第3話 幻日石
その部屋は、朝と何も変わっていなかった。
「来たか」
安曇が叔父の部屋に入ると、叔父は気だるげな様子で柱にもたれかかり、同じ笑みで安曇を見る。
(長くは……もたないと……)
言われてみれば確かに、目は落ちくぼみ顔色は土気色に近かった。けれどその眼差しと口元に浮かんだ笑みは平時と同じで。
本当に──この人は弱みを見せてくれない。
安曇は苦味を噛み殺すように目を閉じた。
「聞いたのか?」
「何を?」
見れば叔父は楽しそうに肩を揺らす。何が楽しいのか。
「いろいろだよ」
ククッと喉を鳴らしては咳をする。
それでも叔父の様子に絶望は感じられない。だったら安曇が暗い態度を取るべきではないだろう。
「……死ぬんだってね」
「らしいぞ」
どこまでも軽い声音。安曇は僅かに目を伏せる。
「殺しても死ななそうなのにね」
「だよなぁ」
どこまでも他人事だ。
叔父は楽しそうに目を細めた。
いつも通りの軽口だ。本当に何も変わらない。起き上がれないなんて嘘なんだと信じそうになる。
(叔父さんらしいけど……でも……)
「……」
その叔父にため息をつきながら、安曇は無言で出入口の襖を閉めた。
あと少しで夜がくる。梅雨の夜はまだまだ寒い。
密閉すると、そこはますます異世界じみた場所に感じる。甘く、苦い香りが部屋を支配する。
(僕はこんなに怖いのにね……)
「対の館は僕に任せるんだって」
「……そういう決まりだ」
叔父は安曇を見ずに遠くを見つめ、煙管の煙を細く吐き出す。
「……僕ももう呪われてるの?」
いつ、とは聞きたくなかった。それは叔父が死ぬ時期を指している気がするから。
安曇が怖いと感じるのは、常にひとつだけだ。
叔父はそんな安曇を横目で見て、フッと目を細める。
「いいや?」
「違うの?」
「お前は呪われる。あの日、選ばれたからな」
(あの日……?)
選ばれた。その言葉に何かが引っかかった。
障子の薄明かりは淡く揺れ、いつか見たゆらめきを想起させる。
(揺らめく……虹……)
今から三年前。そう、振り返ってみれば、何かが変わったのはあの日からだった。
あの虹色に……選ばれた時から。
***
まだ冷たい風が頬を撫でるその季節。安曇は七歳の誕生日を迎えた。
そして七歳になった黒鉄屋敷に住む子供には、必ず通らなければならない通過儀礼が存在する。
『当主面談』
それは黒鉄組の特殊な慣例のひとつ。
子供は七歳になると、一人で当主に預けられる。そして一日かけて、黒鉄組の掟や上下関係を学ぶのだ。安曇は当主の子だが、例外ではなかった。
「とーりゃんせー、とーりゃんせー」
庭で子供たちが遊んでいる。
遠い記憶の中では、その日はよく晴れた小春日和の冬の日だった。
「この子の七つのお祝いに~」
「お札を納めに参ります~」
柔らかな日差しに笑いあう子供たちは、体の弱い安曇には眩しい。目を細めながら廊下を進み、安曇は父の部屋に入った。
「失礼します」
父の部屋には床の間と縁側がついていて、縁側からの日差しを受けて障子が畳に影を落としていた。
畳の上には桐の机が、そしてその上には小箱が置かれている。
何の変哲もない木の箱だ。
なのに──。
(……行きはよいよい帰りは──)
頭の中に童歌のフレーズが流れた。
来てはいけないところに来たような、迷い込んでしまったかのような気がする。
その箱から、目が離せない。
息が詰まりそうな空間には父と──叔父がいた。
「よぉ、安曇」
「……叔父さん?」
父は上座に。そして叔父は窓際に腰掛け、逆光でその表情は見えない。微かな笑いが聞こえただけだった。
キシリ──
古い畳は歩くたびに小さく軋む。
「俺はこいつだと思うんだよなぁ」
叔父が安曇を見ながら笑うと、父は不機嫌そうに眉を寄せた。
「余計なことは言うな。……安曇、こちらに来なさい」
「うん……」
キシリ……キシリ……
近寄っていくうちに叔父の表情も見えてくる。叔父は、興味深そうに安曇を見つめていた。いつもの軽い調子ではなく、まるで何かを見定めるように。
「さぁて」
叔父は小箱に手を伸ばし、蓋を開ける。カタン……と軽い音がして蓋がはずれると、布に包まれた中の物が見えた。
「なに、それ」
「これは、幻日石だ」
「幻日石?」
安曇が首を傾げれば、父はまた不機嫌そうに叔父を見る。
「余計なことは言うな。安曇、持ってみなさい」
叔父は肩を竦め、幻日石と呼ばれたものの布を開く。そこに──
「……」
揺らめく虹色は、そこに世界の全てを溶かしたようだった。
──拳大の、虹色の石。
それ自体が光っているわけではない。けれどほのかに当たる陽の光が、石に当たればゆらりと変わる。
トロリ……という音が聞こえるように、ゆるゆると色を変化させ続ける石がそこにあった。
「きれい」
思わず呟くと、叔父がプッと吹き出した。
「隆明」
「あはは! あー、わりぃわりぃ。いや、大物だ」
「?」
叔父はその石を掴むと、安曇に差し出す。
「持ってみな」
「え……うん」
叔父の手から受け取った石は、少し冷んやりしていて硬い。ゆらりと手の中で揺れる光を、やっぱり綺麗だと安曇は思った。
「……ほらな?」
叔父がニヤリと笑って父を見ると、父の眉のシワはさらに深くなる。
「え、持ったらダメだった?」
「んなわけあるか。まあ、良いとは限んねぇがな」
「……」
叔父と手の中の石を見比べて、安曇はまた石を見る。
ゆらりゆらり。
遠くで子供たちの笑い声がする。
『怖いながらも』
──とーおーりゃんせー、とおりゃんせー
この日から、総司と一緒にではなく叔父が直接剣術指導をするようになった。
暖かな、春の近い冬の日だった。
***
「あの石……?」
お茶を入れた安曇を、叔父は静かに眺めている。
室内には紫煙が漂い、今だけは黒鉄組の喧騒も遠く感じた。
「覚えてたか」
「うん。何だったのか、わからないけど」
「あれはなぁ、判定する石なのさ」
お茶を渡すと、叔父は手の中で湯呑みを弄ぶだけで飲もうとしない。
「判定?」
「そうだ。呪いを受けることができる人間を選抜する」
「呪いを……受ける……」
妙な言い回しだ。これではまるで──
(呪いを避ける方法があるみたいじゃないか……)
安曇はお茶を一口飲んで、熱さに眉を顰めた。
「他のやつらは持ち続けられなかった。……お前の兄貴もな」
「え……」
顔を上げた安曇に、叔父は柱にもたれて安曇を流し見る。
「あの石は人を見る。気に入らない相手には容赦しねぇ。指一本でも触られりゃ、相手の意識を刈り取っちまう」
「相手の……意識を?」
(僕にはただの、綺麗な石だったのに)
ヒヤリとした冷たい石。
自分が選ばれたなんて感覚は全くなかった。安曇はただ、微睡むような虹色のゆらぎを覚えているだけだ。
叔父は小さく頷く。
「そうだ。そして起きれば何も覚えちゃいない」
「……」
いつも安曇を見下ろしている兄。
自信に溢れ、人の話を聞かない優等生。あの兄からは確かに当主面談の話を聞いたことがない。
(つまり……兄さんは何も覚えてないと)
当主面談の内容は誰も共有しない。そういうルールなのかと思っていた。
安曇はあの日の父のように、眉の皺を深く刻んで唸る。その様子に叔父は小さく笑った。
「呪いの選択権は選ばれたお前にある。好きにすりゃあいいさ」
なんだそれは。
こんなに呪いを解く方法を……否定する方法を探しているのに。
「……叔父さんは選択したってこと?」
「まあ、そういうことになる」
(意味がわからない)
この人は答えをくれない。なら、安曇から行くしかない。
「望んだら……早く呪われるの?」
叔父は、そんな安曇を見て目を細めた。
「呪われたいのか?」
「そしたら正体がわかるかもしれないでしょ」
「正体ねぇ……」
叔父は肩を竦め、安曇を指で軽くついた。
「安曇。お前、明日学校休めよ」
「え?」
煙管を咥え、叔父は窓の外を見る。
「連れてってやるからさ」
──対の館に。
そう言われた気がした。
「……呪いを受けるために?」
安曇が不満そうな顔をしていたせいか、叔父が堪えきれないように笑い出す。
「ははっ」
そして笑いに釣られるように、そのまま咳き込んだ。
今までより長く咳き込んで、安曇は思わずそばに寄る。が──
「ゲホッ……い、いい。来んな」
叔父の手がそれを止める。
安曇は眉を顰め、駆け寄る代わりに目を伏せた。
「はぁ、気にしなくていい。いつも通りだ」
叔父の荒い息が、異世界のような空間に雨の音とともに染み込んでいく。まるでこの世界に、叔父と自分しか存在していないような気分になった。
やがて呼吸を整え、叔父は煙管を一度吸うと静かに笑みを浮かべる。その額に汗が浮かんでいるのを、安曇は見ないふりをした。
「受けるためじゃない。お前が選ぶためだ。──知りてぇんだろ? 呪いの秘密」
「!」
(呪いの正体!?)
安曇はパッと顔を上げて叔父を見た。──が。
お茶を持とうとして、叔父は湯呑みを持たずに机に戻す。よく見れば指先が僅かに震えていた。
(本当に……)
声に震えは一切ないのに。この人はどこまでも隙を見せない。
再び煙管を咥え直し、叔父は小さく息をつく。
叔父が全てを隠せたとしても、安曇は全てを隠せない。押し寄せる不安に眉を寄せ、せめてそれを押し殺そうと一度目を閉じた。
「……ねえ」
「ん?」
「今日は叔父さんのとこで寝てもいい?」
離れるのは何だか怖かった。
この人が、見えない場所に行くことが。
「やだよ、暑苦しい」
叔父はからかうように笑う。
廊下灯がゆらりと揺れ、障子の影を映し出す。雨が酷くなってきた。
「……」
安曇が沈黙したことで部屋は一層静かになって、雨音が強く響いていく。その沈黙に、叔父は小さく笑って肩を竦めた。
「…………好きにしろよ」
「うん」
煙管の煙がまるで叔父の残り香のように甘く苦く漂う。
包帯の隙間から見える黒い肌が、じわりじわりと安曇の気持ちを抉っていった。
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