2話 乙女の心の声

 目が覚めると、そこは天蓋付きの巨大なベッドの上だった。


 上体を起こし、周囲を見渡す。高い天井、豪奢なシャンデリア、猫足の家具。窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。


 夢では、なかった。


 音瀬奏は自分の頬をつねり、痛みに顔をしかめた。


 昨日の出来事が走馬灯のように蘇る。飛行機の墜落、異世界への転生、そして兵士に囲まれた危機をフルート一本で切り抜けたこと。


 奏はサイドテーブルに置かれた黒いフルートケースに視線をやり、安堵の息を吐いた。


 これさえあれば、なんとかなる。……たぶん。


 扉を叩く硬質な音が、室内の静寂を破った。


 どうぞ、と言う暇もなく扉が開く。


 入ってきたのは、エプロンドレスを身につけた若い女性――メイドだった。彼女はベッドの上の奏を見ると、表情を瞬時に輝かせた。


「――! ――、――?」


 彼女が何かを話しかけてくる。しかし、その言葉は意味を持たない音の羅列としてしか認識できない。


 言葉がわからないというのは、想像以上に孤独で不安なものだった。


 奏が困ったように首を傾げると、メイドは少し頬を染めて、口元を手で覆った。その瞳が熱っぽく潤んでいる。


 言葉はわからないが、その視線には見覚えがあった。親戚の集まりで「女の子みたいで可愛いわねぇ」とおば様たちに囲まれる時の、あの生温かい視線だ。


 彼女はかいがいしく洗面器とタオルを用意し、身振り手振りで顔を洗うように促した。


 顔を洗い、用意されていた服に着替える。


 絹のように滑らかな肌触りのシャツに、細身のズボン。サイズはあつらえたようにぴったりだった。鏡に映る自分は、どこかの貴族の少年のようだ。黒髪と童顔のせいで、余計に幼く見える。


 着替え終わったタイミングを見計らったように、扉が大きく開かれた。


 現れたのは、昨日奏を助けてくれた金髪の青年だった。


「――、――」


 青年は上機嫌に片手を挙げ、奏の肩を強く叩いた。馴れ馴れしいが、嫌な感じはしない。


 彼は「ついて来い」と顎をしゃくった。


 奏はフルートケースを抱え、慌てて彼の後を追った。


   §


 長い廊下を渡り、いくつもの豪勢な広間を通り抜け、たどり着いたのは建物の奥まった場所にある温室のような部屋だった。


 ガラス張りの天井からは柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの花が咲き乱れている。


 その花々に囲まれた白いテーブルセットに、一人の少女が座っていた。


 青年と同じ、溶かした金のような金髪。透き通るような白い肌。年齢は一五、六歳ほどだろうか。


 彼女は手に持っていた本から顔を上げ、奏たちを見た。


 その瞳は、吸い込まれそうなほど深い蒼色をしていた。


 美しい少女だった。


 けれど、どこか作り物めいた、冷たい静けさをまとっていた。


「――、――」


 青年が少女に声をかける。


 しかし、少女は無表情のまま、小さく頷くだけだ。言葉を発しようとはしない。


 青年は少し困ったような、それでいて慈しむような表情で少女の頭を撫でると、奏に向き直った。


 彼は奏の持っているフルートケースを指差し、次に少女を指差した。


 ――彼女のために、吹いてやれということか?


 奏は意図を察して頷いた。


 言葉が通じない以上、自分にできる恩返しは演奏することくらいだ。それに、この孤独そうな少女の瞳が、昨日の自分と重なって見えた。


 奏はケースを開け、黒いフルートを組み立てた。


 少女の蒼い瞳が、じっと奏の手元を追っている。


 何を吹こうか。


 昨日のような芸術的なクラシックもいいが、もっと親しみやすく、心に寄り添うような曲がいい。


 奏はふと、前世でよく見ていたアニメ映画の曲を思い出した。


 異国の不思議な町に迷い込んだ少女が、本当の名前を取り戻す物語。そのエンディングテーマ。


 懐かしく、優しく、そして少しだけ切ないメロディ。


 奏は息を吸い、そっと音を紡ぎ始めた。


 黒いフルートが共鳴する。


 温室の空気が、ふわりと震えた。


 シンプルだが美しい旋律が、花々の香りと混ざり合いながら広がっていく。


 青年が驚いたように目を見開いた。この世界にはない独特の和音進行と、心に染み入るようなメロディライン。


 奏は少女を見ながら吹いた。


 君は一人じゃないよ。大丈夫だよ。


 そんな思いを音に乗せる。


 少女の表情が、わずかに揺らいだ。


 無表情の仮面の下から、せき止められていた感情が溢れ出すように、その瞳が潤み始める。


 彼女がゆっくりと立ち上がり、奏の方へ歩み寄ってきた。


 奏は演奏を止めなかった。彼女が何かを求めているのを感じたからだ。


 少女は奏の目の前まで来ると、震える手を伸ばし、演奏する奏の左腕にそっと触れた。


 その瞬間だった。


『……きれい』


 頭の中に、鈴を転がすような澄んだ声が響いた。


 一瞬、奏の指が止まりかけた。


 今、誰かが喋った?


 いや、耳からではない。心の奥底に、直接染み渡ってくるような感覚。


 普通なら恐怖を感じる場面かもしれない。しかし、奏が感じたのは、不思議なほどの安堵感だった。


 それは、迷子になっていた子供が、ようやく母親の声を聞いた時のような安心感に似ていた。


 少女の手が、奏の腕をさらに強く握りしめる。


『暖かい……。まるで、お日様みたい』


 再び、声が聞こえる。


 日本語だ。この世界に来て初めて聞く、意味のわかる言葉。


 奏の胸の奥がじんわりと熱くなる。


 ああ、やっと通じた。


 言葉の通じない孤独な海で、たった一つの浮き輪を見つけたような気分だった。


 奏は演奏を続けながら、目の前の少女を見た。


 彼女の蒼い瞳が、濡れたように輝いている。


(君が……話しているの?)


 奏は心の中でそっと問いかけた。


 すると、少女は大きく目を見開いた。


『聞こえるの……? 私の声が?』


 震えるような声が脳内に響く。


 驚きのあまり、奏はわずかに身じろぎをした。その拍子に、少女の手が奏の腕から離れた。


 途端に、声が消えた。


 世界が急に色あせたような静寂に戻る。


 聞こえるのは自分の呼吸音と、遠くの鳥の声だけ。先ほどまでの温かなつながりが断たれ、冷たい孤独が舞い戻ってくる。


 奏は呆然と少女を見た。


 少女もまた、悲痛な表情で自分の手を見つめていた。まるで、唯一の命綱を断ち切られたかのような絶望的な顔だった。


 彼女はもう一度、すがるように手を伸ばしてきた。


 奏は迷わず、その手を受け入れた。


 少女の細い指先が、再び奏の手の甲に触れる。


『……お願い、離さないで』


 繋がった。


 電流のような衝撃ではない。日向ぼっこをしているような、ぽかぽかとした温もりが心に流れ込んでくる。


 触れている間だけ、心が通じる。


 そういう理屈なのか。


 奏は少女の手を、壊れ物を扱うように優しく握り返した。


 異性の手に触れるなど、前世の奏には縁遠いことだった。普段なら緊張して硬直していただろう。


 けれど今は、その柔らかな感触がただただ心地よかった。


 彼女と繋がっていることが、この世界で自分が一人ではないという証明のように思えたからだ。


(ごめん。もう離さないよ)


 奏が心の中で語りかけると、少女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


『先生』


 不意に、そう呼ばれた。


『私、ずっと暗闇にいたの。誰も私の本当の声なんて聞いてくれなかった。お兄様でさえも』


 少女が、奏の手を両手で包み込むように握りしめる。


 体温が伝わる。想いが流れ込んでくる。


『でも、あなたは私を見つけてくれた』


 奏はゆっくりとフルートを下ろした。


 もう言葉はいらなかった。いや、触れ合っている限り、言葉以上のものが伝わっていた。


 少女は潤んだ瞳で奏を見上げ、はじめて口を開いた。声にはならないが、唇の動きがはっきりと形を作る。


「あ・り・が・と・う」


 そして、脳内に直接、慈愛に満ちた声が響く。


『私の名前はマリー。……やっと会えたわね、私の音楽家さん』


 その瞳に宿っていたのは、単なる感謝ではなかった。


 もっと重く、熱く、執着めいた光。


 しかし、今の奏にとって、その重さすらも心地よい碇(いかり)のように感じられた。この頼りない世界に、自分を繋ぎ止めてくれる重み。


 彼女の手のひらは熱かった。この手を離せば、また孤独な沈黙が訪れる。それを互いに恐れるように、二人は指を絡め合った。


 青年が、信じられないものを見る目で二人を見ていた。


「――、――!?」


 青年が駆け寄ってくる。


 マリーは兄に向き直ると、奏の手を強く握ったまま、嬉しそうに微笑んだ。


 青年は呆気にとられ、それから爆発したように笑い出した。


「――! ――、――!!」


 彼は奏の背中を何度も叩き、マリーの頭を乱暴に撫でた。


 言葉はわからなくても、彼が喜んでいるのはわかった。


 マリーが奏を見上げる。


『お兄様がね、あなたを私の教師にしてくれるって』


(教師?)


『ええ。フルートの教師。……でも、それだけじゃないわ』


 マリーは悪戯っぽく微笑み、さらに強く指を絡めてきた。


『私があなたに、こっちの言葉を教えてあげる。私の「心」を直接流し込めば、すぐに覚えられるわ。……その代わり』


 彼女は一歩踏み出し、奏に体を密着させるように距離を詰めた。

 甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。心臓が跳ねるが、不思議と嫌ではない。むしろ、守られているような安心感すら覚える。


『言葉を教える間はずっと、こうして触れていてね。……もう、離してあげないから』


 その言葉は、甘い呪いのように奏の心に刻まれた。


 ただ、握られた手のひらの熱さと、マリーの重いほどの好意だけが、確かな現実としてそこにあった。

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