私は短く言った。責任を負わない線引きだ。責任を負うと、後で戻せなくなる。戻せなくなるものは、店に置かない。


 母親の目が少し動いた。驚いたのか、安心したのかは分からない。分からないまま、私は机の引き出しを開けた。


 薄い透明のカバーを取り出す。絵本用ではない。一般の文庫用のカバーだ。サイズは合わないかもしれない。合わないなら、端を折ればいい。折るのは生活の範囲だ。


 乾燥剤も出す。小袋の乾燥剤。押すと硬い。硬い粒が入っている。湿気を吸う。湿気は紙の敵だ。


「これを挟まないで。近くに置くだけでいいです」


 私は乾燥剤を指で示し、短く説明した。説明は技術だけにする。人生の説明はしない。


「本は袋に入れっぱなしにしないで。風が通るところで」


 私はカバーを母親の前に置いた。母親はカバーを見た。見た目はただの透明なビニールだ。ビニールの薄さは心許ない。心許ないものほど、効くときがある。


 母親は小さくうなずいた。うなずき方が遅い。遅いうなずきは、受け取ってから自分の中にしまううなずきだ。


 男の子がその一冊に気づいた。男の子は母親の側へ来て、本を覗き込んだ。覗き込む目は真っ直ぐだ。真っ直ぐな目は、見たいものを見てしまう。


 男の子は本を手に取った。母親の手から、少しだけ引き抜く。母親は抵抗しなかった。抵抗しないのは、抵抗する力がないのか、抵抗してはいけないと思ったのかは分からない。


「これ、読んで」


 男の子は母親に言った。言い方が当たり前だった。当たり前のお願いは強い。強いお願いは断りにくい。


 母親は目を逸らした。逸らした目が戻らない。戻らない目は、返事が遅れる。


「……あとで」


 母親はようやく言った。声が小さい。小さい声は、できないことを言うときに出る。


 男の子は母親の返事を聞いて、口を結んだ。結んだ口が、すぐ緩む。緩むのは、怒りではない。分からないまま飲み込む形だ。


 私は児童書コーナーへ歩いた。棚の前に立つ。男の子が最初に手にした絵本と同じシリーズが並んでいる。背の色が揃っている。揃っている背は、子どもでも分かる。


 私はそのシリーズの別巻を一冊抜いた。抜いた本は状態がいい。角が立っている。カバーの擦れも少ない。ページの波打ちもない。誰かが持っていたが、何度も読まれてはいない本だ。


 私は母親のところへ戻り、その本を机の上に置いた。


「これなら状態いい」


 私はそれだけ言った。売り込みではない。提案だ。提案は相手が断れる形にする。断れない提案は、押しつけになる。


 母親は別巻を見た。視線が止まる。止まった目の奥が少し揺れた。揺れは言葉にならない。言葉にならない揺れは、たぶん迷いだ。


 母親は手を伸ばし、別巻の表紙を触った。触るだけで止まる。止まると、買うか買わないかの間ができる。間ができると、自分で選べる。


 母親は小さく頷いた。


「……これ、ください」


 売るために来た人が、買って帰る。買って帰るのは、負けではない。負けではない形で終わるほうが、家に戻れる。


 私は会計を整えた。買い取る本の金額を計算する。買う本の金額を足す。母親に紙を渡す。数字は揃う。揃う数字は、少しだけ現実を整える。


 男の子は別巻を手に取った。手に取ったとき、顔が少し明るくなった。明るくなるのは、母親が何かを選んだからだ。選ぶと、空気が動く。


 母親は買い取った現金を受け取り、買った本の代金を払った。お金のやり取りは短い。短いほど、事情が入り込まない。


 母親は紙袋を持ち、男の子の肩のバッグを整えた。整える動きが、習慣の動きだった。習慣は生活を支える。支えると、動ける。


「ありがとうございました」


 母親は頭を下げた。深さは深くない。深くない頭は、ここに留まらないという意思になる。


 男の子は私を見た。見た目はまっすぐだった。何か言いたいのかもしれない。けれど、言葉は出ない。言葉が出ないまま、男の子は母親の手を掴んだ。


 扉が開く。鈴が鳴る。冷たい風が一度だけ入ってくる。毛布が揺れる。揺れた毛布が戻る。扉が閉まる。鈴の音が消える。


 私は査定机を片づけた。買い取った本を積み直す。背表紙を揃える。値札を作る。生活の作業は手を休ませない。手が動くと、頭が静かになる。


 片づけの途中で、段ボールの底に貼りついた紙が目に入った。昨日の差出人不明の段ボール。まだ片づけきっていない箱が、カウンターの下にあった。箱の底に、薄い便箋が張りついている。剥がそうとすると破れそうな張りつき方だ。


 私は便箋の端に指を入れ、ゆっくり剥がした。紙が湿っていたのか、糊が残っていたのか。剥がすと、便箋の裏側に段ボールの繊維が少し付いた。繊維は茶色い。便箋の白さが汚れる。汚れは消えない。


 便箋には短い一文が書かれていた。筆圧は強くない。けれど、線が迷っていない。


 あなたは、聞かないことで誰かを守ったつもり?


 私は便箋を机の上に置いた。置くと、紙が軽く反る。反りは、空気の乾きのせいだ。乾いた空気は紙を動かす。動く紙は、問いを動かす。


 私は便箋を破らなかった。破ると、答えを出したことになる。答えを出すには、まだ材料がない。材料がないまま答えを出すと、嘘になる。


 私は便箋を引き出しに入れた。入れる場所は決めた。鍵をかける引き出しだ。鍵をかけるのは隠すためではない。勝手に触らないためだ。触ると、進んでしまう。


 引き出しに鍵をかける。鍵は回る。金属が擦れる音がする。擦れる音は短い。短い音のあと、引き出しは動かなくなる。


 外で風が鳴った。路地の壁に当たって、風が音になる。音は低い。低い音は、店の中の紙の匂いを少しだけ動かす。


 私は初めて深く息を吐いた。吐いた息は白くならない。店の中は暖かい。暖かいのに、胸のあたりだけが冷えている気がした。


 私は息を吸い直し、カウンターの上を整えた。今日の仕事は終わりに向かう。終わりに向かっても、便箋の問いは引き出しの中に残る。


 残る問いに名前をつけないまま、私は照明を落とした。

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