モンシロチョウ

───甘い香りがした。


甘い香りを放ちながら、あなたはいつも本を読んでいた。

ブックカバーがかけられていて、何の本かはわからない。

そんなミステリアスなところさえ、あなたは魅力的だった。


ページをめくる指先、伏せた睫毛。

本を読むあなたの姿は、まるで絵画のように美しかった。


思いもよらなかった。

話しかけてきたのは、あなたの方だった。


本を読んでいる私を、あなたは見つけてくれた。


「同じ本ですね」


たった一言。

それだけなのに、初めて聞いたあなたの声は低く、やさしく、

私の心をゆっくりと溶かした。


私は頷くことしかできなかった。

あとから、後悔だけが残った。

もっと話せたはずなのに。

もっと、あなたの声を聞きたかった。


あなたの声が、頭から離れない。

低くやさしい声。子犬のような無垢な微笑み。

本を読んでいるときのあなたとは、まるで別人だった。


その多面性に、私は夢中になった。


カフェへ向かう途中だった。

あなたが、女性に声をかけられていた。


整った見た目は、人を引き寄せる。

自然なことだ。わかっている。

それでも、その光景を見たくなかった。


通り過ぎようとした、そのとき。


「そんなに、かっこよくないですよ」


謙遜するあなたの声だけが、耳に残った。

こんなにも整った見た目なのに。

あなたは自覚がないのだろうか。

本当に、そう思っているのだろうか。


その無自覚さと、誠実さに、胸が高鳴った。


先にカフェへ着いた私は、いつもの席に座る。

いつものミルクティー。

この時間帯に集まる人たちの、暗黙の了解。

コーヒーを持つ手が、わずかに震えた。


あれから、あなたはどうしただろう。

あの女性と、どこかへ行ったのかもしれない。

今日は、もう来ないのだろうか。


店内のドアが開いた。


——あなた、だった。


よかった。

来てくれた。


「ホットのブラックコーヒーで」


いつも通り。

あなたはそれしか飲まない。

それを知っていることが、嬉しかった。


そして、あなたの声は、今日もやさしく、甘い。


甘い香りに誘われた蝶は、

羽ばたくことをやめ、

静かに溶けることだけを選んだ。

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