【第5話:世論の毒、愛の賞味期限】

【第5話:世論の毒、愛の賞味期限】


王都の朝は、かつてはパン屋の香ばしい匂いと活気に満ちていた。 しかし今、街を支配しているのは、焦燥という名の悪臭と、冷たい霧のような殺気だった。


「おい、これを見ろ! また値上げだ!」 「違うぞ、値上げじゃない。店そのものが閉まってるんだ。アシュクロフト商会が卸してくれないからってよ!」


広場に集まった民衆の手には、今朝発行されたばかりの『王都時報』が握られていた。アシュクロフト公爵が筆頭株主を務める、国内最大の新聞だ。 その一面には、扇情的な見出しが躍っていた。


【聖夜の裏切り:王子の放蕩が招く国難。アシュクロフト公爵家、王家との絶縁を決定】 【愛のために国を売るのか? 謎の令嬢マリア、王室費を私物化の疑い】


記事には、リリアーナがいかに献身的に国を支えてきたか、そして王子がそれをいかに無残に踏みにじったかが、緻密かつ「事実に基づいた悪意」をもって綴られていた。 文字は黒々と、まるで呪いの言葉のように民衆の脳裏に焼き付いていく。


「リリアーナ様がいなくなったせいで、俺たちの仕事がなくなったんだ!」 「あのマリアとかいう女、宝石店でツケを断られたって聞いたぜ。俺たちの税金で着飾ろうとしてたんだ、あの泥棒猫め!」


民衆の怒りは、形のない「経済」ではなく、具体的な「対象」を求めていた。 公爵は、その矛先を正確に、王子とマリアへと向けさせたのだ。


同じ時刻、王宮の裏門。 アルフレッド王子は、マリアを連れてお忍びで街へ出ようとしていた。 王宮の空腹と寒さに耐えかねたマリアが、「せめてお城の外で美味しいものを食べさせてください」と泣きついたからだ。 だが、二人が一歩外へ出た瞬間、空気の質が変わった。


「……あ、あれ、王子じゃないか?」


一人の荷運びの男が指を差した。 瞬く間に、人々が群がってくる。かつての敬愛の眼差しではない。それは、食い扶持を奪われた獣が、獲物を囲い込む時の目だった。


「殿下! どうしてくれるんだ! 俺の息子は、公爵様の奨学金が止まって学校へ行けなくなったんだぞ!」 「あんたの『真実の愛』のおかげで、うちの暖炉は空っぽだ! 責任を取れよ!」


アルフレッドは狼狽し、マリアを背中に隠した。 「控えろ! 私は王子だぞ! 一時的な混乱だ、すぐに父上が収めてくださる!」


「王子? 笑わせるな! 公爵様に見捨てられた王族に、何の価値があるんだ!」


その時、一人の女がマリアを見つけ、叫んだ。 「お前だろ! リリアーナ様を追い出した色ボケ令嬢は!」


「ひっ……!」 マリアが悲鳴を上げるのと同時だった。 ベチャリ、という不快な音とともに、マリアの着ていた薄ピンク色のドレスに、腐った卵がぶつけられた。 鼻を突く硫黄のような悪臭。ドロリとした黄身が、かつて王子が「真実の輝き」と称えた彼女の髪を汚していく。


「やめて! 私は、私はただ殿下に愛されているだけで……!」


「愛だぁ? そんなもんで腹が膨れるかよ! 食らえ!」


今度は泥水が飛んだ。マリアの顔は汚れ、震える唇からは「愛」などという言葉は、もはや一欠片も出てこない。 アルフレッドは必死に彼女を庇おうとしたが、彼自身にも民衆の罵声と、硬いパンの欠片が投げつけられる。


「愛があれば何もいらないんだろう? だったら、俺たちの怒りも愛で耐えてみせろよ!」


公爵邸。 窓の外に広がる、怒れる民衆の喧騒を遠くに聞きながら、公爵はチェスボードの駒を一つ、静かに進めた。


「お父様。……少し、やりすぎではありませんか?」 リリアーナが、焼きたてのアップルパイを切り分けながら、穏やかに問いかけた。 その言葉とは裏腹に、彼女の瞳には微塵の同情も浮かんでいない。


公爵は、眼鏡を指先で上げ、娘を慈しむように見つめた。 「リリアーナ、これは教育だよ。あの王子は『愛さえあれば、権力も資産もいらない』と言い切った。私はただ、彼のその願いを尊重しているだけだ」


公爵はパイを一口運び、その完璧な甘さに満足げに頷く。 「人は、満たされている時に語る『愛』が、いかに傲慢で壊れやすいかを知るべきだ。彼は今、その賞味期限が切れた瞬間を味わっているのさ」


執事が部屋に入り、深々と頭を下げた。 「閣下。王子とマリア嬢、民衆に囲まれ、這々の体で王宮へ逃げ帰ったとのことです。マリア嬢は、過呼吸を起こしているとか」


「そうか。……お父様は、おこですよ。リリアーナ」 公爵は、駒を一つ取り上げた。王子の象徴である「ナイト」の駒だ。 「彼は、自分の『愛』の代償を、この国の民全員に払わせようとした。ならば、その民全員から、愛の不履行による損害賠償を請求されるのは当然の理屈だ。……リリアーナ、あのような塵のことはもういい。明日は、新事業の式典だね。君が新しい時代の主役だよ」


「ええ、お父様」


リリアーナは、甘いパイの香りに包まれながら、静かに微笑んだ。 王宮の闇のなかで、腐った卵の臭いに震えるマリアと、無力な「愛」を叫び続ける王子。 二人の愛の賞味期限は、公爵がグラスを置いたその夜に、すでに切れていたのだ。


世界は、もはや彼らの言葉を聴かない。 聞こえてくるのは、凍えた民衆の怒号と、崩壊していく王家の軋みだけだった。


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