【第9話:泥濘を歩く元王子】
王宮を叩き出された「男」の視界は、絶望の色に塗り潰されていた。
アルフレッドは、泥と霙(みぞれ)が混じり合う王都の路地裏で、ガタガタと歯を鳴らしていた。身に纏っているのは、囚人と見紛うような薄汚れた麻の服一丁。数日前まで彼の肌を甘やかしていた最高級のシルクの感触は、今や遠い前世の記憶のように朧げだ。
「……寒い。お腹が、空いた……」
喉の奥がヒリヒリと焼け、胃が自分自身の内壁を削るような鈍痛を訴える。 彼はふらつく足取りで、かつて馴染みだった高級酒場や、マリアと愛を語らった宿屋の門を叩いた。だが、返ってくるのは温かな迎え入れではない。
「おい、見ろよ。元王子様だぜ」 「寄るなよ、汚れがうつる。公爵様に睨まれたくねえからな」
投げつけられるのは、冷たい拒絶と、時折飛んでくる腐った野菜の芯だけだった。 アルフレッドは、ふと思い出したようにマリアを探した。彼女なら、きっとどこかで自分を待っていてくれる。二人の愛は真実だったはずだ。
だが、彼が目にしたのは、路地の陰で公爵家の紋章をつけた「黒衣の男たち」に引き立てられるマリアの姿だった。
「……マリア!」 駆け寄ろうとするアルフレッド。だが、マリアの顔を見た瞬間、彼は凍りついた。 彼女の顔には、かつての可憐な面影など微塵もない。男たちに組み伏せられ、泥にまみれた彼女の瞳は、激しい憎悪で煮え繰り返っていた。
「殿下ぁ!? ふざけないで! あなたのせいで、わたくしの人生は台無しよ!」 マリアは、近くにいた公爵の手下――かつて自分たちが鼻であしらっていた下級役人の靴に縋り付いた。 「お願い、何でもするわ! 誰にでも抱かれる! だから、あんな男と一緒にしないで! あんな無能、わたくしは最初から嫌いだったのよ!」
「……マリア、君……」 「連れて行け。この女には『身の丈に合った場所』が用意されている」 黒衣の男が冷酷に告げる。それは、隣国の国境近くにある過酷な強制労働施設か、あるいは一生日の目を見ない地下の洗濯場か。 マリアの絶叫が遠ざかっていく。 アルフレッドは、自分が信じていた「愛」という名の幻想が、泥水に溶けて消えていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。
最後の望みをかけ、アルフレッドは這うようにしてアシュクロフト公爵邸へと辿り着いた。 そこは、王宮よりも遥かに温かく、黄金色の灯火が溢れる別世界だった。
鉄柵の門の向こう側。 手入れの行き届いた庭園には、花の香りが漂い、豪奢な玄関からは楽しげな笑い声さえ聞こえてくる。
「リリアーナ! リリアーナ、頼む! 開けてくれ!」
アルフレッドは、冷たい泥の中に膝をつき、門に縋り付いた。 額を地面に擦り付け、必死に土下座する。泥が口に入り、石が膝を割るが、痛みすら感じない。ただ、あの温かな世界に戻りたい。その一心だった。
「僕が悪かった! 謝る、何度でも謝る! 君こそが僕の真実だったんだ! マリアは……あんな女はどうでもいい! 頼む、リリアーナ!」
どれほど時間が経っただろうか。 雪が激しくなり、アルフレッドの意識が朦朧とし始めた頃、門の向こう側に、静かな足音が近づいてきた。
傘を差した侍女を伴い、一人の女性が佇んでいた。 リリアーナだ。 彼女は、防寒用の毛皮に身を包み、手には温かな飲み物が入っているのだろうか、銀のカップを優雅に持っている。
アルフレッドは、救いを求めるように顔を上げた。 「リリアーナ……! ああ、リリアーナ! 許してくれるんだね! 門を開けてくれ、寒いんだ、お腹が空いて……」
リリアーナは、門の鉄格子越しに、足元で泥を舐める男を見下ろした。 その瞳は、怒りでも悲しみでもなく、ただ「無」だった。 壊れた道具を、捨てる前に一度だけ確認するような、事務的な冷たさ。
「……アルフレッドさん」 彼女の声は、冬の空気よりも透き通っていた。 「愛で、空腹は満たせましたか?」
アルフレッドは、絶句した。
「貴方は仰いましたわね。愛さえあれば、権力も、食事も、家も、リリアーナという人形もいらないと。……今、貴方の周りには、望んだ通り何もありません。貴方を縛る義務も、冷酷な婚約者もいない。……自由なのですよ。これこそが、貴方の求めた『真実の愛』の姿ではありませんか?」
「違う……こんなの、自由じゃない……! 頼む、食べ物をくれ! パン一切れでいいんだ!」
「……お父様は、おこですよ。アルフレッドさん」 リリアーナは、カップの中の飲み物を、足元の泥へゆっくりと流した。 芳醇なココアの香りが、アルフレッドの鼻腔をくすぐり、狂おしいほどの飢餓感を煽る。
「私の十年間は、貴方が食べたパンの一切れに、貴方が浴びた温かなお湯の一滴に、すべて込められていました。……それを捨てたのは、貴方自身です」
リリアーナは、踵を返した。 「……さようなら。もう二度と、我が家の敷居を跨ごうなどと考えないでください。お父様が『片付け』を命じる前に」
「リリアーナ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」
門は開かなかった。 ただ、中から重厚な閂(かんぬき)が下りる音だけが、虚しく響いた。
アルフレッドは、泥の中に突っ伏した。 雪が、彼の痩せ細った背中に容赦なく降り積もる。 かつて自分が「愛」という言葉でどれほど多くの「現実」を蹂躙してきたか。 その現実が今、寒さと飢えという牙を持って、彼を食い破ろうとしていた。
庭の奥では、公爵が窓越しにその光景を眺めていた。 彼は、娘が戻ってくるのを確認すると、静かに部屋のカーテンを閉めた。 お父様は、まだ怒っている。 だが、その怒りはもう、アルフレッドに向けることすら惜しいほど、彼を「他赤」へと突き放していた。
世界は、静かに、そして事務的に、一人の男の物語を「廃棄」したのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます