訳あり客しか来ない古書店

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話「手放す=終わらせる?」

 雨上がりの路地は、昼間でも少し暗い。舗装の隙間に溜まった水が、車の通らない道の静けさを反射している。角を曲がったところで、看板が見えた。文字の一部が剥げて、店の名前だけが途中で途切れている。初めて来た人なら、ここで引き返すだろう。


 引き返さない人だけが、うちの客になる。


 傘立てに濡れた傘が一本もないのに、木の床には湿り気が残っている。雨粒が靴底から運ばれたのか、あるいはこの店の空気がそうさせるのか。扉を開けると、鈴が小さく鳴った。音はすぐに古紙の匂いに吸い込まれて、棚の背表紙の列へ消えていく。


 開店の準備は、毎日ほとんど同じだ。照明のスイッチを入れて、ガラスの拭き跡を確かめる。入口に置いた小さな黒板を、外へ向けて少しだけ角度を変える。黒板には、手書きで「古書買い取ります」とだけ書いてある。余計な文句は添えない。救う気があるなら、最初から別の看板を出す。


 レジ横の帳面を開く。仕入れ帳だ。日付と、冊数だけ。金額も、客の名前も、事情も書かない。書かないために帳面を置いているみたいなものだ。


 今日の日付の欄が空白なのを確認して、ペンを棚へ戻す。開店前に書くと、なんとなく縁起が悪い。売る本は、人が手放して初めて店に来る。まだ来ていないものを数えるのは、先回りして誰かの背中を押すみたいで気持ちが悪い。


 カウンターの奥、査定用の机を拭く。古い木の天板に、布の繊維が引っかかる。指先にざらりとした感触が残る。布を替えるほどのことじゃない。そのままにしておく。


 鈴が鳴ったのは、開店の札を出してから十五分後だった。


 扉が開く音は小さかった。けれど、入ってくる人の気配は、音より先に届くことがある。紙が擦れる匂い。湿っていないのに、息が熱い。


 若い女性だった。年齢は二十代前半だろうか。髪はきちんと結んでいるのに、襟足が少し乱れている。手には紙袋。丈夫な紙袋の角が擦れて白くなり、そこだけ柔らかく折れ曲がっている。何度も持ち直した跡だ。


 傘は持っていない。外は雨上がりなのに、肩がわずかに湿って見える。雨粒なのか汗なのか、判別がつかない程度の湿り気。近づくほど、店の匂いの中にその人の体温が混ざる。


 女性はカウンターの前に立ち、口を開いた。


「……売れますか」


 それだけだった。店の名前も、本の冊数も、持ち込みの理由も言わない。視線は棚の背表紙に合わず、どこか一点を避けるように漂っている。背筋は伸びているのに、指先だけが落ち着かない。紙袋の持ち手を、細い指が何度も握り直している。


 私は頷いた。言葉は足りる。


「奥へ」


 カウンターの横を通って、査定机のあるスペースへ案内する。客を奥へ通すとき、店の人間の距離が決まる。対面の会話ではなく、同じ机を挟む作業の距離だ。相談でも説教でもない。並べた本の背を、ただ見ていく距離。


 女性は椅子に座る前に、紙袋を一度机に置き、また抱え直した。置くのが怖いというより、置いた瞬間に何かが決まってしまうのを嫌がっているようだった。


「こちらへどうぞ」


 椅子を引いて示すと、ようやく腰を下ろした。紙袋は膝の上に乗せたまま。袋の角が、スカートの布を押し潰す。


 私は「袋をこちらへ」と手を伸ばす。女性は一瞬だけ肩を強張らせ、それから紙袋を机へ滑らせた。紙が木の上を擦る、乾いた音。


 袋の中には文庫と単行本が混ざっていた。カバーがかかったままのものもあれば、カバーのないものもある。紙ヤケの色がそれぞれ違う。読んだ時期が違うのだろう。


 数冊、蔵書印が押されている。本の見返しに、丸いエンボス。図書館のものではない。個人の印だ。名前ではなく、簡単な模様だけのもの。持ち主が、持ち主であることを確認するための印。


 私は一冊ずつ、カバーの擦れを確かめ、背表紙の歪みを見て、ページの黄ばみを開いて確認する。書き込みがないか、折り目がどこにあるか。古書の値段は、本そのものと、その本が過ごした時間の痕跡で決まる。痕跡は、物として触れることができる。


 女性は手を膝の上で組み、ほどいて、また組んだ。呼吸が浅い。時々、唇が開いて、閉じる。言いかけて飲み込む動き。何か言いたいのだろう。急ぎの理由。売る理由。戻れない理由。


 私は作業を止めない。止めた瞬間に、話を聞くための隙間ができる。隙間ができれば、相手は埋めようとする。人は空白に耐えられない。埋めた言葉を、後から取り戻すことは難しい。


 それは、客のためでもあるし、私のためでもある。


「……急ぎで」


 女性が、やっと声を出した。声が小さく、喉の奥で引っかかる音がした。言葉が細い。無理に絞ったみたいな細さ。


 私は顔を上げなかった。「急ぎで」の次を待つような間も作らない。ページをめくる指先だけが、淡々と動く。


 女性の指が、紙袋の縁を潰し始めた。力を入れている自覚がないまま、角が歪む。紙が白くなる。傷が増える。傷は、増えてから気づく。


 査定は時間がかかるほどいい、というわけではない。けれど、急かされて良い値段は出ない。古書は生鮮食品ではないが、扱いは似ている。乱雑に運ばれたものは、乱雑な値段にしかならない。


 私はまとめて値付けをするのではなく、束ごとに概算を積み上げた。文庫のセット、単行本、状態の良いもの、状態の悪いもの。蔵書印のあるものは、印が価値になることもあるし、逆に買い手を選ぶこともある。売り物として置くなら、客の手に渡るまでの時間を想像する必要がある。


 女性の視線が、私の手元の本に落ちたり、浮いたりする。けれど、その目は値段を見ているというより、本そのものを見ていない。紙袋から出た本が、机に並ぶたびに、少しずつ彼女の背中が硬くなる。


 最後に残った一冊を手に取ったとき、薄い紙の反りが指に当たった。詩集だった。布装丁で、背の布がわずかに起毛している。見返しに蔵書印。印の跡が、紙の裏側まで微かに響いている。


 私は見返しを開き、挟まっていたものに気づいた。


 レシートだ。


 白い感熱紙は、端が丸まり、印字は薄く、文字がところどころ欠けている。日付は見えた。古い。数字の形が、今のレジとは少し違う。金額も、商品名も、薄く残っている。何を買ったレシートなのかは読み取りづらいのに、日付だけが妙にくっきりと残っている。


 私はレシートを引き抜いた。


 その瞬間、冷気が指先から腕へ走った気がした。もちろん、店の中は暖房を入れている。冷える理由はない。なのに、駅のホームに立ったときのような、足首から上がってくる冷え方が一瞬だけ重なった。


 金属の音。終電間際の改札の、間の抜けた警告音。人のいないホームで、遠くの線路が鳴る音。湿ったコートの匂い。


 視界の端が、ほんの少しだけ白く飛んだ気がした。


 私は、呼吸をひとつ置いた。鼻から吸って、口から出す。その間に、重なったものは剥がれていく。感覚は元に戻る。レシートはただの紙だ。紙は紙だ。


 それでも、指先に残る冷えだけは、しつこく消えなかった。


 レシートを、返却用に分ける。客に返すべきものだ。私物が挟まっていたなら、なおさら。私は詩集を閉じ、他の本と同じように机へ置いた。


 女性が、そのレシートを見たかどうかは分からない。視線は一瞬だけ私の手元へ来て、すぐに逸れた。彼女は見ていないふりをするのが上手い。上手い人ほど、見ていないわけではない。


 私は電卓を叩き、紙に金額を書いた。紙を彼女のほうへ滑らせる。値段を口で言うより、紙で渡すほうが誤読されない。誤読が起きれば、こちらの責任になる。誤読を起こさないために、できることをする。


 女性は紙を見た。目が止まる。まぶたが一度だけ強く閉じられて、開いた。口の端がほんの少しだけ動く。笑ったのか、息を吐いたのか、判断できない程度の変化。


「……じゃあ」


 声が少しだけ低くなった。


「これだけ、残します」


 女性は紙袋の中に手を入れて、一冊を抜いた。動きは迷いがないようで、迷いがあった。抜く直前、指先が背表紙の上で止まった。止まり方が、紙を撫でるというより、確かめるみたいだった。


 抜いたのは詩集だった。蔵書印のある、布装丁の一冊。


 私は頷いた。理由を問わない。「なぜこれだけ残すのか」と聞けば、彼女は答えを探してしまう。答えを探す時間を、私は奪わない。


「承知しました」


 金額を再計算する。紙に書いた数字を、線で消して新しい数字を書く。客の目の前で修正する。隠して奥で直すと、疑われる。疑いを生むと、事情の聞き取りに繋がる。事情を聞き取ると、店の輪郭が崩れる。輪郭が崩れれば、客はここに来られなくなる。


 私はレジから現金を出した。額面ごとに揃え、指で数えて、客の前へ置く。千円札は、端を揃える。小銭は、トレーへ。細かい動作は、余計な感情の入り込む隙間を塞ぐ。


 女性は現金を見た。受け取る手が少しだけ震えた。震えは、寒さではない。暖房の効いた店内で、肩の湿り気だけが消えない。


 彼女は財布を出さず、現金をそのまま紙袋へ入れた。本を入れるはずの紙袋の底が、紙幣の角で少し押される。紙袋は何かを運ぶためにあるのに、運ぶものが変わるだけで形が頼りなく見える。


「ありがとうございました」


 私は言った。決まり文句だ。店の人間が言うべき最低限の言葉。


 女性は、礼を言わなかった。言えないのか、言わないのか。どちらでもいい。礼は、ここでは必要ない。必要なのは、決めて帰ることだけだ。


 詩集を胸に抱えて立ち上がる。抱え方が、買った本というより、守るものみたいだった。紙袋を片手で持ち、扉へ向かう。歩く速度が、入ってきたときより少しだけ速い。


 鈴が鳴った。扉が閉まる。音が消えたあと、店内の静けさが一段深くなる。静けさは、何もないことではない。人の気配が抜けた空間が、元の形を取り戻す音だ。


 私は机の上の本をまとめ、棚へ戻す準備をした。買取は、ここからが仕事になる。売り物として並べるために、埃を払い、値札を付け、棚の空きへ収める。客の事情は知らないが、本の事情は扱う。本は物で、物は触れば分かる。触って分からないことに手を出すと、物も人も壊れる。


 詩集の見返しから抜いたレシートを、返却用の小さな封筒へ入れておくべきだった。けれど、封筒に入れる前に、紙の端を指でなぞってしまった。薄い感熱紙は、指の脂を吸い込む。印字がさらに薄くなる。


 私は指を止めた。


 また、あの冷えが来るかと思った。来ない。来ないことに、少しだけ肩の力が抜ける。来ないなら、ただの紙だ。紙は紙だ。


 それでも、駅のホームの匂いが、鼻の奥に残っている気がした。


 私は封筒にレシートを入れ、封筒を机の引き出しへしまった。引き出しは、客に返すべきものを入れる場所だ。返すべきものを返す。それだけで、余計な関係が生まれない。


 夕方まで、客はもう一人来た。中年の男で、雑誌を数冊置いていった。値段はほとんどつかなかったが、男はそれで構わないと言った。構わないと言うとき、構わないわけではない。けれど、構わないと言われた以上、私は構わない顔で紙を渡す。


 日が落ちる頃、店の照明がガラスに映り、外から見ると店が明るく見える時間が来る。明るい店ほど入りづらい、と言う人もいる。私はその意見に同意しない。明るくても暗くても、入りづらいものは入りづらい。結局は、自分の中の決断の問題だ。


 閉店の札を出し、扉の鍵をかける。シャッターは下ろさない。人は、閉まっている店ほど覗きたくなる。覗かれたくないものがある店ほど、シャッターで守りたがる。うちは守らない。守るべきものは、店の中ではなく、店の人間の手の届かない場所にある。


 レジ横の帳面を開く。今日の日付の欄に、冊数を書く。買い取った冊数は、二十七。丁寧に数字を書く。数字は嘘をつかない。嘘をつかない数字だけを並べて、嘘をつく言葉を減らす。


 帳面を閉じたとき、視線がふと棚の最上段へ行った。


 そこには、売り物ではない一冊がある。布装丁で、背に題名がない。題名のない本は存在しない。存在しないのに、そこにある。客に見えない場所に置いてあるのは、見せたくないからではなく、見せる必要がないからだ。


 私は椅子から立ち上がり、踏み台を引き寄せた。踏み台に乗れば、手は届く。届くのに、指先が止まる。触れれば何かが起きる、と信じているわけではない。起きるかどうか分からないことを、分からないままにしておきたいだけだ。


 指先を引っ込める代わりに、私はカウンターの引き出しを開けた。中には、小さな真鍮の鍵が入っている。古い鍵で、表面が擦れて鈍い光をしている。鍵の歯が細かく、見れば見るほど、何の鍵だったか思い出したくなる形をしている。


 私は鍵を手のひらに乗せた。金属は冷たい。けれど、さっきの冷えとは違う。これは現実の冷たさだ。冷たいと分かる冷たさは、まだ扱える。


 鍵を元の位置へ戻し、引き出しを閉める。閉める音が、店の静けさに溶ける。


 踏み台を戻し、照明を落とす。暗くなると、本の背表紙の色が一斉に沈む。店が店でなくなる瞬間だ。人がいなくなった店は、ただの箱になる。箱の中に、時間が積もる。


 私は戸締まりを確認しながら、口の中で言葉を転がした。誰かに言うためではなく、言わないために言葉が残るときがある。


「終わらせるなら、ちゃんと終わらせろ」


 声は自分の耳にだけ届く程度だった。誰に向けた言葉かは、自分でも決めていない。決めないままに置いておく。決めた瞬間に、話が始まってしまうからだ。


 外へ出ると、路地の湿った匂いがまた戻ってきた。雨は止んでいる。けれど、水はまだ残っている。残っている水は、乾くまでそこにある。乾くことが終わりだとしたら、終わりはいつもゆっくり来る。


 路地を出る手前で、私は振り返った。看板の剥げた文字が、暗がりで半分だけ浮かぶ。店の名前は途切れている。途切れていても、客は来る。来るべき人だけが来る。


 そして、今日の女性も、きっとどこかで詩集を開くだろう。開くのか、開かないのか。どちらでもいい。彼女が決める。


 私が決めるのは、聞かないことと、置くことだ。


 この店は、人の事情を救わない。けれど、救わない場所があることで、人は自分の決断を自分のものにできる。救われた決断は、いつか他人のものになる。


 路地の外の通りへ出たとき、遠くで電車の走る音がした。金属の音。終電ではない。まだ早い時間だ。


 それでも、一瞬だけ、あの薄いレシートの冷えが指先に戻った気がした。私は立ち止まらずに歩いた。戻る必要はない。戻れば、触れてしまう。


 触れないと決めたなら、今日は触れない。


 明日も、たぶん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る