エピローグ
王都に春の訪れを告げる「精霊祭」の朝。新しく塗り替えられた公爵邸の白亜の壁には、朝露に濡れた蔓薔薇が鮮やかな紅を指していた。
リリアーナ・ヴァン・アシュクロフトは、テラスの椅子に深く腰掛け、目の前に置かれた磁器のカップから立ち上る湯気を眺めていた。アールグレイのベルガモットの香りが、春の柔らかな風に乗って鼻腔をくすぐる。
「お嬢様、お召し替えのお時間でございます」
侍女の柔らかな声。リリアーナは「ええ」と短く応じ、最後の一口を飲み干した。その指先には、新しい婚約者――隣国の大公から贈られた、太陽の光を閉じ込めたようなイエローダイヤモンドが輝いている。
そこへ、軽い足取りで公爵が姿を現した。 彼は以前よりも心なしか表情が和らぎ、手には今朝届いたばかりの、辺境からの「定期報告書」を持っていた。
「リリアーナ。……また、あちらから便りがあったよ」
公爵は、嫌なものを触るような仕草で、その紙をテーブルに置いた。 リリアーナは、ティーカップを置く音さえさせず、静かにその報告書へ目を落とした。
『元第110番労働者(旧アルフレッド)。今冬の酷寒により重度の凍傷を負い、両足の指を数本失う。精神衰弱が激しく、時折空に向かって「リリアーナ、パンを、温かいパンをくれ」と叫び、泥を食らおうとする奇行が見られるため、現在は隔離施設へ収容中。隣室の収容者マリア(旧姓ベレット)は、重労働の末に視力をほぼ失い、現在は一日中、虚空に向かって存在しないドレスの自慢話を続けている』
リリアーナは、その無慈悲な文字の羅列を読み終えると、ふっと小さく息を吐いた。 かつてその名を呼ぶだけで胸が痛んだ日々が、まるで他人の書いた退屈な小説の一節のように感じられる。
「……お父様。まだ、そんなものを私に見せるのですか?」
「おや、いけなかったかな? お父様はね、庭の隅にまだ少しだけ、摘み残した雑草の根が残っていないか、時々確認したくなってしまうんだよ」
公爵は娘の隣に座り、自分で紅茶を注いだ。 「あの日、私がワイングラスを置いたとき。彼は『愛があるから平気だ』と笑った。……今、彼はその愛で、腐り落ちた自分の指を癒せているのかな。……マリアという女も、その『愛』とやらで、暗闇に光を灯せているのかね」
公爵の言葉には、もはや鋭いトゲはない。ただ、圧倒的な強者が弱者を評する時のような、乾いた、それでいて絶対的な「断絶」の響きがあった。
「……彼らは、自分が何を失ったのか、死ぬまで理解し続けるのでしょうね」 リリアーナは、窓の外で誇らしげに咲き誇る薔薇を見つめた。 「私が彼に与えていたのは、愛ではなく『世界』そのものだった。……それを受け取る資格がない者に、二度とあのような温かな朝は訪れない。……お父様、もう十分ですわ。あの報告書は、暖炉の種火にでもしてしまってください」
「そうだね。……お父様は、もうちっとも『おこ』ではないよ。ただ、君が幸せであれば、それでいい」
公爵は報告書を無造作に丸めると、側で控えていた執事に手渡した。 「燃やしておきなさい。……それと、今日の午餐はリリアーナの好物の鴨のローストだ。最高級の蜂蜜を用意するように」
「畏まりました、閣下」
リリアーナは立ち上がり、鏡の前で自分の姿を確かめた。 頬には健康的な赤みが差し、瞳には未来を見据える理知的な光がある。 かつて王子の背後で、その無能を隠すために影に徹していた「人形」の姿は、もうどこにもない。
「……お父様。私、行ってまいります」
「ああ。……リリアーナ、今度の婚約者は、君の『価値』を正確に理解している男だ。……もし、彼が少しでも君を軽んじるようなことがあれば、いつでも言いなさい」
公爵は、かつて王子を震え上がらせた、あの冷徹な微笑を浮かべた。 「その時は、また新しい『お掃除』を始めるだけだからね」
「ふふ、頼もしいお父様ですこと」
リリアーナは楽しげに笑い、部屋を後にした。 廊下を歩く彼女の靴音は、軽やかで、迷いがない。 その後ろ姿を見送りながら、公爵は残った紅茶をゆっくりと飲み干した。
窓の外では、春の陽光が王都の隅々まで降り注いでいた。 そこには、泥を啜る男も、虚言に狂う女も、もう存在しない。 ただ、一人の父親が、愛する娘のために完璧に整えた、美しく冷酷なまでの平穏が広がっている。
「……さて。お掃除の後は、新しい花を植えるとしようか」
公爵が独り言のように呟き、グラスを指先で弾くと、チン、と高く清らかな音が響いた。 それは、一つの復讐が終わり、完璧な秩序が完成したことを告げる、優雅な祝杯の音だった。
春の風が、公爵のデスクに置かれた「新しい国の予算書」を優しくめくっていく。 そこにはもう、王家の名は一文字も刻まれていなかった。
(完)
『お父様はおこですよ。〜真実の愛とやらで、我が娘を捨てた王子の末路〜』 春秋花壇 @mai5000jp
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます