たまのこと(カクヨムコン11お題フェス参加作品)

浅沼まど

たまのこと

壱「卵を拾う」



 東京をってから三度目の春だった。


 山桜やまざくらが終わり、遅い雪解け水がさわを満たす頃、志乃しのはそれを見つけた。

 水をみに降りる獣道の脇、落ち葉の吹き溜まりの中に、それは転がっていた。鶏の卵よりひとまわり大きい。殻にはうずらのようなまだら模様があり、朝の光を受けて鈍く光っている。

 鳥の卵だろうか。この山には様々な鳥がいる。祖母が生きていた頃、山鳥やまどりきじの卵を見せてもらったことがある。けれど、どちらとも違う。

 志乃は屈み込み、そっと手を伸ばした。


 ——温かい。


 まるで今しがた誰かが抱いていたかのようだった。いや、それどころではない。内側から熱を発しているようにさえ感じられる。

 あたりを見回した。親鳥の姿はない。巣らしきものも見当たらない。こんな地面の窪みに、なぜ卵が一つだけ転がっているのか。

 捨てていけばいい。志乃は自分にそう言い聞かせた。

 女学校で博物学を学んだ。野生の卵に人の匂いがつけば、親鳥は戻らない。もう手で触れてしまった以上、この卵は孵らない。自然の摂理に従って、このまま冷えて、腐って、土に還るのを待つだけだ。


 ——私と同じではないか。


 ふと、そんな考えが胸をよぎった。

 誰にも抱かれず、何も孵すことなく、山の奥で朽ちていく。東京を追われるようにしてこの地に来た日から、志乃はずっとそのつもりで生きてきた。祖母の残した家で、村人との関わりを絶ち、ただ息をして、眠って、また朝が来るのを待つ。それだけの日々。

 子を産めない体だと知れたとき、婚約者だった男は静かに手を引いた。実家はすでに傾いていた。志乃を貰ってくれる家など、どこにもなかった。


 だから——何も残さず、消えるつもりだった。


 なのに。


 志乃は卵を両手で包み込んだ。温かさが掌から腕へ、腕から胸へと染み込んでくる。

 理由は分からない。分からないまま、志乃は卵を懐に入れ、水を汲むことも忘れて山道を引き返した。

 家に戻ると、囲炉裏いろりに火を入れた。古い綿入れを引っ張り出し、卵を包んで、灰の温もりが届く場所に置いた。

 何をしているのだろう、と思った。かえるはずがない。たとえ孵ったところで、ひなを育てるすべなど知らない。

 それでも志乃は、その夜、卵を抱いて眠った。

 温かかった。

 久しぶりに、何かを抱いて眠った。


          ◇


弐「孵化」



 幾日が過ぎたのか、志乃しのには分からなくなっていた。


 朝が来れば囲炉裏いろりに火を入れ、卵を温める。夜になれば綿入れに包んで抱いて眠る。それだけを繰り気返すうちに、山の緑は日ごとに濃さを増していった。

 卵は変わらず温かかった。腐る気配もない。それどころか、日を追うごとに、殻の内側から何かが脈打つような気配を感じるようになっていた。

 ある夜のことである。

 志乃は夢を見ていた。暗い水の底に沈んでいく夢だ。冷たくはない。むしろ温かい。羊水の中にいるとはこういう感覚だろうか、と夢の中でぼんやり考えた。


 ——ぴし。


 小さな音が聞こえた。


 ——ぴし、ぴしり。


 志乃は目を開けた。

 囲炉裏の残り火が薄赤く燃えている。その明かりの中で、綿入れにくるまれた卵が、揺れていた。

 殻に亀裂きれつが走っている。

 志乃は息を詰めたまま、身を起こすこともできずに見つめていた。亀裂は広がり、殻は内側から押し上げられるように膨らんで——

 ぱきん、と音を立てて割れた。

 中から現れたものを、志乃は最初、理解できなかった。

 鳥ではない。雛でもない。

 白い肌。黒い髪。細い指。

 人の形をした何かが、割れた殻の中で膝を抱えてうずくまっていた。


 娘だった。


 年の頃は十六、七だろうか。裸のまま、生まれたばかりの赤子のように濡れた髪を垂らし、ゆっくりと顔を上げた。

 目が合った。

 暗い瞳だった。囲炉裏の火を映しているはずなのに、その奥には何の光も揺れていない。


「——あなたが」


 娘が口を開いた。声は低く、掠れていた。生まれたばかりの喉が、初めて空気を震わせたような響き。


「あなたが、温めてくれたの?」


 志乃は答えられなかった。声が出なかった。恐ろしいとも、美しいとも、頭では何も判断がつかないまま、ただ目の前の存在に見入っていた。

 娘はゆっくりと立ち上がった。濡れた髪が背に貼りつき、白い肢体したいが囲炉裏の明かりに照らされる。志乃は慌てて自分の着物を脱ぎ、娘の肩にかけた。

 その瞬間、指先が娘の素肌すはだに触れた。


 ——冷たい。


 温かい卵から生まれたというのに、氷のように冷たかった。


「名前は」


 ようやく声が出た。自分でも驚くほど、平静な声だった。


「あなた、名前は?」


 娘は首を傾げた。髪から雫が一滴、板の間に落ちた。


「分からないわ。何も……覚えていないの」

「——そう」


 志乃は割れた殻に目をやった。拾い集めようと手を伸ばしかけたとき、娘が静かに言った。


「見ないで」


 志乃の手が止まった。


「殻は、見ないで。お願い」


 懇願こんがんするような声ではなかった。むしろ淡々としていた。だからこそ、志乃は従った。


「……分かった」


 娘はかすかに頷いた。そして自ら屈み込み、殻の欠片かけらを一つ一つ拾い集めていった。志乃は背を向けたまま、その気配だけを聞いていた。

 やがて娘が言った。


「これは、土間のかめに入れておくわ。どうか開けないで」

「——ええ」


 志乃は振り向かなかった。振り向けなかった。

 夜が静かに更けていく。山の向こうで、一声、鳥が鳴いた。何の鳥かは分からなかった。


「たま」


 志乃は言った。


「あなたのことを、そう呼んでもいいかしら」


 沈黙があった。それから、小さな笑い声が聞こえた。


「たま。——ええ、いいわ」


 娘は——たまは、そう言って志乃の隣に膝をついた。

 囲炉裏の火が静かに燃えていた。


          ◇


参「共に暮らす」



 たまは不思議な娘だった。


 人の暮らしの何もかもを知らないようでいて、教えればすぐに覚えた。水のみ方、火のおこし方、米の研ぎ方。志乃しのが一度やって見せれば、二度目からは何も言わずともこなした。

 けれど、時折ひどく奇妙なことをした。

 雨の日には軒先のきさきに出て、いつまでも空を見上げていた。何を見ているのかと尋ねても、首を傾げるばかりで答えない。

 夜中にふと目を覚ますと、たまが布団の上で正座したまま、こちらをじっと見つめていることがあった。眠らないのかと訊けば、「眠り方を忘れたの」と言う。


 そして何より——たまの体は、いつも冷たかった。


 かまどの火の前にいても、湯を浴びた直後でも、その肌に温もりが宿ることはなかった。夜、隣に横たわると、まるで雪女でも抱いているかのようだった。

 それでも志乃は、たまを傍に置いた。

 理由は分からない。分からないまま、二人の暮らしは続いた。


 夏が来た。

 山の緑はいよいよ濃くなり、沢の水は冷たく澄んで、蛍が飛ぶようになった。

 ある夜、たまが「蛍を見たい」と言った。志乃は手拭いを二人分持って、沢へ降りた。

 闇の中をふわりふわりと光が舞っている。たまはそれを目で追いながら、ぽつりと言った。


「きれいね」

「ええ」

「——私も、ああいうふうに光れたらいいのに」


 志乃は隣に立つ娘の横顔を見た。蛍の光がその頬を青白く照らしては消える。


「どうして」

「そうしたら、あなたの役に立てるでしょう。暗い夜道を歩くとき、私があなたの足元を照らせる」


 志乃は小さく笑った。


「あなたは、もう十分に私の役に立っているわ」


 たまは黙っていた。その横顔に、何かを堪えるような翳りが差したのを、志乃は見逃さなかった。けれど問わなかった。

 帰り道、たまが志乃の手を握った。冷たい指が、志乃の掌に絡みつく。

 志乃は振り払わなかった。


 秋になると、山は燃えるように色づいた。

 たまは栗を拾うのが好きだった。志乃の後をついて山に入り、落ちた毬を見つけては声を上げる。そのたびに志乃は足を止め、棘だらけの毬を開いて中身を取り出してやった。


「痛くないの」

「慣れればどうということはないわ」


 たまは志乃の手をじっと見つめた。かすかに赤くなった指先に、そっと唇を寄せる。


「冷たいでしょう」

「——いいの」


 冷たかった。けれどその冷たさが、今は心地よかった。

 二人は毎日のように山を歩いた。茸を採り、木の実を拾い、き水を汲んだ。囲炉裏端で夜を過ごし、同じ布団で眠った。

 たまの体温は相変わらず低いままだったが、志乃はもう気にしなくなっていた。冷たい体を抱き寄せ、自分の温もりを分け与えるようにして眠る。それが当たり前になっていた。


 初雪が降る少し前のことだった。

 夕餉の片付けを終え、囲炉裏端で繕い物をしていると、たまが志乃の膝に頭を預けてきた。


「志乃」


 名を呼ばれるのも、もう慣れていた。


「なあに」

「私は——いつまで、ここにいられるのかしら」


 針の手が止まった。


「どういう意味?」


 たまは答えなかった。ただ目を閉じて、志乃の膝に頬を押し当てている。


「……あなたは、どこにも行かないわ」


 志乃は自分に言い聞かせるように言った。


「私がここにいる限り、あなたもここにいるの。そうでしょう」


 たまは薄く目を開け、志乃を見上げた。その瞳に何が映っているのか、志乃には読み取れなかった。


「——ええ。そうね」


 たまは微笑んだ。悲しげな笑みだった。

 志乃はその夜、眠れなかった。

 土間に置かれた甕が、やけに気になった。


          ◇


四「外部からの介入」



 雪が降り始めて間もなくのことだった。


 その日、志乃しのは珍しく一人で里へ降りた。味噌みそと塩が切れていた。普段なら春まで買い出しに行くこともないのだが、今年は二人分の蓄えがいる。

 たまは家に残した。「里の者に見られたくない」と言うと、たまは素直に頷いた。

 村の雑貨屋で買い物を済ませ、山道を登り始めた時だった。


「——志乃さん」


 背後から声をかけられた。

 振り向いて、志乃は凍りついた。

 男が立っていた。仕立ての良い外套に、都会風の中折れ帽。三年前と少しも変わらない、端正な顔。

 青柳誠一郎あおやぎせいいちろう。かつての婚約者だった。


「やはり、あなたでしたか」


 誠一郎は穏やかに微笑んだ。穏やかに見える笑みだった。志乃はその笑顔を、よく知っていた。


「……なぜ、ここに」

「仕事で松本まで参りましてね。あなたがこの村に住んでいると聞いて、少し足を延ばしたのです」


 嘘だ、と志乃は思った。誠一郎は実業家の息子で、今は父親の会社で働いている。松本に用があるとは思えない。わざわざ自分を探しに来たのだ。


「何の御用ですか」

「久方ぶりの再会です。少し話をしませんか?」

「お話しすることなど、何もありません」


 志乃は背を向けて歩き出した。誠一郎の足音がついてくる。


「待ってください。——村の者から、奇妙な話を聞いたのです」


 足が止まった。


「あなたの家に、若い娘が住み着いていると」


 心臓が跳ねた。誰が見たのだろう。たまは家から出ていない。少なくとも、志乃はそう信じていた。


「……何のことか分かりません」

「本当に?」


 誠一郎が回り込むようにして、志乃の顔を覗き込んだ。


「親戚でもない、村の者でもない、どこから来たかも分からない娘。雪の中を裸足で歩いているのを見た者がいる。夜中に山道を一人でうろついているのを見た者もいる」


 志乃は唇を噛んだ。たまは、家を出ていたのだ。志乃の知らない間に。


「あれは人ではない、と村の者は言っていました」

「——馬鹿馬鹿しい」


 声が震えた。


「迷信深い田舎者いなかもの戯言ざれごとです。あの娘は……行き倒れていたのを助けただけです。身寄りがないから、うちに置いているだけ」

「そうですか」


 誠一郎は引き下がらなかった。その目が、探るように志乃を見つめている。


「志乃さん。あなたは昔から、情にもろいところがあった。それは美徳でもありますが——時に、身を滅ぼします」

「あなたに心配していただく筋合いはありません」

「心配しているのですよ。本当に」


 誠一郎が一歩近づいた。志乃は後ずさった。


「あなたを捨てたことを、私は今でも悔いている」

「——捨てた?」


 思わず笑い声が漏れた。乾いた、冷たい笑いだった。


「捨てたですって。あなたは私を捨てたのではないわ。壊れた道具を、静かに片付けただけ。そうでしょう?」


 誠一郎の顔がわずかに強張った。


「子を産めない女など、青柳の家には要らない。あなたのお父様はそう仰った。あなたは黙って頷いていた。——私は、あの日のあなたの顔を忘れません」

「志乃さん」

「お引き取りください」


 志乃はきびすを返した。


「あの娘から離れなさい」


 背中に声が突き刺さった。


「あれが何であれ、人の形をしているものが、いつまでも人のままでいるとは限らない。——後悔する前に、考え直しなさい」


 志乃は振り向かなかった。雪を踏みしめて、山道を登った。


 家に戻ると、たまが囲炉裏端で待っていた。


「おかえりなさい」


 いつもと変わらない、静かな声。けれど志乃は、その声がどこか遠く聞こえた。


「——ただいま」


 味噌と塩を土間に置きながら、志乃はかめに目をやった。古い甕。ふたにはほこりが積もっている。

 たまは本当に、この家から出ていないのだろうか。

 夜中に山道を歩いている娘。雪の中を裸足で。

 志乃は知らなかった。何も、知らなかったのだ。


「どうかしたの?」


 たまが首を傾げている。暗い瞳が、志乃を映している。


「——いいえ。何でもないわ」


 志乃は笑った。うまく笑えたかどうかは、分からなかった。

 その夜、志乃は夢を見た。

 甕の蓋を開ける夢だった。


          ◇


五「禁忌破り」



 それから幾日か、何事もない日々が続いた。


 誠一郎せいいちろうが再び訪ねてくることはなかった。村から人が来ることもなかった。雪は降り続き、山は静まり返り、世界には志乃しのとたまの二人だけになったかのようだった。

 けれど、志乃の心は静まらなかった。

 たまの一挙一動が気になった。夜中に目を覚ますたびに、隣にたまがいるかどうか確かめた。いつも、たまはそこにいた。目を閉じて、呼吸をしているのかも分からないほど静かに横たわっていた。

 そして——かめのことが、頭から離れなかった。

 あの中に何があるのか。殻の欠片。それだけのはずだ。それだけのはずなのに、なぜ見てはいけないのか。

 訊けばいい。たまに訊けばいい。けれど訊けなかった。訊いてしまえば、何かが壊れる気がした。


 その夜は、やけに冷えた。

 囲炉裏の火を絶やさぬよう薪をくべ、志乃は布団に入った。たまは先に眠っている。いつものように冷たい体を寄せ、志乃も目を閉じた。

 眠れなかった。

 風の音が聞こえる。雪を叩きつける風。古い家が軋む音。そして——。

 甕が、呼んでいるような気がした。

 馬鹿馬鹿しい。志乃は寝返りを打った。甕が呼ぶわけがない。殻の欠片が呼ぶわけがない。

 けれど胸の奥で、何かが疼いていた。

 あれは何だ。たまは何者だ。なぜ私のところに来た。なぜ私を——。

 気がつくと、志乃は布団から抜け出していた。

 足音を殺して土間に降りる。甕は暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた。古い甕。祖母の代から使っていたもの。蓋には埃が積もっている。

 手が伸びた。

 止められなかった。

 蓋を持ち上げる。軽かった。中には——。

 殻があった。

 孵化うかの夜に割れた、あの殻。たまが拾い集めたはずの欠片が、なぜか一つに繋がっていた。ひびは入っているが、形は保たれている。


 そして、その内側が——光っていた。


 濡れたように。月明かりを受けたように。いや、月など出ていない。雪雲が空を覆っているはずだ。なのに殻の内側は、鏡のように光を放っていた。

 志乃は覗き込んだ。


 そこに、自分が映っていた。


 いや——自分ではなかった。


 鏡の中の志乃は、微笑んでいた。穏やかに、幸福そうに。そしてその腕には、赤子が抱かれていた。

 小さな手。閉じた目。ふっくらとした頬。

 志乃は息を呑んだ。

 これは、あり得たはずの未来だった。婚約が続いていれば。体が普通であれば。誰かの妻になり、誰かの母になり、こうして子を抱いて笑っていたはずの——永遠に失われた光景。

 手が伸びた。触れたかった。その赤子に。その幸福に。自分がなれなかったものに。

 指先が殻に触れる寸前——。

 像が揺らいだ。

 赤子が消えた。志乃の腕だけが残った。何かを抱くように丸められた、空っぽの腕。

 何も抱いていない。何も孵せない。何も残せない。

 それが、私だ。

 涙が頬を伝った。いつから泣いていたのか分からなかった。

 志乃は顔を上げた。

 たまが、そこにいた。

 布団の上に起き上がり、こちらを見ていた。暗がりの中、その目だけがぼんやりと光っている。

 たまは何も言わなかった。責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに志乃を見つめていた。

 志乃も何も言えなかった。言い訳も、謝罪も、喉の奥で凍りついたように出てこなかった。

 やがて、たまが微笑んだ。

 悲しげな——諦めたような、許すような、そんな笑みだった。


「……おやすみなさい」


 たまはそう言って、静かに目を閉じた。

 志乃は土間に立ち尽くしていた。甕の蓋を閉めることもできず、涙を拭うこともできず。


 夜が、長かった。


          ◇


終「喪失と余韻」



 目を覚ましたとき、障子の向こうが白く光っていた。

 雪が止んだのだ。久しぶりの朝日が、積もった雪に反射して部屋を照らしている。

 志乃しのは体を起こした。隣の布団は——。


 空だった。


 冷たかった。人が抜け出したばかりの温もりではない。最初から誰も寝ていなかったかのように、布団は平らに、冷たく整えられていた。


「たま」


 声がかすれた。


「たま」


 返事はなかった。

 志乃は布団を跳ね除けて立ち上がった。土間に降りる。囲炉裏端を見回す。かまどの陰。水瓶の裏。どこにもいない。

 そして——かめを見た。

 なかった。

 甕があった場所には、何もなかった。ほこりの跡さえ残っていない。最初からそこには何も置かれていなかったかのように、土間の床がむき出しになっていた。

 志乃は膝から崩れ落ちた。

 泣くことさえできなかった。涙は昨夜すべて流してしまったのかもしれない。ただ空っぽの床を見つめながら、志乃は長い間そこに座り込んでいた。


 冬が終わった。

 雪解けの水が沢を満たし、山桜が咲いて散り、遅い春が峠を越えてきた。

 志乃は変わらず山奥の家で暮らしていた。水を汲み、火をき、一人分の飯をく。それだけの日々。たまが来る前と、何も変わらない日々。


 ただ——夜が寒かった。


 囲炉裏の火をどれほど焚いても、布団を何枚重ねても、体の芯が温まらなかった。あの冷たい体を抱いていた頃の方が、よほど温かかったのだと気づいた。


 ある朝、志乃は水を汲みに沢へ降りた。

 一年前と同じ獣道。一年前と同じ季節。落ち葉の吹き溜まりを踏み越え、沢へ続く坂を降りようとしたとき——。

 足が止まった。

 そこに、卵があった。

 落ち葉のくぼみに、一つだけ転がっている。鶏の卵よりひとまわり大きく、うずらのようなまだら模様がある。

 志乃は息を詰めた。

 しゃがみ込み、手を伸ばす。指先が殻に触れた。


 ——温かい。


 あの日と同じだった。内側から熱を発しているような、不思議な温もり。

 志乃は卵を両手で包み込んだ。

 温かかった。温かくて、温かくて、どうしようもなかった。


 ——温めたら、また会えるだろうか。


 ——また、失うと分かっていても。


 志乃は長い間、そこにうずくまっていた。

 卵を抱いたまま。

 山桜の花弁が、風に乗って降りてきた。白い欠片が、志乃の髪に、肩に、そして卵の上に積もっていく。

 やがて志乃は立ち上がった。

 卵を抱いて、山道を登り始めた。

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たまのこと(カクヨムコン11お題フェス参加作品) 浅沼まど @Mado_Asanuma

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