皿を売った妻と、ワインを売った夫のちぐはぐな夜
銀 護力(しろがね もりよし)
1.最適解の不在
一月四日の日曜日。この暦の並びは、社会人にとって一種のバグのようなものだ。
三が日という名の強制イベントが終了し、本来なら「仕事始め」という名のメインクエストへ移行するはずが、ポツンと一日だけ、余白のような休日が残されている。
相田匠(あいだ・たくみ)は、青山通りの冷たい風に身を縮めながら、その余白を持て余していた。いや、正確には持て余している余裕などない。彼には今日中にコンプリートしなければならない、重大なミッションがあった。
匠はコートのポケットに手を突っ込み、もう片方の手で、ショップのロゴが入った厚手の紙袋を慎重に抱え直した。中身は陶器だ。絶対に落とすわけにはいかない。
ふと、ショーウィンドウに映った自分の姿を見る。三五歳。IT企業のシニアエンジニア。最近、デスクワークの蓄積が腹周りのシルエットに「仕様変更」を及ぼしていることは認めるが、まだ中年太りというタグ付けはされたくない。そんなささやかな抵抗心で、少しだけ背筋を伸ばす。
「……寒」
独り言が白く濁って消えた。
家に帰るのが怖い、と思ったのは、結婚して十年、これが初めてかもしれない。
事の発端は一二月三〇日。年末の大掃除という名の高負荷タスク処理中の事故だった。
キッチンの吊り戸棚を整理していた匠の手が滑り、一枚の皿が床に落下した。乾いた音と共に、それは三つの破片になった。
ただの皿ではない。学生時代、当時の彼女——現在の妻である真帆(まほ)と行った金沢旅行で買った、作家もののスープ皿だ。貧乏学生だった二人にとって、その皿は清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した「未来への投資」であり、二人の歴史そのものだった。
やってしまった、と思った時にはもう遅い。
駆けつけてきた真帆は、破片を見つめて絶句し、それから「……形あるものは、いつか壊れるから」とだけ言った。
その声があまりに平坦で、感情のパラメータが一切読み取れなかったことが、匠を恐怖させた。怒ってくれたほうがマシだった。彼女は静かに破片を拾い集め、それ以来、必要最低限の業務連絡以外、口を利いてくれない。
——UX(ユーザー体験)最悪だ。
匠は職業病的な思考で反省する。
ユーザー(妻)が求めていたのは、スムーズな年末進行と、穏やかな新年の幕開けだった。自分はそこに「過去のクラッシュ」という重大なエラーを発生させたわけだ。
システムならバックアップから復元できるが、割れた皿と信頼は戻らない。
だから、匠は動いた。
三が日の間、真帆が実家の集まりに出ている隙に、ネットの海を深くまで潜り、あらゆるコネクションを駆使して「パッチ」を探した。
そして見つけたのだ。あの作家が晩年に残した、奇跡のようなデッドストックを。
代償は大きかった。
購入資金を作るために、独身時代からコレクションしていたヴィンテージ・ワイン——九五年のボルドーを手放すことになった。いつか特別な日に二人で開けようと思っていた一本だが、背に腹は代えられない。
中古買取店の店主が「本当にいいんですか?」と念押しした時の、あの未練がましい自分の顔を思い出すと苦笑いが出る。
だが、これでいい。
匠は腕の中の紙袋の感触を確かめる。
家に帰れば、真帆はまだ不機嫌かもしれない。けれど、この包みを開けた瞬間、彼女の顔には驚きと、そしてかつてのような笑顔が浮かぶはずだ。
「まったく、バカなんだから」と呆れながらも、許してくれるだろう。
そうして、この新しい皿に何か料理を盛り付け、とっておきのワインを開ければ、すべては元通りだ。バグフィックス完了。
時刻は一六時を回っている。
そろそろ、真帆が夕食の支度を始めている頃だ。
匠は覚悟を決めて、地下鉄の入り口へと向かう階段を降りた。
この先に待っているのが、予想もつかない「仕様外の動作」だとも知らずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます