第2話「直す/残す」— 形見の蔵書整理

 午前の光は、路地まで届かない。届かないから、店の中の照明は朝から必要になる。私はスイッチを入れて、棚の上段から順に布を滑らせた。埃は目立たない。目立たない埃ほど、指先に残る。


 布を折り直す。角を揃える。棚板の端を拭く。背表紙の上を撫でるように通る。紙は紙のまま静かに立っている。立っている本ほど、誰かが手放したあとに落ち着いた顔をする。


 昨日、若い女性が抱えて出ていった詩集の手触りが、ふと浮かんだ。布装丁の起毛。背の縁の擦れ。見返しの紙の硬さ。匂いも思い出す。乾いた紙の匂いと、少しだけ甘い糊の匂い。


 理由は分からない。理由を探すのは癖だ。癖は作業の邪魔になる。私は棚拭きを続けた。指先を動かすと、余計なことが減る。


 入口のほうから、段ボールが目に入った。店の前に置かれている。昨日はなかった。朝、開店準備で扉を開けたときに気づいた。小さな段ボールではない。二箱。ガムテープがしっかり巻かれ、角の潰れも少ない。扱いが丁寧だった。


 送り状が貼られている。宛名は私の名前。住所も正しい。差出人欄は、空白だった。書かれていないというより、最初から印字されていない。書かないまま出した荷物だ。


 宅配の人は、いつもの顔だった。うちの路地まで配達する人は限られる。


「お届け物です」


「受け取ります」


 私は印鑑を押した。サインも求められた。ペンを受け取り、名前を書く。書き慣れた線のはずなのに、最後の払いが少しだけ乱れた。乱れたことに気づくのは、書いてからだった。


 ペンを返した。宅配の人は「失礼します」と言って帰った。段ボールは入口脇に寄せておいた。開店の札を出す前に店に入れたくなかった。


 棚拭きを終え、カウンターの中へ戻る。仕入れ帳を開く。日付の欄は昨日のまま。冊数が書かれ、数字は揃っている。数字は揃う。揃わないのは、人のほうだ。


 段ボール二箱は、店の中にあるだけで目立つ。店の空気は、紙と木でできている。段ボールも紙だ。けれど、段ボールの紙は匂いが違う。新しい匂いが混ざる。混ざると、少しだけ落ち着かない。


 鈴が鳴ったのは、開店してから少し経ってからだった。


 扉が開く。靴底が床を鳴らす。重い音だ。男性の靴は、だいたい音が重い。重い音の人ほど、話が軽いこともある。軽い話の人ほど、重いものを持っていることもある。


 入ってきたのは、中年の男性だった。スーツはきちんとしている。ネクタイも結ばれている。けれど、首のあたりだけ少し窮屈そうに見えた。襟元のボタンが、きついのかもしれない。


 男性は深く頭を下げた。丁寧すぎるくらい丁寧だった。丁寧な頭の下げ方は、気持ちが後からついてくるときに出る。


「初めて伺います。すみません。こういう店は慣れていなくて」


「いえ」


 私はカウンターの外へ出た。男性は入口付近で立ったまま、視線をあちこちに走らせている。背表紙を見ているというより、逃げ道を探しているような目だった。


「買取ですか」


「はい。姉の遺品で……本が多くて」


 男性の言葉は丁寧だった。語尾も揃っている。揃えた語尾は、乱れたくないという意思に見える。乱れると、何かが落ちてしまう気がするのだろう。


「全部ですか」


 私はそれだけ聞いた。ここで詳しい事情を聞けば、男性は説明を始める。説明が始まると、止まらなくなる。止まらなくなると、帰れなくなる。帰れない場所に人を留めるのは、店の仕事ではない。


「ええ。全部ではないかもしれませんが……段ボールに入れて持ってきました」


 男性は入口の外を指した。路地のほうに、段ボールがいくつか積んであるらしい。外の湿った匂いが少しだけ店に入ってきた。雨上がりの匂いだ。


 私は扉を開け、男性と一緒に外へ出た。路地の壁際に、段ボールが三箱ある。ガムテープは雑に貼られている。角は少し潰れている。家から運ぶとこうなる。


 私は一箱持ち上げた。軽い。軽い段ボールほど、上に積まれた本が少ない。男性の姉は、重い箱を作らない人だったのかもしれない。あるいは、男性が重い箱を作れなかったのかもしれない。


「中へ」


 私は先に店に入り、査定机へ案内した。男性は段ボールを抱え、慎重に歩いた。段ボールの角が棚に当たらないように、体の向きを何度も変える。慎重な人ほど、どこかで急いでいる。


 査定机に箱を置く。段ボールが木の天板に当たって、鈍い音を立てた。男性の肩が少しだけ落ちた。箱を置けたことに安心したように見えた。


「開けます」


「お願いします」


 私はカッターを取り出し、ガムテープに刃を入れた。刃は必要以上に深く入れない。中身を傷つけないためだ。傷つけないための手加減は、慣れがいる。慣れた手加減ほど、他人からは冷たく見えることもある。


 箱の蓋を開ける。本の背が見えた。料理本が多い。色が明るい。写真が大きい。レシピ本特有の紙の光り方がある。旅行記もある。旅先の景色が表紙に印刷されたもの。ガイドブックではなく、文章の多い旅の本だ。古いものも混ざっている。


 私は二箱目を開けた。こちらには文庫が多い。小説の文庫。背表紙の色が揃っているシリーズもの。揃っていると、持ち主の癖が見える。好きな作家がいる人だ。長く読み続ける人だ。


 三箱目には、背の細いノートが混ざっていた。日記帳のような装丁。中身が何かは見なくても分かる。売り物にしないカテゴリだ。売り物にしないものが混ざるのは、遺品整理では普通だ。普通だから、困る。


 男性が私の手元を見ている。見ている目に、答えを求める色がある。これは捨てていいのか。これは残すべきか。私はその答えを持っていない。


 私はノートを手に取り、表紙の角を確かめた。角が少しだけ擦れている。何度も開かれた跡だ。中身を覗く必要はない。覗いた瞬間、私は知ってしまう。知ったものは、返せなくなる。


「これは買い取れません」


 私は静かに言って、ノートを男性のほうへ滑らせた。


 男性の手が伸びて、途中で止まる。止まった手は、指先だけが震えた。震えは弱い。けれど、弱い震えほど、長く残る。


「……そうですよね」


 男性はノートを抱えた。抱え方が、本というより薄い箱を抱えるみたいだった。壊れやすいものを扱う手だった。


「捨てられないんです」


 男性は言ってから、視線を落とした。言葉が落ちる音がしたような気がした。床には落ちない。落ちても拾えない。拾えないから、言葉は重い。


 私は頷いた。頷くのは同意ではない。頷くのは、聞いたという合図だ。聞いたという合図だけを返す。余計なことを言わないための合図だ。


 男性の抱えたノートは、湿気に弱い。紙は湿気で波打つ。波打った紙は戻らない。戻らないものは、後から悔やまれる。悔やまれる前に、生活の技術だけ渡す。


 私は机の下から、古い箱を引っ張り出した。木の保管箱だ。蓋があり、内側に薄い布が貼られている。お茶の道具でも入っていそうな箱だ。うちでは、売り物にしない紙を預かるときに使う。預かると言っても、預かり続けるわけではない。持ち帰るまでの間、形を整えるための箱だ。


「これに入れて。湿気だけは避けてください」


 私は箱を男性の前に置いた。箱の蓋を開け、布の内側を見せる。布は新しくない。新しくない布のほうが、紙に優しいときがある。新しい布は毛羽が立つ。毛羽は紙に付く。


 男性は箱を見た。目が少しだけ動く。助けられたという顔にはならない。助けられた顔になったら、次に助けを求めたくなる。それは、この店では違う。


「……ありがとうございます」


 男性は言った。礼は言える。言えてしまうときほど、本人は礼を言っている場合ではないのかもしれない。


 私は「いえ」とだけ返した。箱を渡すのは仕事の範囲だ。生活の範囲だ。人生の範囲ではない。


 査定は続ける。料理本を一冊ずつ開く。紙ヤケの程度を見る。ページの端に油の染みがないかを見る。料理本の油染みは、価値を下げるとは限らない。よく使われた本は、必要とされた本だ。必要とされた本は、次の人にも必要とされることがある。けれど、油がひどいと次の人が触れない。触れない本は売れない。売れない本は棚に積もる。積もる本は店を狭くする。


 男性は椅子に座ったまま、膝の上で手を組んでいる。組んでほどいて、また組む。手の動きが、何かを待っている。待っているのは値段ではない。値段が出るまでの時間に、考えることがあるのだろう。考えないほうがいいこともある。考える時間があると、考えてしまう。


 料理本の中に、一枚のメモが挟まっていた。薄い紙で、走り書き。字は急いで書かれた形をしている。読もうとすれば読める。けれど、読まないほうがいい字もある。私は紙を裏返した。裏返すのは逃げではない。扱い方の選択だ。


 メモの紙の端を摘む。紙は柔らかい。柔らかい紙は台所に多い。キッチンペーパー。コピー用紙。チラシ。余った紙。余った紙に書かれたものほど、捨てづらい。


 その瞬間、音が重なった気がした。


 まな板を叩く音。包丁の刃が板に当たる乾いた音。換気扇の低い唸り。ガスの火が小さく燃える音。湯気が上がるときの白さ。鍋の蓋がわずかに震える。台所の床をスリッパが擦る。


 匂いまで来た気がした。生姜の匂い。醤油の匂い。湯気に混ざった米の匂い。


 私は呼吸を一つ置いた。音は音だ。店の中には包丁も換気扇もない。あるのは紙と木と、古い照明だけだ。重なったものは、一瞬でほどける。ほどけたあとに残るのは、紙の柔らかさだけ。


 私は料理本を閉じて、メモを抜いた。抜いたものは返す。返すことで、店と客の境目が保てる。


「挟まってました」


 私はメモを男性へ差し出した。余計な説明は添えない。説明を添えると、男性は説明を返そうとする。返そうとした説明が、彼の中の何かを崩すかもしれない。


 男性の手が伸びた。指がメモの端に触れて、止まった。止まった指は、紙の上で動かない。紙が薄いから、指の温度が移る。温度が移ると、紙は少しだけ湿る。湿った紙は指に張り付く。張り付くと、離せなくなる。


 男性はメモを受け取り、目を落とした。目が動く。読み取ろうとしている。読み取る速度が、途中で遅くなる。遅くなるところが、記憶の場所だ。


 男性の喉が動いた。唾を飲む。唾を飲む音は聞こえない。けれど、飲む動きは見える。見える動きは、言葉より正確だ。


 男性は息を整えた。息を整えるために時間が必要だった。整えてからでないと、息が途切れる。途切れると、声が出る。声が出ると、泣く。泣くと、決められなくなる。決められなくなると、ここから動けない。


 男性はメモを折った。丁寧に折った。折り目がつく。折り目は戻らない。戻らない折り目は、持ち帰るための形になる。


 私は作業を続けた。金額を積み上げる。料理本は状態が良いものが多い。旅行記も売れそうだ。文庫はシリーズが揃っている。揃っているシリーズは買い手がつく。揃っていることは、次の人にとって便利だ。便利は価値になる。


 ただ、料理本の中には古いものもある。昭和の家庭料理の本。写真が少なく、文字が多い。レシピが手順ではなく経験で書かれている。今の人には読みづらい。読みづらいけれど、必要とする人もいる。必要とする人は少ない。少ない人に届くまで時間がかかる。時間がかかる本は、値段を抑える。


 私は紙に金額を書いた。総額を書き、内訳を簡単に書く。誤解を減らすためだ。誤解があると、やり取りが増える。増えたやり取りは、事情に触れる。事情は、この店の外のものだ。


 紙を男性の前へ滑らせる。男性は紙を見た。目が止まる。まぶたが一度だけ下りる。下りたまぶたは、すぐ上がった。金額は彼の予想より高かったのか低かったのか。顔には出ない。出ないようにしている顔だ。


「……ありがとうございます」


 男性は言った。言い方が、さっきより少しだけ楽だった。金額が楽にしたわけではない。決めるための材料が揃ったからだ。


「売らないものを選べます」


 私は言った。選べると言うのは、許可ではない。作業の範囲を提示する言葉だ。ここで全部売る必要はない。全部捨てる必要もない。境界線は、引き直せる。


 男性は箱の中を見た。手が動き、料理本を何冊か取り出した。取り出す動きが慎重だった。慎重に取り出す本ほど、思い入れがある。


「これだけは……」


 男性は言いかけて、言葉が切れた。切れた言葉の先に何があるかは想像できる。想像できても、口にしない。口にすると、現実になってしまうものがある。


 男性は料理本の表紙を撫でた。表紙の写真は、煮物の写真だった。茶色い煮物。地味な料理。地味な料理ほど、家の匂いがする。


「姉が、よく作った……」


 男性はそこまで言って、息を止めた。止めた息は、喉の奥で固まった。固まった息が戻るまで、少し時間がかかる。


 私は黙って待った。待つのは優しさではない。待たないと、次の作業ができない。作業ができなければ、この店の意味がなくなる。


 男性は料理本を三冊、脇に置いた。残す本として脇に置いた。脇に置くことで、決めたことになる。決めたことが、言葉より先に形になる。


「これを持ち帰ります」


 男性は言った。言い切った声だった。言い切れる言葉ほど、本人が必死に支えている。


「承知しました」


 私は頷いた。残す本の分だけ、金額を調整する。紙の数字を線で消し、新しい数字を書く。修正は見せる。見せることで、余計な疑いを減らす。


 残す本を紙で包む。包むのはサービスではない。仕事として包む。古書の包装は、汚れを防ぐ。角の擦れを防ぐ。持ち帰るまでの傷を減らす。傷を減らすと、後悔が減る。後悔が減ると、余計な言葉が減る。


 私は薄い包装紙を広げ、料理本を一冊ずつ置いた。紙を折り、角を揃え、テープで留める。テープは最小限にする。外すときに紙が破れると、手が止まる。止まった手は、また思い出してしまう。


 男性は包まれていく本を見ていた。見ている目に、少しだけ焦点が合ってきた。焦点が合うと、人は今に戻れる。今に戻れると、決めたことが自分のものになる。


 現金を渡す。金額は大きくない。けれど、男性の手は丁寧に受け取った。丁寧に受け取る手は、対価ではなく形として受け取っている。


 男性は財布に入れず、内ポケットへ入れた。入れ方が慎重だった。お金というより、紙だと思っている入れ方だった。


「……捨てるんじゃなくて」


 男性は言った。言葉が途切れる。途切れた言葉の先に、出てきたのは小さな声だった。


「持ち帰るものができた」


 その言い方は、確認だった。自分に言い聞かせる確認。確認は、決めたことを固める。


 私は頷いた。頷いて終わらせる。終わらせることで、男性は帰れる。


「湿気だけ、気をつけてください」


 私は箱のことをもう一度言った。人生の助言ではない。生活の助言だ。生活の助言なら、受け取っても重くならない。


「はい」


 男性は保管箱にノートを入れた。ノートを入れるとき、手が少しだけ止まった。止まった手が、ノートの表紙を一度撫でた。撫でる動きは短い。短い撫では、泣かないための撫でだ。


 男性は段ボールを持ち直し、包んだ料理本を抱え、箱を抱えた。抱えるものが増えたのに、背中は少しだけ軽く見えた。軽く見えるのは、決めたからだ。決めると、体の向きが揃う。


「ありがとうございました」


 男性は頭を下げた。最初の頭より浅かった。浅い頭は、ここに留まらないという意思に見える。


「お気をつけて」


 私は扉を開けた。鈴が鳴る。男性が出る。路地の湿った光が、店の中へ少しだけ入る。扉が閉まる。鈴の音が消える。店の空気が元へ戻る。


 査定机の上には、買い取った本が積まれている。積み直す。背表紙を揃える。値札の準備をする。作業がある。作業があると、余計なことを考えずに済む。


 その前に、朝届いた差出人不明の段ボールが気になった。気になる理由は言葉にしない。言葉にすると、怖くなる。怖いと分かる怖さは扱える。分からない怖さは扱いづらい。


 私は入口脇へ行き、二箱のうち上の一箱を机へ運んだ。箱は意外と重かった。中身が詰まっている。詰まっている箱は、誰かの手がかかった箱だ。


 カッターでガムテープを切る。刃は浅く入れる。蓋を開ける。段ボールの匂いが上がる。新しい紙の匂いが鼻に刺さる。


 中には、本が一冊入っていた。


 布装丁。色は濃い。背に題名がない。昨日、棚の最上段に置かれていた一冊と同じ形だ。同じ布の起毛。同じ背の厚み。角の丸みまで似ている。


 私は手を止めた。手を止めたまま、本を見た。見ているだけで何かが起きるわけではない。起きないのに、止まる。止まるのは、触れると決まってしまう気がするからだ。


 箱の底を見た。緩衝材の紙が丸めて詰められている。その下に、古い栞があった。栞は紙ではなく、薄い布に近い質感だった。端が毛羽立ち、指に引っかかる。


 栞には走り書きがある。黒いインク。擦れた線。文字は短い。


 終わらせないで。


 私は栞を指でなぞった。なぞると、線の凹凸が分かる。強く書かれた部分は紙が沈んでいる。沈んだ部分は、書いた人の力が残っているみたいだった。


 音が重なる気がした。昨日の駅の冷気とは違う。台所の音とも違う。もっと近い場所の音だ。木の床の軋み。引き出しが閉まる音。鍵が机の上で転がる音。


 私は息を一つ吐いた。吐いても、重なりは消えない気がした。消えない気がするだけで、実際は消えている。実際に残っているのは、栞の端の毛羽と、インクの匂いだけだ。


 二箱目も開けた。こちらにも一冊。布装丁。背に題名なし。箱の中が同じだ。同じものが二つ。偶然ではない。偶然だとしても、偶然にしては手間がかかっている。


 私は段ボールの側面を見た。発送元の伝票は途中で剥がした跡がある。跡だけが残り、紙の繊維が毛羽立っている。剥がしたのは、差出人を隠すためだ。隠すための剥がし方だった。


 私は栞を机の上に置いた。置いた瞬間、机の上に線ができる。線ができると、そこから先に進めなくなる。


 引き出しの鍵のことを思い出した。鍵は、カウンターの中の引き出しにある。私はカウンターへ戻り、引き出しを開けた。真鍮の鍵がある。古い鍵。冷たい金属。


 鍵を手のひらに乗せる。金属の冷たさが、皮膚へ伝わる。冷たさは現実だ。現実の冷たさは扱える。扱える冷たさなのに、今日は重い。


 私は鍵を握った。握ると、歯の形が掌に当たる。当たり方が、記憶の形に似ている。似ているだけだ。似ていると思った瞬間に、余計なものが入り込む。


 私は鍵を握ったまま、しばらく動かなかった。動かない時間は短い。短くても、店の空気が変わる。空気は言葉より先に変わる。


 棚の最上段に置いた題名のない本。今日届いた、同じ布装丁の二冊。栞の走り書き。終わらせないで。


 私は鍵を引き出しに戻した。戻す動きはゆっくりになった。ゆっくりにするのは、決めていないからだ。急いでしまうと、決めたことになる。


 引き出しを閉めた。閉める音が、店の中に小さく響く。響いた音はすぐに紙の匂いに吸い込まれる。


 私は段ボールを閉じた。閉じると、見えなくなる。見えなくなると、今日は終われる。終われるかどうかは分からない。分からないけれど、閉じるという動作はできる。


 夕方まで、客がもう一人来た。古い絵本を探しに来た女性だった。私は在庫を確認し、見つからないことを伝えた。女性は「そうですか」と言って帰った。店はそういう場所でもある。探し物が見つからない場所。見つからないまま帰れる場所。


 閉店の札を出す。扉に鍵をかける。照明を落とす。仕入れ帳に今日の冊数を書く。今日買い取った冊数は、五十六。数字は揃う。揃えられるものだけ揃える。


 棚の最上段を見上げる。題名のない本がある。今日届いた二冊は、まだ段ボールの中だ。段ボールを開けて棚に並べることもできる。できるのに、しない。


 私は踏み台を引き寄せなかった。踏み台を引き寄せないことを選んだ。選んだだけで、答えは出ない。答えが出ないまま、店は今日も閉まる。


 カウンターの上に栞を置いたままにするか迷った。置けば目につく。目につけば、触れてしまう。触れれば、進んでしまう。


 私は栞を引き出しに入れた。鍵とは別の引き出しだ。触れるべきものと、触れてはいけないものを同じ場所に入れるのは、よくない。よくないという感覚は、説明できない。説明できないものほど、守る価値がある。


 店を出る。路地の空気が冷たい。雨の匂いは残っている。遠くで電車の音がする。今日は駅の冷気は重ならない。重ならないことに、少しだけ安心する。


 私は歩きながら、栞の言葉を思い出した。終わらせないで。誰が書いたのかは分からない。分からないままにしておける。今日の私は、そう選んだ。


 終わらせないために、今日は終える。


 店の鍵をポケットの中で確かめて、私は路地を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る