3話 異世界の宮廷楽団
柔らかな陽光が降り注ぐマリーの部屋の中で、音瀬奏は甘やかな重みを感じていた。
隣に座る少女、マリーが、奏の左腕をこれでもかというほど強く抱きしめているのだ。彼女の体温が、薄いシャツ越しにじんわりと伝わってくる。
『先生、集中してください。まだ覚える単語はたくさんありますよ』
脳内に直接響くマリーの声は、どこか楽しげだ。
(……わかってるけど、そんなに密着する必要あるのかな?)
奏が心の中で控えめに抗議すると、マリーは上目遣いで奏を見つめ、さらにギュッと腕に頬を押し付けてきた。
『必要です。接触面積が広ければ広いほど、情報の伝達速度は上がりますから』
それは本当だろうか。奏は疑念を抱いたが、彼女の真剣な瞳と、何より嬉しそうな様子を見ては、何も言えなかった。
マリーと出会ってから数日が経過していた。
この数日間、奏は彼女からこの世界の言語と常識を「インストール」されていた。
マリーのテレパス能力は便利すぎた。
彼女が知っている単語や概念が、触れ合う肌を通して直接奏の脳に流れ込んでくるのだ。教科書を開いて暗記するような苦労はない。ただ、彼女の記憶の一部を共有するような、不思議でむずがゆい感覚だった。
その学習の中で、奏はいくつかの衝撃的な事実を知ることになった。
まず、この国は「ウェストリア王国」という、地球の歴史には存在しない国であること。
そして現在は「紀元一七五〇年」であること。
薄々感じてはいたものの、やはり、ここは地球ではなかった。
パリ行きの飛行機で死んだ自分は、異世界に転生したのだ。
窓の外を見れば、石造りの街並みが広がっている。
赤煉瓦の建物に、行き交う馬車。人々の服装は、地球で言うところの一九世紀後半から二〇世紀初頭に近い。男性はフロックコートやスーツを着こなし、女性は膨らんだスカートのドレスを身にまとっている。
しかし、決定的に違うものがあった。
庭園に設置された街灯だ。ガラスのホヤの中には、電球でもガス炎でもなく、淡く発光する石――魔石が収められている。
屋敷の中でも、メイドたちは魔力を動力源とした掃除道具を使っていた。
科学の代わりに魔法が発達した世界。
そんな魔法社会であっても、マリーの持つ「テレパシー」は決して一般的な能力ではないらしい。
(ねえ、マリー。君の声が聞こえるって話をしたら、使用人の人たち、すごく驚いていたよ)
『……そうね。人の心を読むなんて力、普通は持っていないもの』
マリーの表情が、一瞬で曇った。
彼女は奏の腕に顔を埋め、小さく震える声で心に語りかけてきた。
『それに、私は声が出せない。……呪われているんだわ、きっと』
(出せない?)
『ええ。喉の機能に問題はないらしいけれど、私の声帯は一度も空気を震わせたことがないの。……忌み子、なんて陰口を叩かれることもあるわ』
悲痛な響きだった。
王族として生まれながら、声を持たず、代わりに制御できない異能を持ってしまった少女。周囲の心の声という雑音に苛まれ、自分の声は誰にも届かない孤独。
奏は、彼女が自分に執着する理由を改めて理解した。
自分は、彼女にとって唯一の「扉」なのだ。
(そっか……。ごめんね、辛いことを聞いて)
奏は、抱きついている彼女の頭を、空いている右手で優しく撫でた。
『……いいえ。先生だけは、私の声を聞いてくれるから』
マリーは安心したように目を細め、さらに体を寄せてきた。
そして、身分についても知らされた。
あの馴れ馴れしい青年ハインリヒが第三王子で、この甘えん坊のマリーがその異母妹、つまり王女様であることも。
その時、部屋の扉が勢いよく開かれた。
噂の第三王子、ハインリヒが入ってくる。彼は二人の密着具合を見ても眉一つ動かさず、むしろニカッと笑って手を挙げた。
「――、――! (よう、調子はどうだ?)」
奏はマリーからそっと体を離し、立ち上がった。
触れ合いが途切れたため、マリーの声はもう聞こえない。彼女は名残惜しそうに奏の袖を掴んでいる。
奏はインストールされたばかりの言語と、マリーから教わった最上級の礼儀作法でお辞儀をした。
「お気遣い感謝いたします。ハインリヒ殿下」
一瞬、時が止まった。
ハインリヒは目を丸くし、口を半開きにして固まった。まるで幽霊でも見たかのような顔だ。
「……お前、今……喋ったのか?」
「はい。まだ少し不慣れですが」
「なっ……!?」
ハインリヒは奏に駆け寄り、その肩を掴んでまじまじと顔を覗き込んだ。
「嘘だろう!? つい数日前まで一言も通じなかったんだぞ? それが、どうしてこんな流暢に……しかも完璧な宮廷語で!」
彼の驚きようは演技ではなかった。本気で信じられないといった様子だ。
チラリとマリーを見ると、彼女はすまし顔で本を読んでいるふりをしていた。どうやら、自分が教えたことは秘密にしておきたいらしい。
「ええと……必死に勉強しましたので」
「勉強ってレベルじゃないぞ! 天才か、お前は!」
ハインリヒは爆発したように笑い出し、奏の背中をバシバシと叩いた。
「最高だ! 言葉が通じるなら話は早い。ついて来い、カナデ。お前のその腕前、ここで腐らせておくには惜しすぎる」
「え、どこへ行くんですか?」
「決まっているだろう。宮廷楽団だ」
奏が頷くと、マリーもバッと立ち上がった。
「マリー? お前は部屋で休んでいろ」
ハインリヒが言うが、マリーは首を激しく横に振った。そして奏の腕にしがみつき、絶対に離れないという意志を目で訴える。
「……どうしても来るのか? 退屈な練習だぞ」
マリーは頑として動かない。
本来、王女が楽団の練習ごときに顔を出す必要などない。しかし彼女にとって、奏と離れることの方が耐え難いようだった。
「やれやれ、好きにしろ」
ハインリヒは苦笑し、歩き出した。
奏は腕に王女という甘い重りを感じながら、王子の後を追った。
§
連れてこられたのは、王宮の敷地内にある大練習場だった。
高い天井は音響を考慮してアーチ状に組まれ、壁には吸音材代わりのタペストリーが飾られている。天井からは巨大なシャンデリア型の魔石灯が吊るされ、昼間のように明るい。
そこには、五十人ほどの楽団員が集まり、それぞれの楽器の調整を行っていた。
バイオリン、チェロ、オーボエ、ホルン。楽器の形状は地球のものと酷似している。
ハインリヒが手を叩くと、全員の視線が集まった。
「注目! 今日は面白い男を連れてきた。フルート奏者のカナデだ」
紹介された奏は、居心地の悪さに身を縮めた。
楽団員たちの視線は、冷ややかだった。
突然王子が連れてきた、どこの馬の骨とも知れない東洋の小柄な少年。しかも、手にしているのは見たこともない黒いフルート。
好奇心よりも、警戒心や侮蔑の色が濃い。
指揮者らしき初老の男性、カールが進み出てきた。
「殿下、面白い男とは……。我々は来月の定期演奏会に向けて忙しいのです。素人の相手をしている暇は――」
「素人かどうかは、聴いてから判断しろ」
ハインリヒは不敵に笑い、奏の背中を押した。
「やってやれ、カナデ。お前の音で、こいつらの度肝を抜いてやれ」
奏は深呼吸をした。
マリーは邪魔にならないよう、練習場の入り口付近の椅子に座らされていた。
距離が離れているため、彼女の声は届かない。
けれど、彼女が祈るように両手を組み、じっとこちらを見つめている姿が見えた。その瞳が「先生なら大丈夫」と語りかけている気がした。
そうだ。言葉が通じない時も、このフルートだけが自分を助けてくれた。
ここが異世界だろうと、相手が宮廷楽団だろうと、やることは変わらない。
奏は譜面台の前に立ち、黒いフルートを構えた。
選んだ曲は、フランソワ・ボルヌ作曲『カルメン幻想曲』。
超絶技巧が詰め込まれた、フルートの名曲中の名曲だ。
奏が息を吸う。
その瞬間、彼の纏う空気が変わった。小柄で可愛らしい少年の姿が消え、歴戦の騎士のような覇気が立ち上る。
最初のフレーズ。
鋭く、かつ情熱的な音が練習場を切り裂いた。
楽団員たちの顔色が変わった。
音量、音圧、そして音の抜け。すべてが常識外れだった。
曲は急速に難易度を上げていく。
目にも留まらぬ速さで指が動く。黒い管体の上を、指が踊るように滑っていく。
地球の現代フルートが持つベーム式キーシステムは、半音階や跳躍をスムーズに行うために進化してきた結晶だ。この世界の、おそらく旧式に近いフルートとは構造的な性能が違う。
だが、それ以上に違うのは奏法だ。
奏は「循環呼吸」を使い始めた。
鼻から息を吸いながら、同時に口から息を吐き続ける技術。
これにより、息継ぎの隙間なく、無限に続くかのような旋律が紡ぎ出される。
指揮者のカールが口をぽかんと開けている。
バイオリン席に座っていた赤毛の美女が、弓を取り落としそうになっていた。
圧倒的だった。
単に速いだけではない。歌うようなレガート、軽快なスタッカート。
情熱的なカルメンの恋心を、フルート一本で演じきっている。
最後の超高音のフラジオレットが決まり、奏はフルートを下ろした。
静寂。
誰も言葉を発しなかった。ただ、余韻だけが濃厚に漂っていた。
やがて、誰かが拍手をした。
それはハインリヒだった。
「どうだ、カール。素人に見えるか?」
その言葉を皮切りに、練習場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
楽団員たちが興奮した様子で駆け寄ってくる。
「素晴らしい! なんだ今の奏法は!」
「息が……息が続いていたぞ、どうなっているんだ?」
「君、その楽器見せてくれないか?」
もみくちゃにされる奏。
その輪の中から、先ほどの赤毛の美女――コンサートミストレスのアメリが割り込んできた。
彼女は奏の目の前に立つと、品定めするようにじろじろと顔を見た。
整った顔立ちに、意志の強そうな瞳。胸元の開いたドレスを着こなす、大人の色気が漂う女性だ。
「あんた、名前は?」
「えっと、音瀬奏です」
「カナデ、ね。……あんた、すごいわよ。私のバイオリンより歌ってた」
アメリはニヤリと笑うと、奏の肩を抱いた。甘い香水の匂いがする。
「気に入ったわ。ねえ、この後お茶しない? お姉さんが色々教えてあげる」
「え、あ、いや……」
奏が戸惑っていると、遠くから鋭い視線が突き刺さるのを感じた。
マリーだ。
離れた椅子に座る彼女は、頬を大きく膨らませ、ものすごい形相でこちらを睨みつけていた。
触れ合っていないため、心の声は聞こえない。だが、その表情は明らかに怒っている。
――なんで?
奏は首を傾げた。
さっきまで「先生なら大丈夫」と応援してくれていたはずなのに。
退屈させてしまったのだろうか? それとも、お腹が空いたのか? あるいは、僕の演奏にミスがあったのか?
マリーが、アメリの腕が回されている奏の肩を指差し、さらに怒ったように何かを訴えている。
奏にはさっぱり理由がわからなかった。
「あはは……」
とりあえず、後で機嫌を取るために甘いお菓子でも探そう。そう思いながら、奏は曖昧に笑うしかなかった。
指揮者のカールが咳払いをして場を静めた。彼は奏に向き直り、深々と頭を下げた。
「失礼なことを言った、カナデ君。君の腕前は、我が楽団の誰よりも優れている。……どうだろう、我が宮廷楽団に入ってはもらえないだろうか?」
「え……いいんですか?」
「もちろんだ! 君のような天才を逃しては、王国の恥になる」
奏は胸が熱くなった。
前世では、コンクールへの道半ばで命を落とした。
けれど、この世界で、もう一度音楽家として認められた。自分の音が、届いたのだ。
「はい! 喜んで!」
奏は力強く頷いた。
ハインリヒが満足そうに頷き、アメリがウインクを飛ばす。
遠くではマリーがまだ怒っているようだが、平和なものだ。
騒がしくも温かい、新しい居場所。
奏は、この異世界で音楽と共に生きていく喜びを噛み締めていた。
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