7話 騎士団の隠れ家

 王宮騎士団、第三部隊。


 それはウェストリア王国の精鋭部隊であり、主に王都周辺の魔獣討伐や治安維持を担う、泣く子も黙る武闘派集団である。


 その隊長を務めるライラ・フォン・ベルンシュタインは、部下たちから「鉄の女」「歩く要塞」などと呼ばれ、畏敬の念を集めていた。


 そんな彼女が、ある日の早朝、部隊の詰め所で驚くべき宣言をした。


「総員、装備を整えよ。これより『特殊回復任務』を行う」


 副隊長のゲイルが進み出る。頬に古傷のある、熊のような巨漢だ。


「隊長。回復任務とは、教会のヒーラーの元へ向かうのですか? 確かに連日の激務で、皆の疲労は限界ですが……」


 部下たちの顔色は最悪だった。


 ここ一週間、王都近くの森で凶暴な魔獣イビルボアの群れが発生し、その討伐のために不眠不休の戦いが続いていたのだ。突進してくる巨大な猪の群れを食い止める壁役として、彼らは心身ともに摩耗しきっていた。目の下には濃い隈ができ、立っているだけで精一杯の者もいる。


 対照的に、隊長のライラだけは肌艶が良く、妙に目が冴えていた。


「教会ではない」


 ライラは断言した。


「教会の神聖魔法は、傷は治せても『心の摩耗』までは治せない。我々に必要なのは、泥のような眠りと、真の安らぎだ」


「はあ……しかし、そんな場所が?」


「ある。私が昨日、発見した」


 ライラは自信満々にマントを翻した。


「ついてこい。ただし、現地では絶対に武器を抜くな。相手を刺激してはならない」


 隊長がそこまで言う場所とは、一体どんな危険地帯なのか。


 騎士たちは緊張の面持ちで、重い足取りを進めた。


   §


 その頃、音瀬奏はいつものように城壁外のルミナス川のほとりにいた。


 朝日を浴びながらの基礎練習。


 今日の「観客」も上機嫌だ。


 膝の上には茶トラの猫。肩にはシマリス。足元には野ウサギが二匹。少し離れた川面には水鳥たちが浮かんでいる。


 平和そのものの光景だった。


 奏が即興で軽やかなワルツを奏でると、リスが指揮棒を振るように尻尾を揺らす。


 しかし、その平穏は、地響きのような重厚な足音によって破られた。


 動物たちが一斉に耳を立て、警戒して茂みの中へ逃げ込む。


 奏もフルートを下ろし、音のする方を振り返った。


「……え?」


 そこには、異様な集団が迫っていた。


 銀色の鎧に身を包んだ、十数人の騎士たち。


 全員が武装し、目つきは鋭く、そして何より――顔色が悪い。


 まるで墓場から蘇った亡者の行進のように、ゆらりゆらりと近づいてくる。


(な、なに? 討伐隊? 僕、何か悪いことしたっけ?)


 奏が後ずさりすると、先頭にいた人物が兜を脱いだ。


 燃えるような赤髪。ライラだった。


「待たせたな、カナデ」


「ライラさん……?」


 奏は胸を撫で下ろした。彼女の姿を見て、ようやく心臓の鼓動が落ち着く。


「びっくりしましたよ。軍隊を引き連れてくるなんて」


「すまない。紹介しよう。私の可愛い部下たちだ」


 ライラが手招きすると、背後の男たちが整列した。


 可愛い部下、という表現には些か無理がある、屈強な男たちだ。彼らは奏を値踏みするように睨んでいる。


「隊長……ここが『回復地点』ですか? ただの川辺に見えますが」


 副隊長のゲイルが、訝しげに奏を見た。


「それに、この優男は? 武器も持たずにこんな場所で……」


「言葉を慎め、ゲイル。彼はただの優男ではない。最強の『術師』だ」


「術師?」


 ゲイルが目を丸くする。


 ライラは奏に向き直り、深々と頭を下げた。


「約束通り、連れてきたぞ。……見ての通り、皆ボロボロだ。イビルボアの突進を受け止め続け、神経が張り詰めすぎている。もはや自力では休息を取ることすらできなくなっているのだ」


 奏は騎士たちの顔を見渡した。


 殺気立っているように見えたが、近くで見れば、それが極限の疲労によるものだと分かった。


 彼らは強がって立っているが、精神の糸は今にも切れそうだ。


「……わかりました」


 奏は静かに頷いた。


「場所は適当に使ってください。芝生の上でも、木の根元でも」


「おい、小僧。何をする気だ?」


 ゲイルが低い声で問う。


 奏は微笑んで答えた。


「ただの演奏です。……少しの間、鎧の重さを忘れてもらうだけですよ」


 奏は息を吸い込んだ。


 選んだ曲は、エリック・サティの『ジムノペディ第1番』。


 ゆったりとした3拍子。


 あえて音の輪郭をぼやかし、空気に溶け込ませるようなタッチで吹き始める。


 第一音が響いた瞬間、場の空気が変わった。


 殺気立っていた空気が、水彩画のように滲んでいく。


 浮遊感のある和音が、騎士たちの堅固な精神防壁をすり抜け、その奥にある疲れた魂に直接触れる。


「な……んだ、これは……」


 ゲイルが目を見開いた。


 敵の魔法攻撃かと思い身構えようとしたが、身体が言うことを聞かない。


 いや、言うことを聞かないのではない。


 身体が「もう頑張らなくていい」と判断し、勝手に力を抜いてしまったのだ。


 金属音が鳴り響き、一人の騎士がその場に座り込んだ。


 それを合図に、他の騎士たちも次々と芝生の上に崩れ落ちていく。


「おい、お前ら! 気合を入れろ……と、言いたいところだが……」


 ゲイル自身も、抗いがたい眠気に膝を屈した。


 彼は大の字になって空を見上げた。


 青い空。白い雲。そして、優しく降り注ぐフルートの音色。


(ああ……俺は、いつから空を見ていなかっただろうか……)


 数秒後。


 屈強な副隊長から、寝息が漏れ始めた。


 数分もしないうちに、数十人の騎士たちが完全に夢の世界へと旅立った。


 起きているのは、奏とライラだけだ。


 奏は息継ぎの瞬間、ちらりとライラを見た。


 彼女は柳の木に寄りかかり、慈愛に満ちた目で、泥のように眠る部下たちを見つめていた。


 昨日のような疲労の色はない。十分に休息を取った彼女の瞳は澄んでおり、今はただ、この平和な時間を噛み締めているようだった。


 ライラが視線に気づき、奏に向かって穏やかに微笑んだ。


 言葉はいらなかった。


 その表情は「続けてくれ」と、そして「ありがとう」と語っていた。


 奏も目で応え、フルートに息を吹き込んだ。


 今度は、眠りを妨げない程度に、少しだけ彩り豊かな音色を混ぜていく。


   §


 演奏を続けていると、茂みの方から葉擦れの音がした。


 逃げていた動物たちが、そろりそろりと戻ってきたのだ。


 最初は警戒していた彼らだったが、天敵である人間たちが無防備に寝ているのを見て、安心したらしい。


 というより、奏の音楽に誘われて、居ても立っても居られなくなったようだ。


 茶トラの猫が、一番日当たりの良い場所――つまり、副隊長ゲイルの腹の上に音もなく飛び乗った。


 ゲイルは夢現に呻いたが、起きる気配はない。猫はそこをベッドと定めたらしく、丸くなって喉を鳴らし始めた。


 それを見た他の動物たちも、思い思いの場所を確保し始めた。


 若い騎士の腕枕でくつろぐウサギ。


 兜の飾りに止まる小鳥。


 ライラの足元にもシマリスが近寄り、彼女のブーツの匂いをクンクンと嗅いでいる。


 ライラは声を上げずに笑い、指先でそっとリスの頭を撫でた。


 彼女もまた、この不思議な空間の一部として溶け込んでいた。


 いかつい鎧姿の騎士団と、森の小動物たち。


 本来なら相容れないはずの二つの存在が、音楽という架け橋の上で、無警戒に寄り添っている。


 それはとてもシュールで、最高に平和な絵画のようだった。


(これも音楽の力……なのかな?)


 この世界にはない和声進行とフルートの倍音成分。


 それが、種族や立場の壁を超えて、本能的な安らぎを与えているのかもしれない。


 奏は曲を子守唄から、少しずつ明るい長調の曲へと移していった。


 彼らが目覚めた時、世界が美しく見えるように。


   §


 二時間後。


 太陽が高く昇った頃、騎士たちが一人、また一人と目を覚ました。


「ん……あ?」


 副隊長ゲイルが身じろぎする。腹の上の重みに気づき、目を開けると、そこには茶色の毛玉があった。


 猫と目が合う。


 猫は挨拶代わりに彼の顔を舐めると、するりと逃げていった。


「うわっ!?」


 ゲイルが飛び起き、慌てて周囲を見渡す。


 そして自分の身体を確認し、驚愕の表情を浮かべた。


「……痛くない」


 彼は自分の手を強く握りしめた。


 イビルボアの突進を受け止めて軋んでいた関節の痛みが消えている。鉛のように重かった四肢が、羽が生えたように軽い。


 体内の魔力も、完全に充填されていた。


「おい、お前ら! 身体はどうだ!?」


「た、隊長代理! すこぶる快調です!」


「腰の痛みが消えました!」


「昨夜の悪夢が嘘のようです!」


 騎士たちは口々に叫び、互いの肩を叩き合って喜びを分かち合った。


 その光景を見て、ライラが満足そうに頷く。


 ゲイルはツカツカと奏の元へ歩み寄った。


 その迫力に、奏は少し身構える。


「あ、おはようございます。その……勝手に寝かせちゃってすみませ――」


 奏の言葉は遮られた。


 ゲイルの両手が、奏の手を固く握りしめていたのだ。


「……感謝する!!」


 腹の底から響くような大声だった。


 ゲイルの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「あんた、凄すぎるぞ……。俺たちはもうダメかと思っていた。だが、たった数時間の昼寝で、一週間分の休暇を取った気分だ。あんたの音楽は、エリクサー以上だ!」


「そ、そうですか。それは良かった」


「術師殿! いや、先生! 俺たちの命の恩人だ!」


 他の騎士たちも集まってきて、奏を取り囲んだ。


 先ほどまでの殺気はどこへやら、全員が尊敬の眼差しを向けてくる。


「先生、次の遠征の前にも頼めないか?」


「いや、遠征の後もだ!」


「うちの部隊の専属になってくれ!」


 もみくちゃにされそうになる奏を、ライラが割って入って止めた。


「こら、キミたち! カナデが困っているだろう。彼は私の……そう、私が見つけた逸材なのだぞ」


 ライラは少し自慢げに胸を張った。そして奏に向き直る。


「カナデ。約束通り、報酬を……と言いたいところだが、キミは金を受け取らないのだったな」


「ええ。皆さんが元気になってくれたなら、それで十分です」


 ライラは困ったように腕組みをした。


 騎士のプライドとして、恩を受けっぱなしというのは居心地が悪いのだ。


 それを見ていたゲイルが、手を打った。


「よし、わかった。金を受け取らないなら、現物支給だ! おい、今日の糧食を全部持ってこい!」


「えっ」


「それと、森で採れた果物もあるぞ! あと、俺の実家から送られてきた干し肉もだ!」


 騎士たちが次々と荷物を解き、携帯食料や嗜好品を奏の前に積み上げ始めた。


 高級なジャーキー、乾燥フルーツ、ワイン、焼き菓子。


 あっという間に、ちょっとした食料庫のような山ができた。


「これくらい受け取ってくれ! じゃないと俺たちの気が済まない!」


「あ、ありがとう……ございます?」


 奏が戸惑いながら礼を言うと、騎士たちは満足そうに笑った。


 その時、一人の若い騎士が、奏の足元に集まっている動物たちを見て言った。


「しかし、先生は動物にも好かれているんですね。まるで音楽隊を率いる隊長みたいだ」


「音楽隊長……」


 ゲイルがその言葉を復唱し、ニヤリと笑った。


「いいな、それ。おい、今日からこの場所は我ら第三部隊の『聖域』とする! そして先生は、我らの名誉ある『水の音楽隊長』だ! 皆、異議はないな!」


「異議なし!」


 騎士たちが声を揃えた。その野太い声が川辺に響き渡り、動物たちが驚いて飛び跳ねる。


「いや、勝手に役職をつけないでください……」


 奏の抗議も虚しく、騎士たちはビシッと敬礼をした。


 去り際、彼らの背中は来た時とは比べ物にならないほど力強く、生気に満ちていた。


 残されたのは、山のような食料と、呆れたような顔の動物たち。


 そして、苦笑する奏。


「……まあ、いいか。これで食費は浮いたし」


 奏はリスのチップに干し肉の欠片を分けてやりながら、川面を見つめた。

 

 宮廷楽団を追放されて数日。


 地位も名誉も失ったはずなのに、今の奏の周りは、以前よりもずっと賑やかで、温かかった。


(マリー。僕は元気でやってるよ)


 遠くに見える王宮の尖塔に向けて、奏は心の中で語りかけた。


 いつか彼女がここに来られたら、この愉快な仲間たちを紹介してあげよう。


 そう思いながら、奏は再びフルートを手に取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る