第二章
それから数日。
「…は?」
堂々と、とっくに始業のチャイムが鳴り終わった時間に起きてきた千歳に、いつもならば目を剥いて怒る母親が妙ににこやかに朝食を並べながら告げた内容に、千歳の目は思わず点になった。
「だからね、お母さん今まで千歳に過干渉過ぎたかもしれないって反省したの。ごめんね。もう自由にしてくれていいから」
千歳が「は?」と言った内容を、にこにこと、もう一度いつもよりもずっと穏やかに話す母親に湧いたのは、安堵ではなく疑惑だった。
勿論、言われなくとも今までと変わらずに好き勝手をするつもりではあったが、あんなふうにダメダメと、過干渉を越えて束縛と言えるくらい口厳しく言ってきたのを手のひら返しするなんて、一体全体どういう風の吹き回しだろうか。
「…何、急に」
「でもね、お母さん千歳にひとつだけ、お願いがあって」
ほら来た。案の定だ。
この“女”が素直に「はいどうぞ」なんて許可の言葉をくれるわけがない。きっと勉強を少しでもしてほしいとか、進学してほしいとか優等生の条件を突きつけてくるつもりだろう。
反抗的な娘に打開策を講じたつもりだろうが、そもそも千歳は許可なんて取らずとも、これからも遊び続けるつもりだった。その手には乗るものか。
「や…」
やだ、と口を開きかけた千歳の目の前に。
コトン、と小瓶が置かれる。
小さな錠剤が、小瓶にみちみちに詰まっている。
「これをね、毎日一粒だけ飲んでほしいの。せめてね、健康ではあってほしくて。これね、一粒で一日分に必要な栄養素を取れるらしくて…それだけで、いいの」
「……」
千歳は目の前の小瓶を改めて見つめる。
一粒。これをたった一粒飲めば、あの束縛と紙一重の過干渉から解放される。
別に相手にしなければいいだけのことだが、毎回うんざりしていた小言を聞かなくて良くなるのは精神衛生的にも良かった。
千歳の心に迷いが生まれていく。
それにね。ふふ。母親の笑みが深まる。
スッ、と差し出されたのは一枚の千円札。
これは、と千歳が戸惑っていると、
「千歳が一粒飲んでくれたら、その場でお小遣いもあげちゃうわよ。いつもの毎月のお小遣いに毎日1000円プラス…嬉しいでしょ?」
…正直言って、嬉しい。それに、実際問題助かる。
千歳の物欲は若いだけあって旺盛で、毎月のお小遣いでは足りない面もあった。だから、サプリメントを一粒飲むだけで1000円、は文字通り“美味しい”。
「…本当にくれるの?」
「信じられないなら、早速飲んでみて。この1000円があなたのものになるわよ」
千歳の迷いは一瞬だった。こんな小さい粒ひとつ飲むだけでいいなら。
小瓶を開けて、手のひらの上に乗せて。
ごく、ん。
朝食と一緒に用意されたグラスのオレンジジュースで流し込む。果汁の味しかしないあたり、無味無臭といったところだろう。
そして、母親の気が変わらない内に、とまるで引ったくるようにテーブルの上の札に手を伸ばしても、母親はただ笑顔のままだった。
「…お願いね、千歳。毎日、必ず、一粒」
「飲む場所も飲む時間もいつでもいいわよ。千歳が飲んだって教えてくれたら、すぐにお小遣い渡すわね」
付け足された一言、二言に千歳はまだ半信半疑のまま「分かってる」と応える。
母親の気が変わらないうちにと急いで二階へ、自分の部屋に戻っていく千歳は、すっかり目の先の欲に夢中で気付かなかった。
笑顔の母親の目がすっかり笑っていなかったことに。
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