6話 眠れぬ夜の騎士
その日の朝、王宮の楽団練習場には、奇妙な空気が漂っていた。
指揮者のカールをはじめ、楽団員たちが整列する前で、ゲルマン伯爵が胸を反らしている。その横には、やたらと派手な服を着た一人の青年が立っていた。
金髪をこれでもかと巻き上げ、胸元が大きく開いたシャツに、無駄にフリルのついたスカーフ。手には、宝石が埋め込まれた金色のフルートを持っている。
「皆の者、紹介しよう! 彼こそが、あの平民――音瀬奏の後任として、我が楽団の首席フルート奏者に就任した、私の愛すべき甥だ!」
ゲルマン伯爵が大げさに腕を広げる。
青年はバサリとスカーフを翻し、自信満々に一歩前へ出た。
「やあ、諸君。僕の名はベン・フォン・ホフマンだ。これからは僕が、この楽団に高貴なる『本物』の音色をもたらしてあげるよ。光栄に思うといい」
場が水を打ったように静まり返る。
あまりの尊大さと、そこはかとなく漂う「残念な予感」に、団員たちは顔を見合わせた。
コンサートミストレスのアメリが、小声で隣の奏者に囁く。
「……ねえ、名前なんだっけ? ベン……ジャミン?」
「いや、確かベン・ジョンソンとか言ってたような」
「弁当……はんぺん?」
「それだ」
押し殺したような笑い声が漏れる。
ベンはそれを歓迎のざわめきと勘違いしたのか、満足げに頷いている。
「ありがとう、ありがとう! さあ、早速練習を始めようか。僕の美技に酔いしれるがいい!」
ベンが金色のフルートを構える。
そして、大きく息を吸い込み――勢いよく吹き鳴らした。
耳を劈くような鋭い高音が、空間を切り裂いた。
音量は確かに大きい。だが、それはただ大きいだけだった。音程は不安定で、ヴィブラートは虫の羽音のように不快に揺れている。
何より、音に「芯」がない。
遠くまで届く深みのある音瀬奏の音色とは、雲泥の差だった。
指揮者のカールが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
アメリは露骨に顔をしかめ、耳を塞いだ。
「ど、どうだね? 素晴らしい迫力だろう!」
ゲルマン伯爵だけが、引きつった笑顔で拍手をしている。
ベンは肩で息をしながら、酸欠で赤くなった顔を上げ、得意げに髪をかき上げた。
「まあ、ウォーミングアップはこんなものかな。……おい、そこのバイオリンの方。僕の音が大きすぎて、君の音が聞こえないよ。もっと気合いを入れて弾きたまえ」
ベンがアメリを指差して言う。
アメリのこめかみに、青筋が浮かんだ。
(……カナデ。あんた、早く戻ってきなさいよ。じゃないと私がこのおバカさんを弓で刺しちゃうわよ)
宮廷楽団の崩壊への序曲は、こうして高らかに鳴り響いたのだった。
§
一方その頃。
宮廷の喧騒とは無縁の場所で、音瀬奏は静かな夜を迎えていた。
王都の南、城壁の外を流れるルミナス川。
その川辺にある大きな柳の木の下が、今の奏の練習場所だ。
時刻は深夜。
空には二つの月が浮かび、川面を幻想的に照らしている。
昼間はリスや鳥たちが集まる賑やかな場所だが、夜は静寂そのものだ。川のせせらぎと、草木が風に揺れる音だけが聞こえる。
「……ふぅ」
奏は黒いフルートを下ろし、夜空を見上げた。
昼間、練習をしていると、通りがかりの商人や旅人が足を止め、小銭を投げてくれるようになった。おかげで宿代には困らない。
だが、音楽家としての本能が、もっと深い表現を求めていた。
「今夜は、バラードの気分かな」
奏は再び楽器を構えた。
選んだ曲は、ジャズ・スタンダードの名曲『Misty』。
霧に包まれたような、甘く、切なく、そしてメロウな旋律。
深く、柔らかな低音が響き渡る。
現代フルート特有の、息の成分を多く含んだハスキーな音色。
それが夜の冷気と混ざり合い、とろけるような空気を醸成していく。
誰もいない観客席。
けれど、奏は満足だった。自分の音が、世界の一部に溶けていく感覚。
その時だった。
「――お前、そこで何をしている」
凛とした声が、背後から飛んできた。
音楽に浸っていた奏は、驚いて演奏を止めた。
「誰ですか?」
振り返ると、柳の影から一人の人物が歩み出てきた。
月光を浴びて、銀色の鎧が鈍く光る。
腰には長剣。背中には深紅のマント。
燃えるような赤い髪を後ろで束ねた、凛々しい女性騎士だった。
彼女は鋭い眼光で奏を見つめている。
その瞳は切れ長で美しいが、目の下には濃い隈があり、疲労の色が色濃く滲んでいた。
「こんな時間に、城壁外で一人か? 密猟者という風体ではないが……」
「い、いえ! ただのフルート吹きです」
奏は慌てて両手を挙げた。右手にはフルートが握られている。
「フルート……?」
騎士は不思議そうに眉を寄せ、奏の手元を見た。
そして、小さく息を吐いた。第一声のような警戒心は薄れ、職務に忠実な堅物といった雰囲気に戻る。
「楽器の練習か。こんな真夜中に熱心なことだ」
「昼間は人が多いので、静かな夜に吹きたくて。……すみません、うるさかったですか? すぐに帰ります」
相手は王宮騎士団の人間だろう。下手に目をつけられてはたまらない。
奏が片付けようとすると、騎士が静かに制止した。
「待ってくれ」
「はい?」
「……キミ、そのまま続けてくれないか」
意外な言葉に、奏は瞬きをした。
騎士は少しバツが悪そうに視線を逸らし、重い足取りで柳の木の根元に腰を下ろした。
「巡回中、風に乗って不思議な音が聞こえたのだ。……それが、妙に心地よくてな。確認に来たのだが、止めてしまうのは惜しい」
彼女は重たげに溜息をつき、兜を外して横に置いた。
露わになった横顔は、張り詰めた糸のように緊張していた。
「……ここ数日、王都周辺の魔獣討伐で気が立っていてな。布団に入っても、魔獣の唸り声が耳に残って眠れないのだ。魔術師に睡眠魔法をかけてもらっても、悪夢を見るばかりで……」
独り言のような呟き。
深刻な不眠症だ。騎士という職業柄、常に交感神経が高ぶっているのだろう。
(眠れない、か……)
奏はその辛さを想像した。
休息が取れなければ、いつか心が折れてしまう。
「わかりました。……じゃあ、騎士様のために一曲」
「別に、私のために吹けとは言っていないぞ。キミが練習するのを、私がここで見守るだけだ」
彼女は腕組みをして、木にもたれかかった。
言葉は固いが、敵意はない。
奏は少し息を整え、優しい音色を作る準備をした。
彼が必要としているのは、技巧的なジャズではない。
もっと根源的な、母の腕の中のような安らぎだ。
奏が吹き始めたのは、ロベルト・シューマンの『トロイメライ(夢)』。
ゆったりとした、穏やかな旋律。
奏は意識して「1/fゆらぎ」――小川のせせらぎや風の音に含まれる、生体がリラックスするリズムをヴィブラートに乗せた。
現代の音楽療法でも使われるテクニックだ。
温かい音が、夜の空気に溶け出す。
騎士の肩が、微かに震えた。
「……綺麗な音だ」
彼女がぽつりと呟く。
強張っていた筋肉が、音の波に洗われて一本一本ほぐれていくような感覚。
脳の奥が痺れるように甘く、重くなっていく。
彼女は必死に目を開けていようとしたが、抵抗は長くは続かなかった。
奏の音は、優しく、しかし確実に彼女の意識を包み込んでいく。
彼女の頭が揺れ、やがて胸元に落ちた。
そして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
あの凛々しい騎士様が、今は無防備に口を少し開け、あどけない顔で眠っている。
奏は曲の最後まで丁寧に吹き切り、そっと楽器を下ろした。
「……お疲れ様です」
起こすのは忍びない。
奏は自分の上着を脱ぐと、そっと彼女の肩にかけてやった。
夜風は冷たい。風邪を引かないといいけれど。
そのまま、奏は彼女が起きるまで、朝焼けを待つことにした。
§
小鳥のさえずりで、世界が明るくなる。
騎士が勢いよく跳ね起きた。
彼女は瞬時に剣に手をかけ、鋭い視線で周囲を警戒する。
その動きは洗練されていたが、肩から滑り落ちた上着を見て、動きが止まった。
「……私は、寝ていたのか? 野外で? 朝まで?」
信じられない、といった顔で自分の手のひらを見る。
「あ、おはようございます」
少し離れた場所で、川の水で顔を洗っていた奏が声をかけた。
騎士はハッとして立ち上がり、顔を赤らめた。
「す、すまない! 私としたことが、任務中に眠りこけてしまうとは……!」
「いえ、相当お疲れだったみたいですから。よく眠れましたか?」
「……ああ」
彼女は自分の身体を確認し、驚いたように目を見開いた。
「信じられない……身体が軽い。頭の芯にあったモヤが、完全に晴れている。こんなに深く眠れたのは、何年ぶりだろうか……」
彼女はまじまじと奏を見た。そして、居住まいを正し、一礼した。
「礼を言う。キミの音楽は、魔法よりも効くようだ」
「それは良かったです」
「そこで、相談なのだが……」
彼女は少し言い淀み、頬を染めながら奏を見た。
「キミ、明日もここに来るか?」
「ええ、まあ。練習場所はここしかないので」
「そうか。……ならば、頼みがある」
彼女は真剣な眼差しで言った。
「私を……いや、私の部隊の騎士たちを含め、安眠させてほしいのだ。皆、激務で神経が摩耗している。キミのその音があれば、短時間でも質の高い休息が取れるはずだ。……これは、王都の治安を守るための正式な依頼だと思ってくれ」
彼女は言葉を切ると、懐に手を入れた。
「もちろん、相応の報酬は支払う。騎士の名誉にかけて、タダ働きをさせるような真似はしない」
「報酬、ですか」
奏は少し困ったように眉を下げ、それから首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいですが、お金は結構ですよ」
「なっ、なぜだ? 金額の交渉がしたいのか?」
「違います。僕はただ、練習をしているだけですから。騎士様たちがそれを聴いて休んでくれるなら、僕としても嬉しいことです。誰かの役に立てるなら、それが一番の報酬ですから」
奏は穏やかに、しかしきっぱりと言った。
音楽は商品でもあるが、奏にとってはそれ以上に「生活そのもの」だ。特に、疲れている人を癒やすためだけの演奏に、金銭のやり取りは似合わない気がした。
「……キミは、無欲なのだな」
彼女は呆気にとられたように瞬きをし、それから懐に入れた手をゆっくりと下ろした。
「わかった。無理に押し付けるのは、騎士として無粋だな。……だが、借りは必ず返すぞ」
彼女は表情を和らげた。
その笑顔は、鉄壁の騎士という仮面の下にある、年相応の女性のそれだった。
「私はライラだ。王宮騎士団、第三部隊隊長のライラ・フォン・ベルンシュタインだ」
「音瀬奏です。カナデと呼んでください」
「わかった、カナデ。……では、言葉に甘えて、明日の夜もまた寄らせてもらう」
ライラはマントを翻し、颯爽と歩き出した。
しかし数歩進んで立ち止まり、振り返った。
「あの……上着、ありがとう。……暖かかった」
それだけ言うと、彼女は顔を真っ赤にして、逃げるように走り去っていった。
金属音を響かせながら遠ざかっていくその背中を、奏は見送った。
「……面白い人だな」
奏は朝の光の中、軽やかな足取りで宿へと戻っていった。
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