第三章

1日サプリ1粒=1000円。

たったお札1枚。されどお札1枚。


千歳の毎日が派手に変わったわけではなかったが、以前よりも自由に遊べるようになったのは確かだった。


けれど、それから少し経って。


「は? お前今日遊べないって言ったじゃん。普通にダチと遊ぶ約束しちゃったけど」


また、だ。


放課後、彼氏とのデートを楽しみにしていた千歳が、そのまま男友達と横を素通りされかけて慌てて呼び止めたところで、「お前が言ったんだろ」と不審そうに言われて、千歳は面食らった。


言ってない。


そんなこと、千歳は言った覚えがない。彼氏とは最近付き合い始めたばかりだし、倦怠期で気まぐれで断ったとかではなくて。本当に記憶だけが丸ごとすっぽ抜けているのだ。


ぽっかりと、その時間だけ穴が空いたみたいに。


しかも、これが初めてではない。


最近、3回に1回はこんなことが起きるし、その度に軽さはその都度異なれど、言った言ってないの小競り合いが起きるものだから、最近は友達からも少し距離を置かれてしまっているのが事実だった。


彼氏とは今日が初めてだったからいいようなものの、こんなことが続けば彼氏とも心の距離が空いてしまうかもしれない。今の彼氏は千歳が今まで付き合ってきた中で一番のイケメンだったし、エッチの相性だっていい。別れ話の展開に直結するのは、御免被りたかった。


「あら、おかえりなさい千歳。今日も早かったわね」


「……」


千歳が、自分の意思とは関係なく、まるで誰かに塗り替えられるみたいに記憶がぽろりと零れだす事態に苛立ちを募らせる日々とは裏腹に、皮肉にもそのことで帰りが早くなった娘に、母親の機嫌はこのところ、すこぶる良かった。


何がそんなに嬉しいのか。自分の娘が毎日を楽しめなくなっているというのに、そんなに楽しそうににこにこと笑って、なんて親だ。普段、親を親とも思ってないくせに自分勝手に苛立ちを募らせながら、千歳はただいまを返さずにため息をつく。


そんな千歳を意に介した様子もなく、


「お腹すいたでしょ、鞄置いて着替えてらっしゃい。それから、今日も飲むでしょ?」


弾んだ声で言われて。


カッ、と千歳の頭に血が上る。


そして、バンッ!! と床に鞄を降ろして、こっちの苦しみも痛みも分からないくせにと、目の前の女の胸倉を掴んで文句を言おうとして……。


「……千歳?」


ハッとする。


振り上げたはずの鞄は片手に、胸倉を掴んだはずの手は、千歳の横で拳を握っていた。


目前で、母親が笑っている。うっそりと。


千歳の身体が、千歳に逆らった。まるで“他人が千歳の身体に馴染んでいくみたいに”。


何をそんな馬鹿なことを。そんなわけない。千歳にだって良心の欠片くらいあるから、情けをかけてやったに過ぎない。


「…っ、分かってるからいちいち言うなよ、ウザい!」


階段を登りながら吠える千歳の声は、しかし、確かに微かに震えていた。

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