副菜:共有された秘密
「あらあら、大変。……でもマナミ、そんなに擦ると生地が傷むわよ。汚れって、隠そうとすればするほど広がっちゃうものね」
エリは頬杖をつき、楽しげにその様子を眺めていた。
「ごめんなさい……。漂白すれば落ちると思うけれど、アキオのお気に入りのクロスだから」
「気にしないで。形あるものはいつか壊れるし、汚れるわ。……ねえ、カズヤ君? そう思わない?」
突然水を向けられ、カズヤは一瞬動きを止めたが、すぐに営業用のスマイルを貼り付けた。
「そうだね。消耗品に執着するのは良くない。……マナミちゃん、塩はあるかな? ワインのシミには塩を振るといいんだ」
カズヤが自然な動作で立ち上がり、迷いなく背後のカップボードを開けた。
一番上の棚の、奥にある青い陶器の壺を取り出す。
「ありがとう、カズヤ君。……助かるわ」
マナミが安堵の表情で塩を受け取ろうと手を伸ばす。
その時、エリの低い声が割って入った。
「へえ……。すごいわね、カズヤ君」
エリはグラスに残った氷をカラン、と揺らした。
「そのお塩、ずいぶん奥まった場所にあったのに。まるで『自分の家』みたいに迷わず取り出すのね。アキオだって、一瞬どこにあるか分からなさそうな顔をしてたのに」
カズヤの手が空中で止まった。
壺を持つ指に、わずかに力が入る。
「……以前、アキオにキッチンを案内してもらったことがあったからね。記憶力がいいのが取り柄なんだ」
「まあ、素敵。記憶力がいいなんて」
エリはスマホを取り出し、画面をスクロールさせながら呟いた。
「そういえばマナミ、先月『一人旅』で京都に行ってたわよね? 素敵な旅館の写真をSNSに上げてたけど」
「え、ええ。リフレッシュしたくて……」
「あの旅館、予約が取れないことで有名よね。特に『離れ』の部屋は」
エリは視線をカズヤに移した。その目は、獲物を追い詰める狩人のそれではなく、かつて自分も同じ罠にかかり、同じ嘘で切り捨てられた人間の、昏い共感を含んでいた。
「カズヤ君も先月、出張で京都に行ってたわよね? お土産にくれた八ッ橋、美味しかったわ。……不思議ね、カズヤ君のお土産の包装紙と、マナミの写真に写り込んでいた旅館の浴衣の柄、全く同じ『梅の紋様』だったの」
カズヤが咳払いをした。喉仏が大きく上下する。
「……京都の土産物屋なんて、どこも同じような袋を使うからね。偶然だよ」
「そうね、偶然よね。世の中、不思議な偶然ってあるものね」
エリはスマホの画面を伏せてテーブルに置いた。
「でもね、カズヤ君。さっき『アレルギーだから』って避けたクルミ。……マナミが京都で食べてた『お茶請け』にも入ってたわよ? 写真の隅に、あなたの吸っている銘柄のタバコと一緒に写ってた。私、暇だから写真の拡大ばっかりしちゃうの」
マナミの顔から血の気が引いていく。
彼女は助けを求めるようにカズヤを見た。
しかし、カズヤはその視線に気づかないふりをして、腕時計に目を落とした。
「……そろそろ、いい時間かな。明日も早いんだ」
カズヤの冷淡な反応に、マナミの表情が歪んだ。
それは恐怖ではなく、信頼していた相手に裏切られた絶望の色だった。
「もう帰るの? ……まだ、デザートがあるのに」
マナミの声が震えている。
彼女は立ち上がり、キッチンのカウンターに置いてあった果物ナイフを、ふらつく手つきで握りしめた。
「デザート……いただきましょうよ、カズヤ君」
マナミの手の中で、ナイフの柄がミシリと音を立てるほど強く握りしめられた。
一瞬、その切っ先がカズヤの背中に向く。
殺意というよりは、生理的な嘔吐に近い衝動。
だが、次の瞬間には、彼女は能面のような笑みを貼り直していた。
マナミが振り向く。その瞳は潤んでいるが、口元だけが三日月のように吊り上がっていた。
「あなたの大好きな、『桃』を用意したの。……アレルギー、ないわよね?」
カズヤは青ざめた顔で、押し黙った。
エリだけが、その張り詰めた空気を極上のワインのように味わい、深く息を吸い込んだ。
「ふふ。早く食べたいわ。……熟れて腐りかけた桃の味」
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