たまのこと(カクヨムコン11お題フェス参加作品)
浅沼まど
たまのこと
壱「卵を拾う」
東京を
水を
鳥の卵だろうか。この山には様々な鳥がいる。祖母が生きていた頃、
志乃は屈み込み、そっと手を伸ばした。
——温かい。
まるで今しがた誰かが抱いていたかのようだった。いや、それどころではない。内側から熱を発しているようにさえ感じられる。
あたりを見回した。親鳥の姿はない。巣らしきものも見当たらない。こんな地面の窪みに、なぜ卵が一つだけ転がっているのか。
捨てていけばいい。志乃は自分にそう言い聞かせた。
女学校で博物学を学んだ。野生の卵に人の匂いがつけば、親鳥は戻らない。もう手で触れてしまった以上、この卵は孵らない。自然の摂理に従って、このまま冷えて、腐って、土に還るのを待つだけだ。
——私と同じではないか。
ふと、そんな考えが胸をよぎった。
誰にも抱かれず、何も孵すことなく、山の奥で朽ちていく。東京を追われるようにしてこの地に来た日から、志乃はずっとそのつもりで生きてきた。祖母の残した家で、村人との関わりを絶ち、ただ息をして、眠って、また朝が来るのを待つ。それだけの日々。
子を産めない体だと知れたとき、婚約者だった男は静かに手を引いた。実家はすでに傾いていた。志乃を貰ってくれる家など、どこにもなかった。
だから——何も残さず、消えるつもりだった。
なのに。
志乃は卵を両手で包み込んだ。温かさが掌から腕へ、腕から胸へと染み込んでくる。
理由は分からない。分からないまま、志乃は卵を懐に入れ、水を汲むことも忘れて山道を引き返した。
家に戻ると、
何をしているのだろう、と思った。
それでも志乃は、その夜、卵を抱いて眠った。
温かかった。
久しぶりに、何かを抱いて眠った。
◇
弐「孵化」
幾日が過ぎたのか、
朝が来れば
卵は変わらず温かかった。腐る気配もない。それどころか、日を追うごとに、殻の内側から何かが脈打つような気配を感じるようになっていた。
ある夜のことである。
志乃は夢を見ていた。暗い水の底に沈んでいく夢だ。冷たくはない。むしろ温かい。羊水の中にいるとはこういう感覚だろうか、と夢の中でぼんやり考えた。
——ぴし。
小さな音が聞こえた。
——ぴし、ぴしり。
志乃は目を開けた。
囲炉裏の残り火が薄赤く燃えている。その明かりの中で、綿入れにくるまれた卵が、揺れていた。
殻に
志乃は息を詰めたまま、身を起こすこともできずに見つめていた。亀裂は広がり、殻は内側から押し上げられるように膨らんで——
ぱきん、と音を立てて割れた。
中から現れたものを、志乃は最初、理解できなかった。
鳥ではない。雛でもない。
白い肌。黒い髪。細い指。
人の形をした何かが、割れた殻の中で膝を抱えてうずくまっていた。
娘だった。
年の頃は十六、七だろうか。裸のまま、生まれたばかりの赤子のように濡れた髪を垂らし、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
暗い瞳だった。囲炉裏の火を映しているはずなのに、その奥には何の光も揺れていない。
「——あなたが」
娘が口を開いた。声は低く、掠れていた。生まれたばかりの喉が、初めて空気を震わせたような響き。
「あなたが、温めてくれたの?」
志乃は答えられなかった。声が出なかった。恐ろしいとも、美しいとも、頭では何も判断がつかないまま、ただ目の前の存在に見入っていた。
娘はゆっくりと立ち上がった。濡れた髪が背に貼りつき、白い
その瞬間、指先が娘の
——冷たい。
温かい卵から生まれたというのに、氷のように冷たかった。
「名前は」
ようやく声が出た。自分でも驚くほど、平静な声だった。
「あなた、名前は?」
娘は首を傾げた。髪から雫が一滴、板の間に落ちた。
「分からないわ。何も……覚えていないの」
「——そう」
志乃は割れた殻に目をやった。拾い集めようと手を伸ばしかけたとき、娘が静かに言った。
「見ないで」
志乃の手が止まった。
「殻は、見ないで。お願い」
「……分かった」
娘は
やがて娘が言った。
「これは、土間の
「——ええ」
志乃は振り向かなかった。振り向けなかった。
夜が静かに更けていく。山の向こうで、一声、鳥が鳴いた。何の鳥かは分からなかった。
「たま」
志乃は言った。
「あなたのことを、そう呼んでもいいかしら」
沈黙があった。それから、小さな笑い声が聞こえた。
「たま。——ええ、いいわ」
娘は——たまは、そう言って志乃の隣に膝をついた。
囲炉裏の火が静かに燃えていた。
◇
参「共に暮らす」
たまは不思議な娘だった。
人の暮らしの何もかもを知らないようでいて、教えればすぐに覚えた。水の
けれど、時折ひどく奇妙なことをした。
雨の日には
夜中にふと目を覚ますと、たまが布団の上で正座したまま、こちらをじっと見つめていることがあった。眠らないのかと訊けば、「眠り方を忘れたの」と言う。
そして何より——たまの体は、いつも冷たかった。
それでも志乃は、たまを傍に置いた。
理由は分からない。分からないまま、二人の暮らしは続いた。
夏が来た。
山の緑はいよいよ濃くなり、沢の水は冷たく澄んで、蛍が飛ぶようになった。
ある夜、たまが「蛍を見たい」と言った。志乃は手拭いを二人分持って、沢へ降りた。
闇の中をふわりふわりと光が舞っている。たまはそれを目で追いながら、ぽつりと言った。
「きれいね」
「ええ」
「——私も、ああいうふうに光れたらいいのに」
志乃は隣に立つ娘の横顔を見た。蛍の光がその頬を青白く照らしては消える。
「どうして」
「そうしたら、あなたの役に立てるでしょう。暗い夜道を歩くとき、私があなたの足元を照らせる」
志乃は小さく笑った。
「あなたは、もう十分に私の役に立っているわ」
たまは黙っていた。その横顔に、何かを堪えるような翳りが差したのを、志乃は見逃さなかった。けれど問わなかった。
帰り道、たまが志乃の手を握った。冷たい指が、志乃の掌に絡みつく。
志乃は振り払わなかった。
秋になると、山は燃えるように色づいた。
たまは栗を拾うのが好きだった。志乃の後をついて山に入り、落ちた毬を見つけては声を上げる。そのたびに志乃は足を止め、棘だらけの毬を開いて中身を取り出してやった。
「痛くないの」
「慣れればどうということはないわ」
たまは志乃の手をじっと見つめた。かすかに赤くなった指先に、そっと唇を寄せる。
「冷たいでしょう」
「——いいの」
冷たかった。けれどその冷たさが、今は心地よかった。
二人は毎日のように山を歩いた。茸を採り、木の実を拾い、
たまの体温は相変わらず低いままだったが、志乃はもう気にしなくなっていた。冷たい体を抱き寄せ、自分の温もりを分け与えるようにして眠る。それが当たり前になっていた。
初雪が降る少し前のことだった。
夕餉の片付けを終え、囲炉裏端で繕い物をしていると、たまが志乃の膝に頭を預けてきた。
「志乃」
名を呼ばれるのも、もう慣れていた。
「なあに」
「私は——いつまで、ここにいられるのかしら」
針の手が止まった。
「どういう意味?」
たまは答えなかった。ただ目を閉じて、志乃の膝に頬を押し当てている。
「……あなたは、どこにも行かないわ」
志乃は自分に言い聞かせるように言った。
「私がここにいる限り、あなたもここにいるの。そうでしょう」
たまは薄く目を開け、志乃を見上げた。その瞳に何が映っているのか、志乃には読み取れなかった。
「——ええ。そうね」
たまは微笑んだ。悲しげな笑みだった。
志乃はその夜、眠れなかった。
土間に置かれた甕が、やけに気になった。
◇
四「外部からの介入」
雪が降り始めて間もなくのことだった。
その日、
たまは家に残した。「里の者に見られたくない」と言うと、たまは素直に頷いた。
村の雑貨屋で買い物を済ませ、山道を登り始めた時だった。
「——志乃さん」
背後から声をかけられた。
振り向いて、志乃は凍りついた。
男が立っていた。仕立ての良い外套に、都会風の中折れ帽。三年前と少しも変わらない、端正な顔。
「やはり、あなたでしたか」
誠一郎は穏やかに微笑んだ。穏やかに見える笑みだった。志乃はその笑顔を、よく知っていた。
「……なぜ、ここに」
「仕事で松本まで参りましてね。あなたがこの村に住んでいると聞いて、少し足を延ばしたのです」
嘘だ、と志乃は思った。誠一郎は実業家の息子で、今は父親の会社で働いている。松本に用があるとは思えない。わざわざ自分を探しに来たのだ。
「何の御用ですか」
「久方ぶりの再会です。少し話をしませんか?」
「お話しすることなど、何もありません」
志乃は背を向けて歩き出した。誠一郎の足音がついてくる。
「待ってください。——村の者から、奇妙な話を聞いたのです」
足が止まった。
「あなたの家に、若い娘が住み着いていると」
心臓が跳ねた。誰が見たのだろう。たまは家から出ていない。少なくとも、志乃はそう信じていた。
「……何のことか分かりません」
「本当に?」
誠一郎が回り込むようにして、志乃の顔を覗き込んだ。
「親戚でもない、村の者でもない、どこから来たかも分からない娘。雪の中を裸足で歩いているのを見た者がいる。夜中に山道を一人でうろついているのを見た者もいる」
志乃は唇を噛んだ。たまは、家を出ていたのだ。志乃の知らない間に。
「あれは人ではない、と村の者は言っていました」
「——馬鹿馬鹿しい」
声が震えた。
「迷信深い
「そうですか」
誠一郎は引き下がらなかった。その目が、探るように志乃を見つめている。
「志乃さん。あなたは昔から、情に
「あなたに心配していただく筋合いはありません」
「心配しているのですよ。本当に」
誠一郎が一歩近づいた。志乃は後ずさった。
「あなたを捨てたことを、私は今でも悔いている」
「——捨てた?」
思わず笑い声が漏れた。乾いた、冷たい笑いだった。
「捨てたですって。あなたは私を捨てたのではないわ。壊れた道具を、静かに片付けただけ。そうでしょう?」
誠一郎の顔がわずかに強張った。
「子を産めない女など、青柳の家には要らない。あなたのお父様はそう仰った。あなたは黙って頷いていた。——私は、あの日のあなたの顔を忘れません」
「志乃さん」
「お引き取りください」
志乃は
「あの娘から離れなさい」
背中に声が突き刺さった。
「あれが何であれ、人の形をしているものが、いつまでも人のままでいるとは限らない。——後悔する前に、考え直しなさい」
志乃は振り向かなかった。雪を踏みしめて、山道を登った。
家に戻ると、たまが囲炉裏端で待っていた。
「おかえりなさい」
いつもと変わらない、静かな声。けれど志乃は、その声がどこか遠く聞こえた。
「——ただいま」
味噌と塩を土間に置きながら、志乃は
たまは本当に、この家から出ていないのだろうか。
夜中に山道を歩いている娘。雪の中を裸足で。
志乃は知らなかった。何も、知らなかったのだ。
「どうかしたの?」
たまが首を傾げている。暗い瞳が、志乃を映している。
「——いいえ。何でもないわ」
志乃は笑った。うまく笑えたかどうかは、分からなかった。
その夜、志乃は夢を見た。
甕の蓋を開ける夢だった。
◇
五「禁忌破り」
それから幾日か、何事もない日々が続いた。
けれど、志乃の心は静まらなかった。
たまの一挙一動が気になった。夜中に目を覚ますたびに、隣にたまがいるかどうか確かめた。いつも、たまはそこにいた。目を閉じて、呼吸をしているのかも分からないほど静かに横たわっていた。
そして——
あの中に何があるのか。殻の欠片。それだけのはずだ。それだけのはずなのに、なぜ見てはいけないのか。
訊けばいい。たまに訊けばいい。けれど訊けなかった。訊いてしまえば、何かが壊れる気がした。
その夜は、やけに冷えた。
囲炉裏の火を絶やさぬよう薪をくべ、志乃は布団に入った。たまは先に眠っている。いつものように冷たい体を寄せ、志乃も目を閉じた。
眠れなかった。
風の音が聞こえる。雪を叩きつける風。古い家が軋む音。そして——。
甕が、呼んでいるような気がした。
馬鹿馬鹿しい。志乃は寝返りを打った。甕が呼ぶわけがない。殻の欠片が呼ぶわけがない。
けれど胸の奥で、何かが疼いていた。
あれは何だ。たまは何者だ。なぜ私のところに来た。なぜ私を——。
気がつくと、志乃は布団から抜け出していた。
足音を殺して土間に降りる。甕は暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた。古い甕。祖母の代から使っていたもの。蓋には埃が積もっている。
手が伸びた。
止められなかった。
蓋を持ち上げる。軽かった。中には——。
殻があった。
そして、その内側が——光っていた。
濡れたように。月明かりを受けたように。いや、月など出ていない。雪雲が空を覆っているはずだ。なのに殻の内側は、鏡のように光を放っていた。
志乃は覗き込んだ。
そこに、自分が映っていた。
いや——自分ではなかった。
鏡の中の志乃は、微笑んでいた。穏やかに、幸福そうに。そしてその腕には、赤子が抱かれていた。
小さな手。閉じた目。ふっくらとした頬。
志乃は息を呑んだ。
これは、あり得たはずの未来だった。婚約が続いていれば。体が普通であれば。誰かの妻になり、誰かの母になり、こうして子を抱いて笑っていたはずの——永遠に失われた光景。
手が伸びた。触れたかった。その赤子に。その幸福に。自分がなれなかったものに。
指先が殻に触れる寸前——。
像が揺らいだ。
赤子が消えた。志乃の腕だけが残った。何かを抱くように丸められた、空っぽの腕。
何も抱いていない。何も孵せない。何も残せない。
それが、私だ。
涙が頬を伝った。いつから泣いていたのか分からなかった。
志乃は顔を上げた。
たまが、そこにいた。
布団の上に起き上がり、こちらを見ていた。暗がりの中、その目だけがぼんやりと光っている。
たまは何も言わなかった。責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに志乃を見つめていた。
志乃も何も言えなかった。言い訳も、謝罪も、喉の奥で凍りついたように出てこなかった。
やがて、たまが微笑んだ。
悲しげな——諦めたような、許すような、そんな笑みだった。
「……おやすみなさい」
たまはそう言って、静かに目を閉じた。
志乃は土間に立ち尽くしていた。甕の蓋を閉めることもできず、涙を拭うこともできず。
夜が、長かった。
◇
終「喪失と余韻」
目を覚ましたとき、障子の向こうが白く光っていた。
雪が止んだのだ。久しぶりの朝日が、積もった雪に反射して部屋を照らしている。
空だった。
冷たかった。人が抜け出したばかりの温もりではない。最初から誰も寝ていなかったかのように、布団は平らに、冷たく整えられていた。
「たま」
声が
「たま」
返事はなかった。
志乃は布団を跳ね除けて立ち上がった。土間に降りる。囲炉裏端を見回す。
そして——
なかった。
甕があった場所には、何もなかった。
志乃は膝から崩れ落ちた。
泣くことさえできなかった。涙は昨夜すべて流してしまったのかもしれない。ただ空っぽの床を見つめながら、志乃は長い間そこに座り込んでいた。
冬が終わった。
雪解けの水が沢を満たし、山桜が咲いて散り、遅い春が峠を越えてきた。
志乃は変わらず山奥の家で暮らしていた。水を汲み、火を
ただ——夜が寒かった。
囲炉裏の火をどれほど焚いても、布団を何枚重ねても、体の芯が温まらなかった。あの冷たい体を抱いていた頃の方が、よほど温かかったのだと気づいた。
ある朝、志乃は水を汲みに沢へ降りた。
一年前と同じ獣道。一年前と同じ季節。落ち葉の吹き溜まりを踏み越え、沢へ続く坂を降りようとしたとき——。
足が止まった。
そこに、卵があった。
落ち葉の
志乃は息を詰めた。
しゃがみ込み、手を伸ばす。指先が殻に触れた。
——温かい。
あの日と同じだった。内側から熱を発しているような、不思議な温もり。
志乃は卵を両手で包み込んだ。
温かかった。温かくて、温かくて、どうしようもなかった。
——温めたら、また会えるだろうか。
——また、失うと分かっていても。
志乃は長い間、そこにうずくまっていた。
卵を抱いたまま。
山桜の花弁が、風に乗って降りてきた。白い欠片が、志乃の髪に、肩に、そして卵の上に積もっていく。
やがて志乃は立ち上がった。
卵を抱いて、山道を登り始めた。
たまのこと(カクヨムコン11お題フェス参加作品) 浅沼まど @Mado_Asanuma
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます