【第4話:空っぽの国庫と、震える国王】

【第4話:空っぽの国庫と、震える国王】


王宮の空気は、今や冷気を通り越して、死臭に近い停滞感に満ちていた。 廊下を走る文官たちの靴音は、いつになく荒く、そして卑屈に響く。アルフレッド王子が宝石店での屈辱を抱えたまま玉座の間へ辿り着くと、そこには「統治」という名の虚像が崩壊していく光景が広がっていた。


「……陛下、もう限界です。アシュクロフト家が担っていた徴税業務が完全に停止しました。地方領主たちは『公爵閣下の保証がないなら、王都へ税を運ぶ護衛が出せない』と、納税を拒否しております」


「近衛騎士団からも退職願が相次いでおります!『給与を公爵家の銀行に差し押さえられた。これでは家族が路頭に迷う。公爵家の警備隊へ転職する』と……!」


玉座の間に響くのは、悲鳴にも似た報告の数々。 中央に座るエドワード国王は、昨夜から十歳は老け込んだように見えた。その手は、手入れの行き届かない暖炉のせいで紫に変色し、ガタガタと震えている。


「……来たか。アルフレッド」


国王の声は、地を這うように低かった。 アルフレッドは胸を張り、精一杯の威厳を保とうとする。背後には、街で置いていかれたはずのマリアが、結局のところ「ここしか行く場所がない」という顔をして、王子の陰に隠れていた。


「父上。公爵の横暴も極まれりです。今すぐ彼を『国家反逆罪』で捕らえ、全財産を没収すべきです! そうすれば国庫の問題など――」


「黙れ!!」


国王の怒号が、冷え切った天井に反響した。 国王は震える指で、机の上に積み上げられた「請求書」の束を王子に投げつけた。紙礫が王子の頬をかすめ、床に散らばる。


「没収だと? 誰が捕らえるのだ! 近衛も、地方軍も、その給料を払っているのはアシュクロフト家なのだぞ! お前が昨夜、たかが女一人のために、アシュクロフト公爵が置いたグラス一つで、この国の『信用』という心臓は止まったのだ!」


「しかし父上、私は真実の愛を――」


「愛で国が回るか! 愛で兵が動くか! 貴様が愛を語るたびに、王家の金庫から金貨が数万枚単位で消えていると思え!」


国王は玉座から転げ落ちるように立ち上がり、王子の胸ぐらを掴んだ。 「今すぐだ。今すぐアシュクロフト公爵邸へ行き、リリアーナ嬢の靴を舐めてでも謝罪してこい。婚約破棄を撤回し、公爵の怒りを鎮めるのだ。さもなくば、明日には我々は、この城から追い出される物乞いになる!」


アルフレッドは絶句した。 隣でマリアが、怯えたように王子の袖を引く。アルフレッドの脳裏に、宝石店での店主の冷ややかな目と、マリアの「約束が違う」という言葉が蘇る。 ここでリリアーナに頭を下げれば、自分は「真実の愛」を捨てた卑怯者になる。それは、王子としての最後の矜持すら失うことだ。


「……お断りします」


「何だと?」


「私は、愛を売ることはできません。リリアーナのような冷酷な女に屈するのは、王家の誇りを捨てることです。父上、どうか、真実の愛の尊さを……」


国王は、掴んでいた手をゆっくりと離した。 その瞳から、親としての情が完全に消え失せるのを、アルフレッドは確かに見た。 「……そうか。愛か。ならばその愛で、今夜の飢えを凌ぐがいい」


同じ時刻。 アシュクロフト公爵邸のサンルームには、王宮の地獄が嘘のような、春めいた光と芳醇な香りが満ちていた。


リリアーナは、最高級の茶葉を用いたアールグレイの蒸気に、そっと目を細めた。 テーブルの上には、王宮の「崩壊報告」ではなく、数枚の新しい図面と契約書が広げられている。


「お嬢様。新しく設立する『アシュクロフト総合物流機構』の認可証でございます。王家を通さず、我が家が直接、各領主と貿易を行うための書類が整いましたわ」


専属の侍女が、にこやかに報告する。 リリアーナは羽ペンを手に取り、流麗な署名を書き入れた。


「ええ、ありがとう。王家という『不効率な仲介役』がいなくなるだけで、こんなにもスムーズに事が運ぶなんて。婚約破棄されて、本当に清々したわ」


「お嬢様、お疲れのところ申し訳ありません」 そこへ、執事が一枚の報告書を持ってきた。 「先ほど、王宮の近衛騎士団の三割が、我が家の私設警備隊への再就職を求めて門前に集まっております。いかがいたしましょうか?」


リリアーナは、焼きたてのスコーンにたっぷりとクロテッドクリームを乗せながら、楽しげに首を傾げた。


「能力がある方は歓迎してあげて。ただし、王宮の腐った空気に染まっている者は、一度開拓地で根性を叩き直すのが条件よ」


「畏まりました」


そこへ、公爵がゆっくりと姿を現した。 彼は娘の隣に座り、差し出された紅茶に口をつける。その表情は、愛する娘を眺める優しい父親そのものだ。


「リリアーナ。……先ほど、王宮から使いが来たよ。王子が『真実の愛のために、謝罪はしない』と宣言したそうだ」


「まあ。期待を裏切らない愚かさですわね、お父様」


リリアーナは、クスリと笑った。 「愛さえあれば、権力も資産もいらない。……あの方は、自分が望んだ通りの人生を歩み始めただけ。私たちは、その望みを叶えて差し上げただけですもの」


「そうだね。……お父様は、まだ少し『おこ』だけれどね。でも、彼が自慢の愛を抱えたまま、一文無しの平民として泥の中を這いずり回る姿を想像すると、少しだけ機嫌が直りそうだ」


公爵は、窓の外で震える王宮の塔を、冷徹な目で見つめた。 「明日の朝には、城の門番すら、給料を求めて我が家の門を叩くだろう。王家というシステムは、明日、沈没する」


リリアーナは、最後の一口の紅茶を飲み干した。 五感を満たす温かさと、確信に満ちた未来の計画。 彼女は、かつて自分が王妃として守ろうとした「国」が、今は自分の足元で新しい形に生まれ変わろうとしているのを感じていた。


「お父様。……明日は、美味しいアップルパイを焼きましょうか」


「ああ、いい。……とても、いい一日になりそうだ」


冬の太陽が、公爵邸の豊かな庭園を照らしている。 そこには、寒さに震える者も、泥を啜る者もいない。 理知と、力と、そして娘への愛。 それだけが、この新しい世界のルールだった。


一方、王宮の冷えた広間では、アルフレッドが「愛」という名の虚しい言葉を繰り返し、誰にも届かない演説を続けていた。 彼の足元では、王家の誇りを象徴する絨毯が、煤と寒さで黒ずんでいく。


世界は、もはや彼を「王子」とは認識していなかった。


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