転生したフルート吹きの少年が現代音楽で異世界に癒しをお届けします!
ト音ソプラ
1話 パリの空から異世界の庭へ
機体が、あり得ない角度で傾いだ。
悲鳴が鼓膜を突き破る。シートベルトが腹に食い込む痛みと、重力が消失する浮遊感。酸素マスクが降りてくる光景が、まるでスローモーションのように音瀬奏(おとせかなで)の目に焼き付いた。
――嘘だろ。
奏(かなで)は膝の上に抱えたハードケースを、己の体で覆い隠すように強く抱きしめた。
中に入っているのは、アルバイトを掛け持ちしてやっと手に入れた総銀製のフルートだ。相棒であり、自分の命そのものだ。
これから向かうはずだったのは、フランスのパリ。
ジャン・ピエール・ランパル国際フルートコンクール。
東京藝術大学に入学してから、寝る間も惜しんで練習に打ち込んできた。すべてはこのコンクールで結果を残すためだ。世界への切符を掴むためだ。
まだ、一音も奏でていない。
パリの空すら見ていない。
こんなところで、終わるわけにはいかない。
耳をつんざくような轟音が機内を支配し、視界が暗転する。
絶望的な加速度で全身が押し潰された。
――ああ、神様。
もし許されるなら、もう一度だけ。
あの輝く銀の筒に息を吹き込みたい。
奏の意識は、そこで唐突に途切れた。
§
頬を撫でる風が、やけに甘い匂いを含んでいた。
アスファルトや排気ガスの匂いではない。土と、草と、名も知らぬ花の香り。
奏はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がっていたのは、突き抜けるような青空だった。
白い雲がゆっくりと流れていく。小鳥のさえずりが聞こえる。遠くで水の流れる音がする。
「……ここ、は」
身体を起こすと、柔らかな感触が手のひらに伝わった。手入れの行き届いた芝生の上だった。
痛みはない。
手足を動かしてみる。骨も折れていなければ、血も出ていない。墜落する飛行機の中にいたはずなのに、傷ひとつ負っていなかった。
目の前で揺れる前髪を見る。少し伸びた黒髪だ。
自分の手を見る。ピアノや弦楽器奏者に比べて小さく、華奢な指。色白な肌は、よく「お人形みたいだ」とからかわれたものだ。
成人男性としては随分と小柄な体躯。
童顔で中性的な顔立ちのせいで、よくて高校生、悪ければ中学生に見られることもある。
そんな見慣れた自分の身体が、そこにあった。
――夢か?
それにしては、風の冷たさも、芝生の感触もあまりにリアルだ。
奏は慌てて周囲を見渡した。
そこは、見たこともないほど広大な庭園だった。
幾何学模様に刈り込まれた植え込み。色とりどりの花が咲き乱れる花壇。白亜の彫刻が点在し、奥には噴水が水を噴き上げている。
そのさらに向こうには、巨大な石造りの建物がそびえ立っていた。
まるで中世ヨーロッパの宮殿だ。あるいは、映画のセットだろうか。
「……そうだ、フルート!」
奏は弾かれたように視線を足元に向けた。
あった。
黒いレザー張りのハードケース。肌身離さず持っていた相棒だ。
震える手でケースを拾い上げる。留め具を外し、蓋を開けた。
「……え?」
奏は息を呑んだ。
そこに入っていたのは、見慣れた銀色のフルートではなかった。
黒かった。
艶やかな光沢を放つ、黒い木製のフルート。キーのメカニズムこそ銀色に輝いているが、管体そのものは闇を切り取ったかのように深い黒色をしている。
グラナディラなどの木管フルートだろうか。しかし、奏が持っていたのは間違いなく総銀製だったはずだ。
――どうなってるんだ。
状況が理解できない。飛行機事故。無傷の身体。見知らぬ庭園。そして、変質してしまったフルート。
奏はおそるおそる、その黒いフルートを手に取った。
確かな質量を伴った重みがある。小柄な奏の手には少し重く感じるが、不思議と馴染んだ。まるで最初から自分の体の一部であったかのように、指先が吸い付く。
頭部管、胴部管、足部管。慣れた手つきで三つのパーツを組み立てる。
キーを流れるように動かしてみる。調整は完璧だった。タンポがトーンホールを塞ぐ、わずかな吸着音が心地よい。
試しに構えてみる。
歌口に唇を当てた、その時だった。
「――!!」
鋭い怒声が背後から飛んできた。
心臓が跳ね上がり、奏は振り返った。
そこには、銀色の鎧を着た男たちが数人、立っていた。
手には長い槍を持っている。腰には剣を下げている。コスプレイベントの参加者には見えない。彼らの目には、明らかな敵意と殺気が宿っていたからだ。
「あ、あの、すいません! 迷ってしまって……」
奏は立ち上がり、日本語で弁解した。
「――! ――!!」
男の一人が、さらに大きな声で何かを叫んだ。
通じない。
奏はとっさに英語に切り替える。
「アイム・ノット・サスピシャス! アイ・ロスト・マイ・ウェイ!」
しかし、男たちの表情は険しくなるばかりだ。
ただ、彼らの目には警戒とともに、わずかな侮りも見えた。
それもそうだろう。
彼らの前にいるのは、彼らの国では見たこともないような小柄な少年だ。黒髪に黒い瞳、線の細い体躯。
脅威というよりは、迷い込んだ子供か、あるいは愛玩動物のように見えているのかもしれない。
先頭にいた男が、槍の穂先を奏に向けた。鋭利な金属の切っ先が、太陽の光を反射して冷たく光る。
――殺される。
本能的な恐怖が背筋を駆け上がった。
飛行機が落ちる瞬間の恐怖とはまた違う、生々しい死の予感。
男たちがじりじりと包囲網を縮めてくる。
奏は一歩後ずさった。
どうすればいい?
戦う? 無理だ。この小柄でひ弱な体で、屈強な鎧の兵士に勝てるわけがない。
逃げる? 足が震えて動かない。それに、ここは彼らのテリトリーだ。
言葉が通じない。身振り手振りも、武器を持っていると誤解されるかもしれない。
手にあるのは、この黒いフルートだけ。
――フルート。
男たちの視線が、奏の手元に注がれていることに気づいた。
彼らは、この黒い棒を、杖か何か魔術を使う道具だと警戒しているのかもしれない。
違う。
これは武器じゃない。
奏は覚悟を決めた。
言葉が通じないなら、音で伝えるしかない。
自分は敵ではないと。ただの音楽家なのだと。
奏はゆっくりと、両手を胸の高さまで上げた。男たちが身構える。
そのまま、フルートを唇に当てる。
背筋を伸ばし、足を肩幅に開く。
その瞬間、奏の纏う空気が変わった。
先ほどまでの、どこか頼りなげで可愛らしい少年の雰囲気は消え失せていた。
重心が安定し、視線が鋭くなる。その立ち姿は、まるで聖剣を掲げる騎士のように凛々しく、高潔だった。
息を吸い込む。
肺いっぱいに満ちた異世界の空気を、細く、鋭く、そして柔らかく吐き出した。
――クロード・ドビュッシー作曲、『シランクス』。
無伴奏のフルート独奏曲だ。
最初の音が、静寂を切り裂くのではなく、溶け込むように響き渡った。
黒い木製の管体が、微細な振動を指先に伝えてくる。
驚くほど艶やかで、深みのある音色だった。銀のフルートのような輝かしさとは違う、土の匂いがするような、それでいてどこか魔性を帯びた響き。
牧神パンが、葦に変わってしまった愛する妖精シランクスを想って奏でる、哀切の旋律。
半音階で揺れ動くメロディが、庭園の風に乗って漂っていく。
男たちの足が止まった。
槍を構えたまま、彼らは呆気にとられたように奏を見つめている。
小柄な異国の少年が放つ、圧倒的な存在感。
可愛らしい容姿からは想像もつかない、力強く、それでいて繊細な音の奔流に気圧されていた。
奏は目を閉じた。
恐怖は、演奏を始めると同時に消え失せていた。
いま、ここにいるのは自分と音だけだ。
パリのコンクール会場ではない。審査員もいない。
けれど、この異国の庭で、命を懸けて吹いている。
一音一音に魂を込める。
死んだと思っていた命が、ここにある。指が動く。息が吸える。音が鳴る。
その喜びと、行き場のない哀しみが、音楽となって溢れ出した。
黒いフルートは、奏の感情を増幅させるかのように、妖しくも美しい音色を紡ぎ出していく。
最後の音が、虚空に消えていく。
余韻。
風の音だけが戻ってきた。
奏はゆっくりと目を開け、フルートを下ろした。
同時に、まとっていた凛々しい覇気がふわりと霧散し、もとの人畜無害そうな少年の顔に戻る。
兵士たちは、槍を下ろしていた。
敵意は消え、代わりに困惑と、ある種の畏敬の念が混じった表情で奏を見ていた。
その時。
乾いた拍手の音が、一定のリズムで静寂を破った。
兵士たちの輪が割れ、一人の青年が歩み出てきた。
太陽の光を浴びて輝く、金色の髪。
仕立ての良い上着を身にまとい、その立ち居振る舞いには隠しきれない高貴さが漂っている。
年齢は奏と同じ二十歳くらいだろうか。整った顔立ちには、傲岸不遜な笑みが浮かんでいた。
「――、――?」
青年が何かを言った。
やはり言葉はわからない。
しかし、その声の響きは友好的だった。
青年は奏の目の前まで来ると、興味深そうに黒いフルートを覗き込み、そして奏の顔をまじまじと見つめた。値踏みするように、しかしどこか楽しげに。
青年は兵士たちに向かって片手を上げた。兵士たちが一斉に姿勢を正し、槍を収める。
どうやら、助かったらしい。
奏の体から力が抜けた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとか堪える。
青年は口端を吊り上げると、自らの喉を指差し、次に奏を指差した。そして、首を傾げた。
言葉はわかるか、と聞いているのだろうか。
奏は首を横に振った。
「言葉はわかりません。……僕は、音瀬奏です」
日本語で答えてみる。
青年はきょとんとした顔をしたが、すぐに面白そうに目を細めた。
小動物を見つけた子供のような、無邪気で残酷な瞳だ。
そして、青年は奏の手を取り、強引に立たせた。
その手は温かかった。
これが、異世界での最初の手の温もりだった。
奏はこの時まだ知らなかった。
目の前のこの傲慢そうな青年が、この国の第三王子ハインリヒであることも。
そして、この出会いが、奏の第二の人生を大きく変えることになるということも。
ただ一つ確かなのは、音楽が言葉はもちろん文化や世界の壁を超えて、命を繋いでくれたということだけだった。
奏は黒いフルートを強く握りしめた。
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