【第8話:剥奪、そして放逐】
【第8話:剥奪、そして放逐】
王宮の「玉座の間」は、もはや国の頂点ではなかった。 暖房を失った広大な空間は、墓所のように冷え切り、窓から差し込む冬の光は埃を白く照らすだけ。かつて王の威厳を支えていた赤い絨毯は、逃げ出した召使たちの土足で汚れ、所々が剥がれ落ちている。
その中心で、国王エドワードは、震える膝をついていた。 王冠は机の上に無造作に置かれ、もはや主を失った鉄の塊にしか見えない。
「……公爵。すべて、認める。……アシュクロフト公爵、どうか、これ以上の制裁は……」
国王の目の前には、完璧に仕立てられた冬の外套を纏った公爵が立っていた。 背後には、美しく、そして残酷なまでに端然としたリリアーナ。彼女の指先は、冷たい空気に触れてもなお、温かさを失っていないようだった。
「陛下。お顔をお上げください。私はただ、契約の履行を確認しに来ただけです」
公爵の声は、驚くほど穏やかだ。だが、その穏やかさこそが、この場にいる全ての者を絶望させた。
「条件を確認しましょう。アルフレッド王子の第一王位継承権の永久剥奪。ならびに、王族の籍からの抹消。および、本日中の国外追放。……よろしいですね?」
「……ああ。承認する。……その代わり、王家への食料供給と融資の再開を……」
国王が縋るように言ったその時、公爵は眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。
「一つ、付け加えさせていただきたい。……王子の、全個人資産の没収です。彼が身につけている装飾品、予備の私服、あるいはその隠し口座の端金に至るまで。すべてを、我がアシュクロフト家が設立した『被災者支援基金』に寄付していただく」
「そ、そんな殺生な! 追放される息子に、旅費すら持たせないというのか!」
国王の叫びに、公爵は一歩、歩み寄った。 その瞬間、玉座の間の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥る。
「陛下。……お忘れですか? 彼は、真実の愛があれば、何もいらないと。王冠も、義務も、資産も、すべてはリリアーナという『冷酷な人形』が用意した不純なものだと……彼は自ら否定されたのですよ」
公爵は、傍らに控えていたリリアーナをちらりと見た。 「私の娘が注いできた十年の献身を、彼は『ゴミ』のように捨てた。ならば、彼もまた、ゴミとして外へ出されるのが道理ではありませんか?」
お父様は、まだ怒っている。 その怒りは、決して消えることのない永久凍土のように、王子の人生を根こそぎ奪い取ろうとしていた。
「……離せ! 貴様ら、私が誰だと思っている!」
王宮の裏門。 アルフレッドは、二人の無愛想な兵士に両脇を抱えられ、雪の積もる地面に放り出された。 かつての豪華な衣装は、没収という名目で身ぐるみ剥がされ、今彼が纏っているのは、平民が着るような粗末な麻の服と、薄いマント一枚だけだ。
「アルフレッド様、でございますね」
聞き慣れた、しかし今はもう、自分のものとは呼べない声がした。 アルフレッドが顔を上げると、そこには豪華な馬車の前で、優雅に毛皮の襟巻きを直すリリアーナが立っていた。
「リ、リリアーナ……! 助けてくれ! 父上が狂ったんだ、私を追い出すなんて! マリアもいなくなった、君だけは分かってくれるだろう? 私は……」
リリアーナは、汚れた地面に這いつくばる男を、まるで道端に落ちた枯れ葉を見るように見つめた。
「あら、どなたかしら。……お父様、この方は?」
公爵が、馬車の影から現れた。 「さあね。名前も、地位も、資産も持たない、ただの『アルフレッド』という男だよ。……ああ、そういえば、リリアーナに無礼を働いた塵がいたような気もするがね」
「お父様、およしになって。塵と話をしては、お召し物が汚れますわ」
リリアーナは、アルフレッドが伸ばした手を軽蔑するように避け、一歩下がった。
「アルフレッドさん。……貴方は『真実の愛』を見つけ、自由を手に入れた。これからは、誰に指示されることも、王家の重圧に苦しむこともありません。……良かったですね、お望み通りになって」
「リリアーナ! 頼む、謝るから! 婚約破棄は取り消す! 私は君を――」
「お黙りなさい」
リリアーナの声が、冷たく響いた。 「貴方が私に触れることはおろか、その名を呼ぶことさえ、これからは禁じられます。……貴方が捨てたのは、私という女ではありません。貴方を『人間』として支えていた、この国のシステムそのものなのですよ」
公爵が、給仕から渡されたワイングラスを傾け、一口だけ口に含んだ。 そして、その残りを、アルフレッドの足元の雪の上に静かにぶちまけた。
「……お父様は、おこですよ。アルフレッド」
公爵は、感情の消えた声で言った。 「君の言う『愛』とやらで、今夜の宿を見つけるがいい。……門を閉めろ」
重厚な鉄の門が、地響きを立てて閉ざされた。 アルフレッドは、冷たい雪の上に一人取り残された。指先は感覚を失い、胃袋は空腹で悲鳴を上げている。 かつて自分を称えた民衆は一人もおらず、愛を誓ったマリアもいない。
彼に残されたのは、薄汚れた麻の服と、二度と開くことのない王宮の門だけ。
雪が、音もなく降り積もっていた。
「……あ、ああああ……っ!」
雪の降る暗闇のなかで、アルフレッドの絶叫が響いた。 それは、愛を語った口から漏れる、初めての「現実」の悲鳴だった。
馬車の中で、リリアーナは公爵が差し出した温かいココアを受け取った。 「お父様。……これでもう、お掃除は終わりかしら?」
「いや、リリアーナ。……まだ、あの子が泥を啜りながら、自分の過ちを死ぬまで後悔し続けるのを見届けるまでが、私の仕事だよ」
公爵の瞳には、まだ消えない「おこ」の炎が静かに揺れていた。 馬車は、雪を蹴立てて公爵邸へと向かう。 そこには、温かな暖炉と、王子のいない、新しい未来が待っている。
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