食後:お会計
マナミが剥いた桃が、皿の上にぐしゃりと置かれた。
完熟した果実は、ナイフの圧力に耐えきれず形を崩し、黄色い果汁が皿の縁からテーブルクロスへと垂れ落ちる。それは先ほどのワインのシミと混ざり合い、どす黒い地図を広げていった。
「……さあ、どうぞ。甘いわよ」
マナミが果物ナイフを握ったまま、皿をカズヤの方へ押しやる。刃先には、ねっとりとした果肉がこびりついている。
「ありがとう。でも、本当に時間がないんだ」
カズヤは椅子を引く音を大きく立てて立ち上がった。顔色は土気色で、額には脂汗が浮いている。
「アキオ、マナミちゃん、ご馳走様。……エリちゃんも、また」
カズヤは誰とも目を合わせず、逃げるようにダイニングの出口へと足を向けた。
「待てよ」
低く、濁った声が響いた。
アキオだ。
彼はいつの間にか立ち上がり、カズヤの行く手を塞ぐように立っていた。
「アキオ? 悪いけど、急ぎの用事が……」
「まだ、話が終わっていないだろう」
アキオはゆっくりと顔を上げた。
その顔には、満面の笑みが張り付いている。
だが、先ほどまでの媚びへつらうような弱さは消え失せ、そこには商談をまとめ上げるビジネスマンのような、冷徹な理性が宿っていた。
かつて実家の工場の床で、土下座をする父の背中を見た時と同じ、諦観と覚悟の目だ。
「話って……投資の件か? あれは無理だと言ったはずだ」
「無理じゃない。君には払う義務がある」
アキオが一歩、カズヤに詰め寄る。
「義務? 何を言って……」
「対価だよ、対価。……この部屋からの景色、僕が選んだワイン、マナミの手料理。そして――」
アキオの視線が、カズヤの顔からマナミの方へ、そしてまたカズヤへとねっとりと這うように移動した。
「――僕の留守中に、この家で『味わった』すべてのものに対する、使用料だ」
部屋の空気が凍りついた。
冷蔵庫の重低音だけが、ブーンと鳴り響いている。
マナミが息を呑み、ナイフを取り落とした。カチャン、という乾いた音が静寂を切り裂く。
「な、何を……」
「知らなかったとでも思うか? ……気づかないふりをしてあげていたんだよ、ずっと。君たちが気持ちよく過ごせるように。それがホストの務めだからね」
アキオはカズヤの胸ぐらを掴むのではなく、ジャケットの襟を丁寧に、しかし強烈な力で撫で整えた。
「楽しかっただろう? スリルがあって、背徳的で。……僕という『道化』がいたおかげで、君たちの恋遊びは最高に盛り上がったはずだ」
カズヤは助けを求めるようにマナミを見た。
しかしマナミは、もうカズヤを見ていなかった。彼女の視線はアキオの背中に向けられ、次の「寄生先」として夫がまだ使えるかどうか、冷ややかに値踏みしていた。その瞳に、愛憎や後悔といった甘いノイズは一切ない。あるのは計算だけだ。
「だから、払ってくれるよね? カズヤ。……君はスマートな男だ。タダ食いなんて、品のない真似はしないはずだ」
アキオは懐から一枚の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
それは投資のパンフレットではなく、金銭消費貸借契約書だった。
「金額は記入済みだ。……君の社会的信用と、この家の修繕費。諸々込みで、安いもんだろう?」
アキオは上着のポケットからモンブランの万年筆を取り出し、キャップを外した。
カチリ。
その音が、銃爪を引く音のように響いた。
「さあ、座って。サインをするまでは、このドアは開かないよ」
アキオはダイニングの椅子を引いた。ギギギ、と床を擦る音が、まるで断末魔の悲鳴のように長く尾を引いた。
「ペンはここにある。……インクが出なければ、そこに代わりがあるだろう?」
アキオの視線が、テーブルの上の、ワインと桃の汁で汚れたナイフに向けられる。
数秒の沈黙。
誰も動かない。
ただ、窓の外で風が吹き荒れる音だけが、部屋の中を満たしていく。
誰もが、己の値段が確定するのを待っている。
「……ふっ、あはははは!」
沈黙を破ったのは、エリだった。
彼女は腹を抱え、涙を流して笑い出した。
「最高! アキオ、あなた最高よ! これこそが『究極のシェアハウス』ね!」
エリは笑いながら、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。それは笑い過ぎた涙なのか、それとも、かつて自分もどこかの食卓で支払わされた「高い請求書」を思い出した涙なのか、誰にも分からない。
「さあ、お客様。お支払いの時間です」
アキオは微動だにせず、ただ深々と、恭しくカズヤに頭を下げた。
窓の外では、緩んだベランダの手すりが強風に煽られ、ガタガタ、ガタガタと、誰かが手を叩いて笑っているような音を立て続けていた。
(了)
笑顔の食卓――四十五階の腐敗~AIに「京都人のような嫌味」を教え込んだら、性格が悪すぎるミステリーになった 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07
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