第3話「やり直しの気配」— 元恋人の蔵書

 朝の路地は、まだ濡れていた。昨夜の雨は止んだが、水は残る。残った水が光を拾い、壁の汚れまで見せる。私は店の前に立ち、鍵束からいつもの鍵を選んだ。鍵は同じ形をしている。似た鍵が混ざると、指先が迷う。迷った指先が、余計なものを思い出す。


 鍵穴に鍵を入れる。回す。金属が擦れる音がする。扉が少しだけ浮く。私は扉を開けた。鈴が鳴る。店の中の空気が、外へ一度漏れて、すぐ戻る。


 カウンターの照明を点ける。棚の背表紙が明るくなる。明るくなると、本の色の違いがはっきりする。色は時間の差だ。紙は焼ける。焼け方は均一ではない。均一ではないところに、人の手が入る。


 私は棚拭き用の布を取り、いつもの順番で棚へ向かった。上段から下段へ。手前から奥へ。順番は決めている。決めておくと、考えないで動ける。


 布を棚板に滑らせる。埃は薄い。薄い埃ほど見えない。見えない埃は、触るまで分からない。触ったあとに指先に残る。


 昨日、差出人不明の段ボールから出てきた栞の字を、思い出しそうになった。終わらせないで。短い言葉だった。短いほど、残る。


 私は棚の角を拭いた。角は埃が溜まりやすい。溜まりやすい場所に手を動かすと、頭の中が静かになる。静かになると、また思い出しやすくなる。私は呼吸を一つ置き、布の折り目を変えた。


 カウンターへ戻る。仕入れ帳を開く。昨日の欄に冊数が書いてある。今日の欄は空白だ。私はペンを持った。ペン先を紙に当てる。紙に引っかかった。引っかかったのは紙の繊維だ。繊維は、湿気で少し立つことがある。


 私はペンを少し持ち上げ、書き直した。線は整った。整うと落ち着く。落ち着くと、音が入ってくる。


 鈴が鳴った。


 扉の開く音は短い。靴底が床を鳴らす音は大きい。大きい音の人は、荷物が大きいことが多い。


 若い男性が入ってきた。二十代だろう。髪は整えている。整えているが、前髪が少し乱れている。大きなリュックを背負っていた。肩紐が食い込むほど、荷物が詰まっている。リュックの外側に、折りたたみ傘が差してある。濡れていない。雨はまだ降っていない。


 男性は店内を一度見回した。棚の背表紙を見ているようで、棚を見ていない目だった。どこに座るかを探しているような目でもない。置く場所を探している目だった。


 私は椅子を引いた。


「買取ですか」


「はい」


 男性の返事は早かった。早い返事は、準備していた返事だ。


 男性はリュックを肩から下ろした。床に置く前に、一度持ち直す。重い荷物を扱う動きが慣れていない。重い荷物を扱う場面に、最近なったのかもしれない。


 私は査定机へ案内した。男性はリュックを抱えてついてくる。抱え方が少し乱暴だった。乱暴に見えるのは、丁寧にできない理由があるからだ。


「こちらへ」


 男性は椅子に座らず、立ったままリュックのファスナーを開けた。ファスナーの動きが速い。速い動きは、時間を短くしたいときに出る。


「引っ越すんで」


 男性はそう言った。声は軽くしようとしている。軽くしようとして、軽くなりきらない声だった。


「確認します」


 私はそれだけ返した。引っ越す理由は聞かない。引っ越すと言うとき、理由は一つではない。理由が一つではない話は、長くなる。


 男性は本を取り出し、机に積んでいった。積み方が揃っている。背表紙の向きを揃える。出版社のロゴが同じ位置に並ぶ。シリーズものが多い。背の色も揃っている。淡い青と白。揃える癖があった人だ。揃っている本は、揃えた時間を持っている。


 取り出される本は、どれも状態が良かった。カバーの擦れが少ない。背の折れも少ない。読んだあとに戻す人の本だ。戻す場所も決まっていたのだろう。


 最後に、一冊だけ混ざった。角が潰れた文庫だった。背の色は同じ系統だが、角の潰れ方が違う。鞄の中で押され続けた潰れ方だった。外へ連れて行かれた本だ。外へ連れて行かれた本は、持ち主の事情を知っていることがある。


 男性はその一冊を、机の端へ置いた。置き方が雑だった。雑に置くのは、丁寧に置けないからだ。丁寧に置くと、触れてしまうからだ。


「全部で、いくらになります」


 男性は早口で言った。早口は、質問というより押し込みだ。押し込むと、答えが早く出る気がする。


「確認します」


 私は同じ言葉を返した。言葉を増やすと、男性の言葉が増える。増えた言葉は、戻せない。


 私は一冊ずつ手に取った。背を確かめる。小口の焼けを見る。カバーの端を指でなぞる。書き込みがないか、ページを開いて見る。開き癖がついているページがある。開き癖の位置で、好きな場面が分かることがある。分かっても、言わない。


 シリーズは揃っている。巻数も抜けがない。揃っているシリーズは、次の買い手にとって扱いやすい。扱いやすいものは棚に置きやすい。置きやすいものは回る。回る本は値がつく。


 角の潰れた文庫に手が伸びた。私はそれを最後に残した。最後に残すのは意図ではない。手が勝手にそうした。勝手にそうした動きに、理由をつけない。


 角の潰れた文庫を手に取る。カバーの端が毛羽立っている。背表紙の上部が擦れて白い。小口が少し汚れている。汚れは雨ではない。指の脂の汚れだ。何度も触った汚れだ。


 私はカバーを外した。カバー裏に、薄い鉛筆の線があった。線は短い。文字ではない。ページ数のような数字でもない。線の引き方が、迷っている。迷って引いた線だ。消しゴムの跡もある。消そうとして消しきれなかった跡だ。


 その瞬間、指先が冷たくなった気がした。


 駅の改札の金属。切符を通す音。カードの読み取り音。人の足音。人の足音が急に途切れる場所。途切れた場所で、会話が切れることがある。


 声は聞こえない。けれど、言いかけて止まった口の形が浮かぶ気がした。浮かぶだけだ。浮かんだと思った瞬間に、私は息を一つ吐いた。


 冷えは現実の冷えではない。暖房が入っている。店の中は冷えていない。冷えていないのに冷えた気がするのは、紙の薄さが指に近いからだ。


 私は顔に出さず、文庫を机に置いた。置くと、冷えは少しだけ引く。引くけれど、消えない。消えないものを消そうとすると、動きが乱れる。動きを乱すと、言葉が出る。言葉が出ると、線引きが崩れる。


 私は査定を続けた。状態の良い本の値段を先に決める。シリーズ全体の値を積む。紙に数字を書き始める。数字は正確だ。数字は、感覚と違って説明ができる。


 角の潰れた文庫の値を決める番になった。私はその本の状態を理由にした。状態は悪い。事実だ。事実を理由にすれば、私の中の余計なものは混ざりにくい。


 私は一段厳しく値をつけた。厳しくつけたことは、自分で分かる。分かっても、言葉にしない。言葉にしないから、仕事に戻れる。


 紙に総額を書き、内訳を簡単に添えた。私は紙を男性へ滑らせた。


 男性は紙を見た。目が動く。動く速度が途中で止まる。止まったのは、角潰れ文庫の欄だった。


「それ、そんなに安いんですか」


 男性は言った。言い方は強くない。けれど、声の奥に引っかかりがある。引っかかりは、値段ではない。値段のせいにしたい何かがある。


「状態です」


 私は短く返した。短い返事は線になる。線は越えない。越えると、戻れない。


 男性は口を開き、閉じた。言い返す言葉を探している。探している間に、目が泳ぐ。泳ぐ目は、机の上の本から逃げる。逃げた先で、壁の棚を見て、また戻る。


 私は視線を上げず、伝票用の紙を整えた。整える動作は、場を落ち着かせる。落ち着かせるために整えるのではない。整えるのが仕事だから整える。


 男性がぽろっと言った。


「これ、彼女が好きだったんです」


 彼女、という言い方だった。名前ではない。関係の説明でもない。彼女という言葉だけで、過去が入ってくる。彼女の言い方が、すでに過去形のように聞こえた。


 私は視線を上げなかった。上げると、顔の筋肉が動く。動くと、何かが漏れる。


「なら残せばいい」


 私はそう言った。助言ではない。事実の提示だ。残すことはできる。残すと言えば残せる。残すと言わなければ売ることになる。選ぶのは客だ。


 男性は黙った。黙ると、店の中の音が増える。換気扇の音。照明の小さな鳴り。外の水滴が落ちる音。音が増えると、人の息が目立つ。


 男性の息が少し乱れた。乱れた息が落ち着くまで、時間が必要だった。時間が必要な人に、言葉を足すと潰れる。


 男性は角の潰れた文庫を手に取った。手の動きが遅い。遅い動きは、触れている時間を増やす。増やすのは、確認だ。確認は、決めるためにする。


 男性は文庫を見て、カバーの端を親指でなぞった。なぞった指が止まる。止まった場所は、潰れた角だった。潰れた角は、痛みの形をしている。


 男性はその文庫だけ、積みから外した。外して自分の側へ引き寄せる。引き寄せる動きが、弱かった。強く引き寄せると、決めたことになる。弱く引き寄せると、まだ迷える。


「……それ以外は、売ります」


 男性は言った。言い方は平らだった。平らに言える言葉ほど、言うために何かを削っている。


「承知しました」


 私は頷いた。角潰れ文庫を除いた金額に、紙の数字を書き直す。線で消し、数字を置き換える。置き換えると、会話が終わりに向かう。終わりに向かうと、客は帰れる。


 男性の手が少し震えた。震えは強くない。けれど、文庫を握る指の関節が白くなった。白くなった指は、力を入れている。力は、泣かないために使うことがある。


 私は現金を用意した。金額はそれなりだった。シリーズは揃っている。状態も良い。揃っているものは、揃っているだけで価値になる。


 私は紙袋を取り出した。紙袋は厚手だ。底が抜けないように、折り目を確認する。紙袋の口を開き、買い取った本を入れる準備をする。入れる準備をすると、動作が終わりに向かう。


 会計を済ませる。男性は現金を受け取った。受け取った現金を、すぐ財布に入れなかった。手の中で一度揃えた。揃える動きは癖だ。癖は、落ち着かせるために出る。


 男性は角潰れ文庫を、胸ポケットへ押し込んだ。押し込み方が強い。強く押し込むと、見えなくなる。見えなくなると、持てる。


 男性は言いかけた。


「捨てたいのに」


 そこで止まった。止まった言葉の先は、言わないほうがいい。言えば、捨てたいが現実になる。現実になれば、捨てられないことが目立つ。目立つと、自分を責める。


 男性は口を閉じた。閉じた口の端が少しだけ動く。笑いではない。息を逃がす動きだ。


 私は紙袋を渡した。渡すとき、紙袋の底を支えた。支えるのは優しさではない。仕事だ。重い本は底が抜ける。抜けると、本が傷む。傷むと、客が後悔する。後悔は余計なものを増やす。


「雨、また来る」


 私はそう言った。空を見たわけではない。天気予報を見たわけでもない。路地の匂いがそう言っている。湿った空気は、また降る。


 男性はうなずいた。うなずき方が小さい。小さいうなずきは、受け取り方が丁寧だ。


「傘、あります」


 男性はリュックの外の傘を指した。言い訳のように言った。言い訳に見えるのは、自分を整えたいからだ。


「なら大丈夫です」


 私は返した。これ以上は言わない。言えば、生活の言葉が人生の言葉に変わる。人生の言葉に変わると、店の範囲を超える。


 男性は紙袋を持ち、リュックを背負い直した。背負い直す動きが、さっきより少しだけ軽かった。軽いのは荷物のせいではない。決めたからだ。決めると、体の向きが揃う。


 扉へ向かう。鈴が鳴る前に、男性は一度だけ立ち止まった。立ち止まって振り返る。振り返る目が、私の顔ではなく棚のほうへ行く。棚の背表紙の色を見ているのか、棚の奥の暗さを見ているのかは分からない。


 男性は何も言わなかった。言葉にすると、置いていけないものが増える。増えたものを抱えると、外へ出られなくなる。


 男性は扉を開けた。鈴が鳴った。扉が閉まる。音が消える。店の空気が元に戻る。


 私は査定机の上を片づけた。買い取った本は棚へ入れる準備をする。値札を作る。ジャンルごとに分ける。分けるとき、手が迷わない。迷わない動作は落ち着く。


 夕方まで客は来なかった。来ない日もある。来ない日は、店の仕事が進む。進む仕事は静かだ。静かな仕事は余計なことを考えやすい。


 私は棚の最上段を見上げた。背に題名のない私物本がある。昨日から触れていない。触れていないのは選択だ。選択は続く。続く選択は、いつか揺れる。


 閉店の札を出す時間になった。私は扉に鍵をかけた。照明を落とした。仕入れ帳を開く。今日の冊数を書く。数字は揃う。揃えられるものだけ揃える。


 帳面を閉じようとしたとき、指先に残る感覚があった。角潰れ文庫の紙の硬さ。カバー裏の薄い鉛筆の線。駅の改札の冷え。切れた会話の形。


 私は最上段へ手を伸ばしてしまった。踏み台を使わず、指先だけで届く範囲にある背を触ろうとした。触る寸前で、背の布の毛羽が指に当たりそうになった。


 その瞬間、遠くで笑い声が鳴った気がした。


 子どもの笑い声だった。短く弾ける笑い声。近くではない。店の中でもない。けれど、耳の奥に一瞬だけ入った。入って、消えた。


 私は手を離した。離すと、笑い声はもう聞こえない。聞こえないのに、残る。残るのは音ではない。音があった気がした場所だ。


 私はカウンターへ戻り、仕入れ帳の古いページをめくった。めくるのは癖ではない。確認だ。確認をすると、安心することがある。安心のために確認するのではない。手が勝手にそうした。


 古い日付が並ぶ。数字が揃っている。揃っているはずの並びに、欠けがあった。ある日付のページが破られている。紙の繊維が毛羽立っている。破られ方が雑ではない。端が揃っている。端を揃えて破るのは、手が慣れている。


 私はその欠けを見た。見たままにした。指で触れなかった。触れると確かめてしまう。確かめると、戻れない。


 帳面を閉じた。閉じると、欠けは見えなくなる。見えなくなるだけで、なくならない。


 私は引き出しの鍵を握った。鍵は冷たい。冷たいのに、今日は重い。重い鍵は、開けた先を知っている鍵だ。


 外から、子どもの笑い声が聞こえた。今度は現実の音だった。路地の向こうの通りで、子どもが走っているのだろう。笑い声は近づかない。近づかずに通り過ぎる。通り過ぎる音は、残らないはずだ。


 私は顔を少しだけ上げた。上げても、何も見えない。店の中は暗い。ガラス越しに路地の影だけが見える。


 鍵を握った手をほどいた。ほどいても、鍵はそこにある。そこにある鍵は、今日も使わない。


 私はカウンターの上を整え、電気を完全に落とした。扉の鍵を確かめる。外へ出る。路地の湿った匂いが鼻に入る。


 遠くで電車の音がした。改札の音ではない。ただの走行音だ。走行音は均一だ。均一な音に混ざって、さっきの笑い声の残りがまだ耳の奥にある気がした。


 私は立ち止まらずに歩いた。歩くと、店は背中に回る。背中に回ると、今日が終わる。終わっても、欠けた日付は残る。


 残るものを、私は今日も名前をつけないまま持ち帰った。

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