5話 川辺の音楽会と小さな聴衆たち

 王宮を追放された翌日。


 音瀬奏は、王都の南区画にある宿屋『金羊亭』の一室で目を覚ました。


 古びた木の天井。薄っぺらい布団。窓の隙間からは、朝の市場の喧騒と、どこか生臭い川の匂いが漂ってくる。


 豪奢な天蓋付きベッドも、朝一番に飛び込んでくるメイドも、甘えん坊の王女も、ここにはいない。


 奏は天井を見つめ、大きく息を吐いた。


「……さて、と」


 感傷に浸っている暇はない。


 ハインリヒから貰った金貨のおかげで、当面の生活費には困らない。だが、一生遊んで暮らせる額ではないし、何より奏自身がそれを良しとしなかった。


 音楽家は、演奏してなんぼだ。


 場所が変わろうと、聴衆が変わろうと、やることは変わらない。


 幸い、手元には愛用の黒いフルートがある。これさえあれば、自分はどこでだって「音瀬奏」でいられる。


 奏は身支度を整え、フルートケースを手に部屋を出た。


   §


 宿屋の女将に「練習できるような静かな場所はないか」と尋ねると、彼女は怪訝な顔をしながらも、街の外れにある川辺を教えてくれた。


 王都を囲む城壁の外。そこには広大な草原と、緩やかに流れる大河がある。


 人通りは少なく、たまに荷馬車が通る程度だ。ここなら誰に気兼ねすることなく音が出せる。


 奏は川沿いの大きな柳の木の下に腰を下ろした。


 川面を渡る風が心地よい。水面が陽光を反射して煌めいている。


 ケースを開け、黒いフルートを組み立てる。


 銀のキーが朝日に反射して鈍く光る。この世界にはない、精密なメカニズムの輝きだ。


(まずは、基礎練からだな)


 奏はロングトーン(長音)から始めた。


 低音から高音まで、一つの音を長く、安定して響かせる。


 腹式呼吸で支えられた息が、管体を振動させる。


 豊かで太い低音が、足元の地面を微かに震わせる。


 突き抜けるような高音が、青空を切り裂くように伸びていく。


 やはり、外で吹くのは気持ちがいい。


 宮廷のホールのような計算された音響はないが、音が風に乗ってどこまでも飛んでいく開放感がある。


 自分の音が、空に溶けていくようだ。


 三〇分ほど基礎練習をした後、奏は曲を吹くことにした。


 選んだのは、クロード・ドビュッシー作曲『シランクス』。


 無伴奏フルートのための名曲だ。


 ギリシャ神話の牧神パンと、葦に変えられた妖精シランクスの物語を描いた、幻想的でミステリアスな旋律。


 奏が吹き始めると、周囲の空気が変わった。


 ゆらゆらと漂うような半音階。定まらない調性。


 それは、この世界の「魔法」とは異なる、音楽による幻術のようだった。


 ふと、視線を感じた。


 人が通ったのかと思い、奏は演奏を中断することなく、そっと目を開けた。


 そこにいたのは、人間ではなかった。


 柳の木の枝から、一匹のリスが身を乗り出してこちらを見ていた。つぶらな瞳が、奏の手元の黒い棒に釘付けになっている。


 足元には、いつの間にか野良猫が一匹座り込んでいた。薄汚れた茶トラの猫だが、その表情は妙に穏やかだ。


(……動物?)


 奏は驚いたが、演奏を止めなかった。止めると彼らが逃げてしまいそうな気がしたからだ。


 むしろ、この小さな「聴衆」のために、より丁寧に音を紡いだ。


 曲が進むにつれ、その数は増えていった。


 川の方からは、数羽の水鳥が岸に上がってきた。


 草むらからは、警戒心の強そうな野ウサギが鼻をひくつかせながら顔を出した。


 蝶がひらひらと舞い、奏の肩にとまる。


 まるで、ディズニー映画のプリンセスにでもなった気分だ。


 奏は心の中で苦笑したが、悪い気はしなかった。


 宮廷楽団では「音が大きすぎる」「品がない」と否定された音。


 しかし、言葉を持たない動物たちには、その強い波動が心地よいのかもしれない。


 フルートの豊かな倍音は、自然界の音に近い「1/fゆらぎ」を含んでいると言われる。それが彼らの本能に響いているのだろうか。


 最後の音が、静かに消えていく。


 奏はフルートを下ろし、深く息を吐いた。


 普通なら、ここで動物たちは散り散りに逃げるはずだ。


 しかし、彼らは動かなかった。


 リスは枝の上で尻尾を揺らし、猫は甘えた声を上げて奏の足に身体を擦り付けてきた。


「……気に入ってくれたの?」


 奏が猫の顎の下を撫でてやると、猫は喉を鳴らして目を細めた。


 その温かさが、奏の指先に伝わる。


 昨日の今日だ。


 理不尽に解雇され、住む場所も追われた孤独感は、奏の心のどこかに棘のように刺さっていた。


 けれど、この小さな温もりが、その棘を優しく溶かしていくようだった。


「ありがとう。君たちは、僕の音を嫌いじゃないんだね」


 奏が微笑むと、今度はリスがするすると木から降りてきた。


 そして奏の膝の上にちょこんと乗ると、頬袋から何かを取り出し、奏の手に落とした。


 どんぐりだった。


「え、これをくれるの?」


 リスは短く鳴き声を上げると、満足そうに奏の肩まで駆け上がってきた。


 それを見ていた水鳥たちも、負けじと川底から拾ってきたらしい綺麗な小石を奏の足元に置き始めた。


 野ウサギは、どこからか野花を咥えてきて、恥ずかしそうに奏の近くに置いて去っていった。


(なんだ、これ……)


 奏の周りには、いつの間にか木の実や小石、野花といった「贈り物」が集まっていた。


 言葉は通じない。


 けれど、確かに心は通じていた。


 マリーと触れ合った時のような、直接的なテレパシーではない。


 もっと原始的で、純粋な、魂の共鳴のようなもの。


 奏は拾い上げたいびつな形のどんぐりを、宝石のように大切にポケットにしまった。


「そっか……。宮廷にいなくたって、聴いてくれる相手はいるんだ」


 人間相手だろうが、動物相手だろうが、音楽の本質は変わらない。


 届く相手に、精一杯届けるだけだ。


 奏は大きく深呼吸をした。


 川の匂い、草の匂い、そして動物たちの匂い。


 王宮の薔薇の香水よりも、今の奏にはこちらの方がずっと心地よかった。


「よし、もう一曲いこうか」


 奏が再びフルートを構えると、動物たちは嬉しそうに耳を立てた。


 猫は特等席である奏の膝の上で丸くなり、リスは肩の上で指揮者のように尻尾を振る。


 次に選んだのは、モーツァルトの『フルート協奏曲』。


 明るく、軽快で、生命力に溢れた曲だ。


 奏の指が軽やかに動く。


 跳ねるようなスタッカートが、川面のきらめきと重なる。


 動物たちも、リズムに合わせて身体を揺らしているように見えた。


 通りかかった荷馬車の御者が、目を丸くしてその光景を見ていた。


 柳の下でフルートを吹く少年と、それを取り囲む動物たちの輪。


 それはまるで、御伽噺のワンシーンのようだった。


 奏は夢中で吹き続けた。


 時間を忘れ、空腹も忘れ、ただ音の中に身を委ねた。


 気づけば、太陽は中天に昇っていた。


 腹の虫が小さく鳴き、膝の上の猫が「またか」と呆れたように見上げてくる。


「あはは、ごめん。そろそろお昼だね」


 奏はフルートを下ろし、楽器の手入れを始めた。


 スワブを通し、指紋を拭き取る。その手つきは慈しむように丁寧だ。


 動物たちは、演奏が終わると三々五々に散っていった。


 けれど、去り際に一度振り返り、別れの挨拶のように鳴いていく。


 きっと、明日もここに来れば彼らに会えるだろう。


「……さて、街に戻って何か食べようか」


 奏はケースを抱え、立ち上がった。


 足取りは軽い。


 昨日までの重苦しい気持ちは、すっかり消え失せていた。


 王宮楽団の首席奏者という肩書きはなくなった。


 けれど、代わりに「森の音楽隊長」という新しい称号を手に入れた気分だ。


 奏は軽やかな口笛を吹きながら、城壁の方へと歩き出した。


   §


 それから、一週間ほど。


 奏は毎日この川辺に通い、動物たちに向けて演奏を続けた。

 

 朝、宿を出て川辺へ向かい、午前中は基礎練習。午後は集まってくる動物たちとの即興コンサート。


 彼らが持ってくる「贈り物」は日増しに増え、宿の部屋はちょっとしたコレクションルームのようになっていた。


 誰にも邪魔されず、政治的な思惑もなく、ただ好きな音楽を好きなだけ奏でる日々。


 それは、彼が前世から求めていた穏やかな幸福そのものだった。


 しかし、そんな牧歌的な日々は、唐突に終わりを告げることになる。


 その日の帰り道。


 彼の背中を、遠くから鋭い視線が見つめていることに、奏はまだ気づいていなかった。


 それは、野生動物よりも遥かに強く、気高い「獣」の視線だった。

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