【第10話:新しい季節、お父様の微笑み】

【第10話:新しい季節、お父様の微笑み】


王都から遠く離れた辺境、吹き曝しの開拓地。 かつて第一王子アルフレッドと呼ばれた男は、今、凍てついた泥の中に両手をつき、ひび割れた指先で硬い土を掻き出していた。


「おい、手を休めるな! 日が暮れるまでにこの溝を掘り終えなければ、今夜の粥抜きだぞ!」


監督官の怒声とともに、粗末な鞭が風を切る音が響く。アルフレッドは反射的に背中を丸めた。 かつて王宮のバルコニーで民衆に手を振っていたその腕は、今や痩せ細り、太陽と土に焼かれて浅黒く変色している。爪の間には一生取れることのない泥が詰まり、全身からは乾いた汗と汚物の匂いが漂っていた。


「……あ、あう……」


もはや、まともな言葉すら出ない。 冬の冷たい雨が降る中、配給されたのは、昨夜の残りのような冷え切った、そして砂が混じった薄い粥だった。アルフレッドはそれを、獣のように音を立てて啜る。


(……温かい、スープが飲みたい……)


脳裏をよぎるのは、かつて自分が「泥の味がする」と吐き捨てた王宮の朝食。 今なら、あのスープのために魂さえ売るだろう。だが、今の彼に売れるものは何一つ残っていない。 マリアがどうなったか、国王がどうなったか、もはや知る術もない。 ただ、一日を生き延びるために、泥を掘る。 それが「愛」という言葉で責任を放り出した男に与えられた、終わりのない刑罰だった。


同じ頃、王都。 かつての王宮は、アシュクロフト公爵家の莫大な資金投入により、以前よりも遥かに壮麗な姿へと再建されていた。 しかし、その門柱に刻まれているのは王家の紋章ではない。アシュクロフト公爵家の、誇り高き「天秤と剣」の紋章だ。


「……実に見事な出来栄えだね、リリアーナ」


最上階のテラス。 公爵は、眼下に広がる活気ある街並みを眺めながら、極上のヴィンテージワインをグラスに注いだ。 王家はもはや象徴的な「飾り」に過ぎない。この国の徴税、法執行、そして物流のすべてをアシュクロフト家が掌握し、国そのものが一つの巨大な「公爵領」へと変貌を遂げていた。


「ええ、お父様。……とても、清々しい風が吹いていますわ」


リリアーナは、公爵の隣で穏やかに微笑んでいた。 彼女の薬指には、新しい婚約指輪が輝いている。 相手は、かつての王子のような華やかさはないが、隣国の若き大公であり、リリアーナの知性と商才を何よりも高く評価し、対等なパートナーとして敬意を払う男だった。


「リリアーナ。……新しい旅立ちは、寂しくないかい?」


「いいえ。お父様が守ってくださったこの場所で、私は自分の足で歩く術を学びました。……あの方との出会いも、お父様が私を自由にさせてくださったからですわ」


リリアーナは、遠く北の空を見やった。 あの日、雪の中で泥を舐めていた男の姿は、もはや記憶の塵に過ぎない。


そこへ、公爵の私設秘書が静かに歩み寄り、一通の報告書を差し出した。 「閣下。……辺境の開拓地にて、例の『元王子』が、支給されたパンの配分を巡って他の労働者と争い、右手の指を一本失ったとのことです。命に別状はありませんが、二度とペンを持つことは叶わないでしょう」


公爵は、報告書に目を落とすことすらなく、ただワインの芳醇な香りを愉しんだ。


「そうか。……まあ、彼はもう名前すらない『労働者A』だ。わざわざ報告するまでもないよ。……リリアーナ、幸せかい?」


「ええ、お父様。とっても」


リリアーナは、公爵の腕にそっと手を添えた。 公爵は、満足げに目を細め、最後の一口のワインを飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。 あの聖夜、王子の前で「絶望の合図」として置いた時とは違う、軽やかで、確かな充足の音。


「……よかった。……これでようやく、庭の掃除が終わったね」


公爵の声には、もう微塵の「おこ」も含まれていなかった。 害虫を駆除し、枯れ木を伐採し、そして愛する娘のために最高の土壌を整え終えた、庭師のような安堵。


「お父様。……これからは、お掃除ではなく、お花を植えるお話をしましょう?」


「ああ、そうだね。……君の結婚式には、この国じゅうを薔薇で埋め尽くそう。……リリアーナ、お父様は今、とっても『ご機嫌』だよ」


テラスからは、新しく整備された街の、幸福な喧騒が聞こえてくる。 そこには、自分勝手な愛を叫んで周囲を不幸にする愚か者はいない。 理知と、法と、そして深い愛によって守られた、静謐な繁栄だけがあった。


空はどこまでも青く、新しい季節の訪れを告げる風が、公爵父娘の柔らかな髪を優しく撫でて通り過ぎていった。


【完結】


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