【第6話:マリアの正体と、冷めた瞳】

【第6話:マリアの正体と、冷めた瞳】


王宮の夜は、かつて星空を地上に引き降ろしたかのような輝きを誇っていた。 しかし今、廊下に並ぶ魔導灯の火影は、断末魔の喘ぎのようにチカチカと震え、一つ、また一つと闇に呑まれていく。石造りの壁は、熱源を失ったことで芯から冷え込み、吐き出す息は白く、湿った冬の夜気を孕んでいた。


カツ、カツ、という乾いた足音が、静寂の極みに達した王宮の最深部、国王の私室へと近づく。 扉が開くと、そこには暖炉の消えた暗がりのなか、毛布にくるまり、脂汗を流して震えるエドワード国王がいた。


「……アシュクロフト、公爵か」 国王の声は、もはや威厳の欠片もない。


公爵は、暗闇のなかでも一切の迷いなく足を進め、国王の対面に腰を下ろした。彼が指先で軽く卓を叩くと、隠し持っていた携帯用の小さな魔導灯が、冷徹な青白い光で室内を照らし出す。


「陛下。お加減はいかがですか。……といっても、もはや処方する薬を買う金も、薬師を呼ぶ信用も、この王宮には残っていないようですが」


「何をしに来た……。嘲笑いに来たのか。それとも、トドメを刺しに来たのか」


「いえ。陛下には、王族としての『最後の義務』を果たしていただこうと思いまして」


公爵は懐から、一通の厚い封筒を取り出した。 その表面には、公爵家の秘密諜報網「影の目(シャドウ・アイ)」の封蝋が押されている。国王が震える手でそれを受け取り、中身を引き出した瞬間――彼は、肺から空気が漏れるような音を立てて絶句した。


「……これは……どういう、ことだ……」


「マリア・ベレット。男爵令嬢という肩書きは偽造。正体は隣国ヴォルガ帝国の軍事諜報員――コードネーム『誘い鳥』。没落した地方貴族の娘を買い上げ、数年にわたって『愛されヒロイン』の教育を施された、毒の塊ですよ」


国王の目が、暗闇の中で激しく彷徨う。 「そんな……あ、アルフレッドは、あの子が……自分の魂の片割れだと……」


「ええ、そのように教育されていますから。彼女の目的は、王家と我が公爵家の離間。そして、この国の経済基盤であるアシュクロフト家の資産を、王家という『器』を通じて隣国へ流出させることでした。……もっとも、彼女にとっての誤算は、我が家が『離間』された瞬間に、王家を支えるのをやめて、そのまま圧し潰すという選択をしたことでしょうが」


公爵の声は、どこまでも事務的だった。 「彼女は今、王子の部屋で、王家の秘密金庫の鍵のありかを探っていますよ。……ああ、無駄な努力ですがね。金庫は既に、我が家の私設兵が中身ごと『保全』させていただきました」


国王は、頭を抱えて呻いた。 「……息子に、アルフレッドに伝えてくれ。あの子は、騙されているんだ! 愛などではなかったと……!」


「いいえ」


公爵が、初めて短く、冷たい拒絶を口にした。 「お教えしませんよ、陛下。……あのような塵に、我が娘は『真実の愛がない、冷酷な人形だ』と公衆の面前で罵られた。ならば、その報いは受けねばならない」


公爵はゆっくりと立ち上がり、暗闇のなかで目を細めた。 「アルフレッド殿下には、最後まで信じさせておきましょう。自分が全てを捨てて選んだものが、ただの『偽造されたプログラム』だったという絶望は、彼が地獄に落ちる瞬間のスパイスとして取っておくべきです」


「……お前は、悪魔か……」


「父親ですよ。陛下。……さて、灯りが消えます」


公爵が指を鳴らした瞬間、予備の魔石すら尽きたのか、王宮の照明が完全に途絶えた。 窓の外から差し込む月光だけが、葬儀の布のように青白く室内を照らす。


一方、王子の私室。 アルフレッドは、冷え切ったベッドの上で、隣に座るマリアの肩を抱いていた。


「……マリア。寒いだろう。だが、もう少しの辛抱だ。私は父上に直訴した。愛を貫けば、いつか世界は理解してくれるはずだと」


「……ええ。殿下。わたくしも、信じておりますわ」


マリアの声は、どこか空ろだった。 彼女は王子の胸に顔を埋めながら、その指先は、王子の首から下がっている宝物庫の鍵を、値踏みするように撫でていた。 (……チッ、この男、本当に何も持っていない。アシュクロフト家が手を引いただけで、これほどまでに無価値な空箱になるなんて) マリアの瞳には、かつての可憐な光など微塵もなかった。そこにあるのは、獲物を仕留め損ねた工作員の、冷酷な焦燥だけだ。


「マリア。君の温もりだけが、今の私の救いだ。……君だけは、私を裏切らない。そうだろう?」


アルフレッドは、縋るように彼女の頬を撫でる。 マリアは、暗闇をいいことに、王子の顔を見ずに冷たく口角を上げた。


「もちろんですわ、殿下。わたくしたちの愛は……『本物』ですもの」


その言葉の裏側で、彼女は「いつ、この男を捨てて国外へ逃げるか」という損得勘定だけを繰り返していた。 アルフレッドはその冷えた唇に、感謝の接吻を落とす。


パキッ、と。 窓の外で、凍てついた木の枝が折れる音がした。


それは、王家という巨木が、その根元から腐り落ち、自重で崩壊していく音そのものだった。 王宮の深い闇のなか、アルフレッドだけが、偽りの愛という名の「底なし沼」に、喜んで足を踏み入れ続けている。


公爵邸の窓辺で、リリアーナは暗い王宮のシルエットを眺めていた。 彼女の手元には、かつて王子から贈られた、しかし一度も身につけることのなかった安価なブローチがある。


「お父様。……今夜は、本当に暗いですね」


帰宅した公爵は、娘の肩にストールをかけ、背後から優しく微笑んだ。 「ああ。だが、あそこには『真実の愛』という、光り輝くものがあるはずだよ。……消えることのない、地獄の火のようにね」


リリアーナは、その言葉を理解し、満足そうに瞳を閉じた。 明日の朝、王宮の門が開くとき。 そこに残っているのは、愛を語る亡霊と、灰になった国の残骸だけだろう。


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