3.バグだらけの晩餐会
「ただいま」
匠の声は、自分で思っていたよりも少し上ずっていた。
リビングの扉を開けると、濃厚なデミグラスソースの香りが鼻腔をくすぐった。これだ。真帆の作るビーフシチュー。胃袋を直接掴まれるような、暴力的なまでの旨味の予感。
匠は勝利を確信した。この香りの前では、どんな頑固なバグも修正される。
「おかえりなさい」
キッチンから顔を出した真帆は、意外なほど普段通りだった。いや、普段よりも少しだけ声のトーンが高いか。
「いい匂いだろ。外まで漂ってたよ」
「奮発したのよ。お正月だし、明日からお互い戦場だから」
真帆がダイニングテーブルに鍋敷きを置く。その手つきは軽やかだが、どこか演劇的だ。
匠はコートを脱ぎ捨て、抱えていた紙袋を背中に隠すようにしてテーブルに近づいた。
ここだ。ここで最高のタイミングを見計らって、この「パッチ」を適用しなければならない。
「座って。すぐに盛り付けるから」
真帆が鍋の蓋を開ける。湯気と共に、芳醇な香りが部屋いっぱいに広がる。
しかし、次に彼女が取り出したものを見て、匠は目を疑った。
それは、食器棚の奥に眠っていた、景品の真っ白いパン皿と、なんとプラスチックの保存容器(タッパー)だった。
「え、皿……」
「ごめんね、雰囲気出なくて」
真帆は悪びれもせず、とろとろに煮込まれた肉塊を、無機質なタッパーにどすっと落とした。
「お皿、売っちゃったの」
「……は?」
匠の思考処理が追いつかない。サーバーダウン寸前だ。
「あの一枚だけ残ってるのを見るのが辛かったから。だから、売ったお金とへそくりを合わせて、このお肉を買ったの。最高級の黒毛和牛よ」
真帆はタッパーを匠の目の前に差し出し、にっこりと笑った。
「過去にしがみつくより、美味しいものを食べて忘れましょ。さあ、召し上がれ」
その笑顔は、完璧なプレゼンテーションだった。
クライアントなら即座に承認印を押しただろう。
だが、匠は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
「う、売った……?」
「そうよ。結構いい値段がついたわ」
「……まじか」
匠は乾いた笑いを漏らしながら、背中に隠していた紙袋を、のろのろとテーブルの上に置いた。
「俺……それを、買ってきたんだ」
今度は真帆が固まる番だった。
「え?」
匠は震える手で包みを開けた。
薄紙の中から現れたのは、真帆が数時間前まで見慣れていた、あの作家物のスープ皿。
深い藍色と複雑な貫入(かんにゅう)が入った、世界に二つとない——いや、今は世界に「一つ」になってしまった器だ。
「ネットで見つけて……どうしても、元のペアに戻したくて。その……お前が悲しそうな顔をしてたから」
沈黙が落ちた。
換気扇の音だけが、シュールなBGMのように響いている。
テーブルの上には、プラスチック容器に入った最高級のシチューと、中身の入っていない最高級の皿が一枚。
真帆が口元を押さえて、よろめくように椅子に座り込んだ。
「嘘でしょ……私、それがないと意味ないと思って……」
「俺もだ。皿があれば、お前が笑うと思って」
二人は顔を見合わせた。
そこにあるのは、見事なまでの「仕様の不一致」。
お互いがお互いのために最適解を選んだ結果、システム全体がクラッシュしている。
さらに、匠が追い打ちをかけるように呟いた。
「……ちなみに、この皿を買う金を作るために、俺の九五年もののボルドーを売ったんだ。このシチューに合わせて飲もうと思ってたんだけど」
真帆が天を仰ぐ。
「……ごめん。お肉にお金使いすぎて、ワインなんて料理用のパックのものしか残ってない」
決定打だった。
最高級の皿には、最高級の料理を盛るべきで、そこには最高級のワインがあるはずだった。
だが現実は、
皿が一枚。
シチューが鍋いっぱい。
ワインはなし。
そして、二人の財布はすっからかん。
「……ふっ」
最初に吹き出したのは匠だった。
「あはははは!」
つられて真帆も笑い出す。
「なにこれ! ひどい! めちゃくちゃじゃない!」
「ひどすぎるだろ! 俺たち、仕事はできるはずなのに、なんで家のことはこんなにポンコツなんだよ!」
匠は腹を抱えて笑った。涙が出た。
三が日の間、胃をキリキリさせていた緊張感が、笑い声と共に霧散していく。
なんだ、これでいいじゃないか。
皿がなくても、ワインがなくても、真帆がこうして笑っている。それこそが、匠が一番欲しかった「ユーザー体験」だったのだから。
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