【第7話:真実の愛、決裂の朝】
【第7話:真実の愛、決裂の朝】
王宮の朝は、もはや希望を運んでくるものではなかった。 窓枠の隙間から入り込む冬の凍てつく風が、カーテンを亡霊のように揺らしている。かつて最高級の香油で磨き上げられていた床は、今や煤と泥に汚れ、放置された食器からは腐敗した酸っぱい臭いが漂っていた。
アルフレッド王子は、震える手で最後の一切れとなった硬い黒パンを、マリアに差し出した。 「食べておくれ、マリア。……君だけでも、体力をつけて……」
だが、差し出されたその手は、冷酷な力で叩き落とされた。 乾いたパンの欠片が、汚れた床を虚しく転がる。
「……もう、限界ですわ」
マリアの声は、かつての鈴を転がすような甘さを失い、地を這うような怨嗟に満ちていた。 彼女の髪は、ぶつけられた腐った卵の残滓で固まり、あんなに自慢していた可憐な頬は、飢えと寒さで土気色に沈んでいる。
「マリア? どうしたんだい、そんな怖い顔をして……。大丈夫、公爵だっていつまでもこんなことは続けない。いつか、僕たちの愛に免じて……」
「愛? 愛、愛、愛、愛!!」
マリアが絶叫した。その声は石造りの壁に反響し、王子の鼓膜を不快に震わせる。 彼女は狂ったように笑いながら、自分のボロボロになったドレスの裾を掴み、王子に突きつけた。
「ご覧なさいな、この惨めな姿を! 宝石の一つも買えない。温かいスープすら出てこない。暗くて、寒くて、外に出れば石を投げられる! これのどこが王妃の生活ですの!? わたくしはね、殿下。隣国で贅沢の限りを尽くすリリアーナ様と同じ場所へ、あなたに連れて行ってもらうはずだったんですのよ!」
「……マリア、何を言っているんだ。君は、僕自身を愛してくれていると言ったじゃないか。リリアーナのような冷酷な女ではなく、僕の魂を理解してくれるのは君だけだと……」
「魂? 笑わせないで!」
マリアは一歩、アルフレッドに詰め寄った。その瞳には、かつて見たことのない、氷のような蔑みが宿っていた。 「殿下、わたくしが愛していたのは、あなたの背後にあった『アシュクロフト公爵家の財布』ですわ! あなたが王子でいられたのは、あのお方がお金を払っていたからでしょう? あなた自身の価値なんて、その辺に転がっている石ころ以下ですのよ!」
アルフレッドは、心臓を直接氷の楔で貫かれたような衝撃に、言葉を失った。 目の前の女は、誰だ。 自分のために、全てを捨ててついてきてくれると言った、あの可憐な少女はどこへ行った。
「婚約破棄? 聖夜の断罪? 傑作でしたわ。まさかあそこで公爵閣下が本当に席を立つなんて。わたくしはね、あのお方が折れて、わたくしを王妃として認めざるを得なくなると思っていたの。そうすれば、公爵家の富はわたくしのものになるはずだった……。でも、あなたはただの空っぽの木偶人形だった。公爵に捨てられれば、明日をも知れぬ物乞い同然になる、無能な、愛に浮かれただけの愚か者!」
「……君、は。……僕を、利用していただけなのか?」
「当たり前でしょう! 王妃になれない、贅沢もできない、食べ物すら用意できないあなたに、一体何の価値がありますの? 魂? 真実の愛? そんなもので腹が膨れると本気で信じていたんですのね。反吐が出ますわ!」
マリアはそう吐き捨てると、枕元に隠し持っていた、王宮の銀食器の数少ない生き残りを乱暴に袋へ詰め込んだ。
「待ってくれ、マリア! どこへ行くんだ、僕を置いていかないでくれ!」
「離して!」 縋り付こうとした王子の手を、マリアは力任せに振り払った。その拍子に、アルフレッドは冷たい床に倒れ込む。 「わたくしは、こんな沈みゆく泥舟と一緒に地獄へ行くつもりはありませんの。さようなら、無能な殿下。……ああ、せいぜいその『愛』とやらを抱えて、凍えて死ねばよろしいわ!」
マリアは、王子の制止も聞かずに部屋を飛び出していった。 その足音が廊下に響き、やがて聞こえなくなる。
静寂が、戻ってきた。 耳を澄ませば、遠くで門番たちが給料を求めて騒いでいる声や、王宮の備品を盗み出そうとする召使たちの罵り合いが聞こえる。
アルフレッドは、床に突っ伏したまま、動くことができなかった。 視線の先には、先ほどマリアに叩き落とされた黒パンの欠片が落ちている。 (ああ……そうか)
視界が、急激に歪んだ。 涙ではない。世界そのものが、自分の足元から崩れ去っていく感覚。 自分が信じていた「真実の愛」は、リリアーナが、そしてアシュクロフト公爵が作り上げ、維持していた「安寧」という土壌の上に咲いた、毒々しい徒花に過ぎなかった。 彼がマリアに捧げた愛の言葉も、彼女を喜ばせた宝石も、すべてはリリアーナの献身によって守られていた「王子の特権」で買い上げたものだったのだ。
それを失った今、自分には、一人の女を引き留める魅力すら、パン一切れを用意する能力すらなかった。
「……あ、ああ……」
アルフレッドの口から、獣のような嗚咽が漏れた。 彼は、リリアーナを「愛のない人形」と呼んだ。だが、本当に愛を、そして人間というものを理解していなかったのは、自分の方だったのだ。
同じ時刻。 公爵邸の図書室では、リリアーナが暖炉の焔を眺めながら、静かに本を閉じていた。
「お父様。……マリア様が、王宮から姿を消したそうですわ」
公爵は、手元のチェス盤から視線を上げ、娘に優しく微笑んだ。 「ああ。彼女は今頃、隣国の国境で、我が家の私設兵に捕縛されている頃だろう。スパイとしての『後始末』をさせなければならないからね」
公爵は、倒れたナイトの駒を、指先で弄んだ。 「王子は……今、何をしているかな」
「きっと、ご自身が選んだ『真実の愛』の重みを、噛み締めていらっしゃるのではないかしら」 リリアーナは、そっと窓の外を見た。 灰色の空の下、かつての栄光を失った王宮が、墓標のように立っている。
「……お父様は、おこですよ。リリアーナ。……でも、ようやく、彼も『代償』という言葉を覚える頃だろう」
「ええ、お父様。……もう、あの方の話は終わりにしましょう。お茶の香りが、逃げてしまいますわ」
リリアーナが淹れた新しい紅茶の香りが、部屋を満たしていく。 そこは、愛と、理知と、そして絶対的な力に守られた、揺るぎない聖域だった。
一方、暗い部屋で一人取り残されたアルフレッドは、冷え切った床の上で、マリアが残した腐った卵の臭いと、自分の無能さが放つ絶望の匂いに、ただただ、震え続けていた。
夜は、これからさらに深くなる。 そして二度と、彼のために朝日が昇ることはない。
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