2.クリエイティブな決断

 同時刻。都内のマンションの一室。

 相田真帆は、キッチンの換気扇を「強」に設定した。

 ゴオオ、という低い回転音が、思考のノイズを吸い込んでいくようで心地いい。

 手元には、霜降りの美しい牛肉ブロックがある。

 一〇〇グラム数千円。デパ地下の精肉店で、ショーケース越しに店員と目が合った瞬間、これだ、と直感した肉だ。広告業界で鍛えられたクリエイティブ・ディレクターとしての勘が、「このビジュアルこそが、今の私たちに必要なソリューションである」と告げていた。

 真帆は包丁を握り、肉に刃を入れる。

 すっ、と抵抗なく切れる感触。この滑らかさは、今の夫婦関係とは対照的だ。

(……匠、まだ帰ってこない)

 スマホの画面を確認するが、夫からの連絡はない。「ちょっと出かけてくる」と言い残して昼過ぎに出て行ったきりだ。

 きっと、また一人で勝手に悩んでいるのだろう。あの人は優秀なエンジニアだが、人間関係のアルゴリズムに関しては驚くほど不器用だ。皿を割ったことを、まだ世界の終わりのように気に病んでいるに違いない。

 正直に言えば、真帆もショックだった。あの皿は、二人の「初心」のようなものだったから。

 けれど、割れた皿を見て立ち尽くす夫の、あの情けない顔を見ていたら、怒りよりも先に妙な諦めが湧いてきたのだ。

 ——ああ、もう潮時なのかもしれない。

 それは離婚という意味ではない。ただ、「過去の思い出」にすがる時期が終わったのだと思った。

 食器棚の奥を見る。

 そこには、ぽつんと一枚だけ残されたスープ皿があった場所が、空洞のように空いている。

 真帆は今日、その「割れなかった方の一枚」を持って家を出た。

 そして、骨董通りにある馴染みのアンティークショップで、それを買い取ってもらったのだ。

「ペアで揃っていればもっと高値がつきましたが……でも、この作家さんの作品なら、一枚でも欲しがるコレクターはいますよ」

 店主の言葉に、真帆は迷わず頷いた。

 一枚だけ残った皿を見るたびに、「もう元には戻らない」と嘆くのは御免だった。そんな湿っぽい情緒は、生産的ではない。

 それならいっそ、きっぱりと手放して、そのお金でとびきり美味しいものでも食べたほうがいい。

「過去を食べて、消化するのよ」

 真帆は鍋にバターを落とした。ジュワッという音と共に、芳醇な香りが立ち上る。

 今日のメニューはビーフシチュー。匠の大好物だ。

 最高級の肉を、たっぷりの赤ワインで煮込む。あいにく料理用の安いワインしかなかったが、素材が良いから問題ないだろう。

 皿はもうない。だから、今日はあえてプラスチックの保存容器か、あるいはちぐはぐなパン皿にでも盛って出してやろうと思う。

 

 滑稽で、無様で、贅沢な食卓。

 それを見て、匠はどんな顔をするだろうか。

 きっと目を丸くして、それから「なんだこれ」と笑い出すに違いない。そうすれば、三が日の間の冷戦も終わる。

 私たちは、お洒落な皿よりも、熱々のシチューを選んだのだと。そうやって笑い飛ばして、明日からの激務に向かうのだ。

 鍋の中がことことと音を立て始めた。

 真帆は、ダイニングテーブルの上に、スプーンを二つ並べた。

 ……あれ?

 真帆の手が止まる。

 確か、このスプーンと一緒に使うはずだったカトラリーレスト(箸置き)も、ついでに売ってしまったような気がする。

「ま、いっか。直置きで」

 真帆はくすりと笑った。

 完璧じゃなくていい。今はただ、彼と一緒に温かいものを食べたかった。

 その時、玄関のドアロックが解除される電子音が響いた。

 ピロリ、というその音は、まるでゲームのログイン通知のように聞こえた。

 プレイヤー2、帰還。

 真帆は鍋の火を弱め、エプロンの紐を締め直して、玄関へと向かった。

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