第五章

「おはよう、今日もいい天気ね。いい日ね。千歳」


スッ。錠剤一粒。1000円一枚。

最早、千歳の報告なんてものは関係なく、当たり前のように置かれるようになった。


母親の笑顔は日々穏やかで、幸福に満ちていく。


ああ。もう、母親は。この女は。既に隠す気など、毛頭に無いのだ。


だって、千歳の指は、千歳が「嫌だ」と口にする前に、真っ直ぐに錠剤に伸びてしまっている。

伸びた指先が運ぶそれを、こんなものは飲みたくないと唇を閉ざす前に、唇が自然と開いてしまっている。

口内のそれを毒だと吐き出す前に、喉がゆっくりと嚥下してしまう。


よく分からない感情からくる生理的な涙を浮かばせる千歳とはよそに、母親は背中を向けて鼻歌を口ずさみながら皿を洗っている。


自分の意思とは裏腹に真っ直ぐに家に帰るようになった千歳から、「退屈だ」と友達は離れていった。


ブブッ。千歳のスマホが振動して、LINEをスワイプする指の先に、『ごめん、最近のお前キモい、もう無理』。

気まずそうにカメラから視線を逸らす彼氏と、勝ち誇った女の顔をする友達。


…千歳が夜遊びをする理由は完全に途絶えた。


なのに、指がブロックボタンへ伸びない。

だって、今の千歳はこの現実に怒りすら覚えない。


千歳の身体は日々、“いい子”に染まっていく。


「………最低」


最早、誰に向けたものかも分からない苦味に満ちた千歳の一言が落ちて。


ピタリ、鼻歌が止まる。


振り返った母親の顔は…慈愛と支配に満ちていた。


「千歳…ずーっとずっと、いい子で居ようね。ずーっとずっと…」


“お母さんと一緒に居ようね”


揺りかごを揺らすみたいに優しい、優しい母親の声は。

甘い、甘い、澱のように千歳の胸を重く満たしていく。


いやいや、と迷子のように、覚束ない幼子のように千歳の首が弱々しく振られて。直ぐに動きを止める。


一瞬。息を吸う間の一拍だけ沈黙が落ちる。


そして。


ふふ。


千歳の知らない千歳の笑い声が、リビングに響いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一粒、千円。 黒猫280号 @kuroneko280

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画