【第3話:ツケの効かない宝石店】

最高の評価と、さらに物語を冷徹に研ぎ澄ますための調整案をありがとうございます。 「裏切ったのではなく、最初からそういう条件だった」「社会的死とは信用の消失である」という本質を、より残酷なコントラストで描き出しました。


ご提案いただいた「約束と違うのは嫌い」というマリアの突き放し、そして「金が足りないだけだ」という王子の滑稽なまでの無知。これらを加え、第3話の決定版を全文改稿いたします。


第3話:ツケの効かない宝石店

王宮を這い出すようにして街へ出たアルフレッド王子は、鼻を突く馬糞の匂いと、行き交う人々の放つ冷ややかな熱気に目眩を覚えた。 王宮の冷えた石造りの静寂とは異なる、喧騒という名の疎外感。 隣を歩くマリアは、毛皮の襟巻きをきつく握りしめ、不機嫌を隠そうともせずに唇を尖らせている。


「殿下ぁ、わたくし、指先が凍えてしまいそうですわ。あんな埃っぽくて暗いお城へ戻るくらいなら、いっそどこか暖かい場所へ……」 「分かっている、マリア。まずはこの街で一番の宝石店、『シュタイン』を訪ねよう。あそこの店主は私の馴染みだ。君に相応しい、最高の輝きを贈るよ。それで機嫌を直しておくれ」


アルフレッドは無理に明るい声を出した。 彼にとって、王家の名は無限に引き出せる金貨の山と同じだった。昨日までは――いや、数時間前までは、そうだったのだ。


店構えからして格式の違う宝飾店『シュタイン』の扉を開けると、暖炉の柔らかな熱気と、磨き抜かれたショーケースが放つ光が二人を迎えた。 アルフレッドは安堵の息を漏らす。そうだ、ここにはまだ、自分の知っている「文明」がある。


「おお、店主。久しぶりだな」 「……これは。アルフレッド殿下、でございますか」


カウンターの奥から現れた店主の顔には、いつもの揉み手のような卑屈な笑みがなかった。 その瞳は、まるで鑑定ルーペで傷物の石を見定めているかのように、冷たく、乾いている。


「マリア、好きなものを選びなさい。ここの店主は、私の顔を見るだけで最高の品を奥から出してくるんだ」 マリアは宝石の輝きに、ようやく瞳を潤わせた。 「まあ! 殿下、わたくし、あのショーケースの真ん中にある、雫のようなサファイアがよろしいわ!」


「いいとも。店主、あれを出せ。支払いはいつも通り、王宮へのツケだ」


アルフレッドが当然のように告げたその瞬間、店主は一歩も動かず、ただ静かに首を振った。


「申し訳ございませんが、殿下。それは致しかねます」


「……何だと?」


「今朝、アシュクロフト公爵家より通達がございました。『王家に対する一切の信用保証を、昨夜をもって解除した』と。当店の運営資金を融通してくださっているのは公爵家の銀行でございます。保証のないツケ払いは、私のような小商いにはあまりに重いリスクでございますよ」


「馬鹿な……! 王家の信用を、公爵一人の一存で消せるわけがないだろう!」


アルフレッドの怒鳴り声が、静かな店内に響き渡る。 しかし店主は眉一つ動かさず、むしろ憐れみを含んだ視線で王子を見据えた。


「殿下。貴方は『信用』という言葉の意味をご存知ないようだ。昨日まで貴方が王宮のツケで宝石を買えたのは、貴方が王子だからではない。アシュクロフト家が、『もし王家が払えなければ、我が家が肩代わりする』という保証(クレジット)を市場に示していたからに過ぎません」


店主は、カウンターの上に置かれた分厚い顧客台帳をパタンと閉じた。その乾いた音は、王子の社会的寿命を告げる弔砲のようだった。


「公爵閣下がグラスを置かれた。……それは、この街の商文化において『王家の財布は空になった』という合図なのです。これより先、当店では王族の方であっても、現金の先払い以外は一切お断りしております」


「無礼な! ならば金貨で払ってやる! たまたま今は持ち合わせが足りないだけだ!」 アルフレッドは腰の革袋に手を伸ばした。だが、指先に触れたのは、数枚の金貨と、数え切れないほどの端金だけだった。 (金が足りないだけだ。信用がないわけじゃない……そうだ、一時的な手違いなのだ) 彼は自分に言い聞かせるが、その震える指先は真実を理解していた。


「そのサファイアは金貨五百枚でございます。殿下、その袋の中身では……箱代にも足りませんな」


マリアの顔から、急速に血の気が引いていく。 彼女が愛していたのは「自分に宝石を贈れる王子」であって、財布を覗き込んで立ち尽くす「ただの男」ではない。


「……殿下。冗談でしょう? わたくし、こんなに惨めな思いをするために、貴方についてきたわけではありませんのよ。殿下、わたくし、約束と違うのは嫌いですの」


「マリア、少し待ってくれ。これは何かの間違いだ。公爵が……あの男が、根回しを……」


「根回しなどという生易しいものではございません、殿下」 店主が、窓の外を指差した。 「ご覧なさい。向かいの仕立て屋も、隣の馬車屋も、アシュクロフト家の紋章が入った『保証打ち切り』の看板を掲げ始めています。今、この街で貴方に物を売る人間は一人もおりませんよ」


アルフレッドは、ふらつく足で店の外へ出た。 空はどんよりと曇り、冷たい風が王子の頬を刺す。 マリアは数歩後ろで、まるで汚物を見るような目で彼を見ていた。


「……殿下。わたくし、お腹が空きましたわ。でも、きっとレストランも同じなのでしょうね。『真実の愛があれば、何もいらない』。……昨日、殿下はそう仰いました。でも、今のわたくしには、愛よりも温かい暖炉と、泥の味がしないスープが必要ですの」


マリアはそう言い捨てると、一人で反対方向へ歩き出した。 アルフレッドがその背中を追おうとした時、一台の黒塗りの馬車が、音もなく彼の横を通り過ぎた。


窓がわずかに開いており、そこからアールグレイの芳醇な香りが一瞬だけ漂う。 馬車の中には、アシュクロフト公爵が座っていた。 彼は、窓の外に立ち尽くす「かつての第一王子」など、路傍の小石を見るような視線さえ向けず、ただ淡々と書類に目を通している。


公爵の指先が、流麗な動作で万年筆を動かし、王家の名を冠した一つの契約書に、無慈悲な「取消」の線を引いた。


お父様は、まだ怒っているのだ。 怒鳴らず、殴らず。 ただ、この男の周りから「文明」と「信用」を剥ぎ取り、野に放たれた獣と同じ境遇へと追い込んでいく。


「待ってくれ、マリア! 店主、もう一度話を……!」


アルフレッドの叫びは、冷たい北風にかき消された。 彼の手に残ったのは、何の価値もなくなった王家の紋章が入った革袋と、冬の寒さだけ。


世界は、静かに、そして事務的に、彼という存在を「破産」させた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る