File No.01225:呪遺物『繭の対針』 ―― 共喰い

【極秘資料:深層ウェブ『呪詛行使掲示板 通称:葬線はふりせん』へのアクセス記録】

 一般的なブラウザからは到達不能な深層Webに存在する、呪遺物の「所有者」たちの互助Webサイト。

 ここでは情報の対価として、己の「呪いの進行状況」をアップロードすることが義務付けられている。


「繭の対針」の所有者による最終書き込みは16年前。その書き込みは、「私たちはもう、個別の個体であることを辞めた」という言葉で締めくくられていた。



 ◇◆◇



 ――12月26日。


 陽が沈んだ暗い部屋の中に、青白い液晶の光だけが、深海に差し込む月光のように揺れていた。


 湊の膝の上に、結衣がその小さな身体を預けるようにして座っている。


 二人の心臓は、今日もまた、1メートルの死線を越えた零距離で、互いの鼓動を等しく分け合っていた。


 湊の細い指がキーボードを叩くたび、乾いたプラスチックの音が、静寂を侵食していく。


 あの日、呪いの糸を拾い上げた瞬間に脳髄へと流れ込んできた、濁流のような他者の記憶。


 その断片の中に隠されていた「入り口」を、湊は執念深く手繰り寄せていた。


 やがて、画面の中央に、血の通わない無機質な文字列が浮かび上がる。



【非公式 呪詛行使掲示板:葬線(Hafuri-Sen)】


 現在閲覧者数:10名(うち行使者確定:10名)


【重要:利用規約】

 本サイトへのアクセスは、呪詛に侵食された個体に限定されます。


 アクセス継続の条件として、24時間に一度、自身の[侵食深度]および[生理的変容]をログに記録すること。


■ 呪詛インデックス(一部抜粋 / 未報告案件多数)

【白溢(Haku-Itsu)】:登録数 1 状態:危険。犠牲者の肺から「体液」を検出。


【紅綴(Beni-Tsuzuri)】:登録数 1 状態:不変。1mの死線。詳細不明。


【名称不明(未定義:05)】:登録数 1 状態:犠牲者を検出。詳細求む。


【名称不明(未定義:08)】:登録数 1 状態:犠牲者を検出。詳細求む。


「……これ、は」


 結衣の唇から、驚愕を孕んだ吐息が漏れた。


 湊の肩に回された結衣の手が、無意識のうちにその白皙の肌を強く握りしめる。


 画面に刻まれた【紅綴べにつづり】の文字。


 それは、今この瞬間も二人の骨を穿ち、心臓を一つに縫い合わせている呪いそのものの名であった。


 湊は何も答えず、ただ冷徹な瞳で画面をスクロールしていく。


 そこには、自分たちが唯一無二の悲劇の主人公ではないという、残酷な事実が並んでいた。


 怪異という巨大な胃袋に飲み込まれた先人たちが、死の間際まで書き連ねた、排泄物のような絶望の記録。


 湊の脳裏に、あの日流れ込んできた記憶の濁流が、再び鮮明な色彩を持って蘇る。


 あの時見えた、見知らぬ女の泣き顔や、血の混じった汗の匂い、そして終わりのない雨の音。


 それらは幻想ではなく、このサイトに集った「呪詛行使者」たちが、実際に味わった苦悶の残滓であったのだ。


「見て、結衣。アーカイブのところに……」


 湊の指先が、パスワード入力を要求する暗い窓を指した。


 すぐに「識別完了」の文字。


『紅綴』の行使者である湊たちにのみ開かれた、禁忌の頁。


 そこには、かつて二人が糸を介して視た、あの凄惨な記憶の「原典」が鎮座していた。


■ アーカイブ:過去の呪詛行使者の日記

 閲覧制限あり:同一の呪詛行使者でなければアクセスできません。


[2009/01/26]

 もう、彼女の排泄する音を聞きたくない。最初は、その音すら「生きている証」だと愛せたのに。今は、彼女が内臓を動かす音、血が流れる音、そのすべてが私の尊厳を泥靴で踏みにじっていく。

 愛とは距離だ。距離のない愛は、ただの腐敗した共喰いだ。



 結衣は息を呑み、画面から顔を背けるようにして湊の首筋に顔を埋めた。


「嫌……これ、私たちが視た記憶と、同じ」


 結衣の震える声が、湊の鎖骨を微かに震わせる。


 日記の主は、かつての『紅綴』に呪われた二人。


 今の自分たちと同じように、1メートルという地獄の境界を歩き、最後には互いを憎み抜いて死んでいった魂。


 湊の指が、結衣の柔らかな髪を掬い上げる。


 愛とは距離だ、という一文が、湊の胸を鋭利なナイフのように刺し貫いた。


 今はまだ、結衣の体温も、その甘い呼吸の音も、自分を救う唯一の聖域である。


 だが、この呪いの終着駅が「共喰い」であるならば。


 いつか自分も、結衣が立てる些細な物音に殺意を抱き、その存在そのものを汚泥のように忌避する日が来るのだろうか。


 湊の瞳に、暗い影が差し込む。


 その時、リアルタイムで更新され続けるチャット欄の隅に、一つの書き込みが静かに、だが執拗に明滅を繰り返した。


115:匿名(侵食度:不明)

 もし、この地獄を終えたい者がいるのなら。解呪の方法を、共に探さないか。

 興味があるなら、指定の場所へ。


「……解呪、方法?」


 結衣が顔を上げ、すがるような瞳で湊を見つめた。


 その瞳には、恐怖と、それ以上に抗いがたい希望の光が宿っている。


 湊は細い眉を寄せ、画面の書き込みを、まるで猛毒の這い跡を見るような目で見つめ返した。


「結衣、落ち着いて。これは、顔も見えない誰かの誘いよ。同じ行使者だという保証さえない。私たちの脆弱な精神に付け込んで、別の呪いに引き摺り込む罠かもしれないわ」


 湊の声は氷のように冷たく、理知的であった。


 管理者さえ存在しないこの掃き溜めで、見ず知らずの他者が差し伸べる手など、死神の鎌と何ら変わりはない。


 だが、結衣の心は、すでに過去の行使者が遺したあの「共食い」の予感に支配されていた。


「でも、湊。私は……貴女を嫌いになりたくないの」


 結衣の指が、湊のパジャマの胸元を強く、千切れるほどに掴む。


「今のままじゃ、いつか絶対に、さっきの日記みたいになる。湊が私のことを汚いって思って、私が湊の息の音さえ憎むようになる。そんなの、死ぬよりずっと怖い……お願い、湊」


 結衣の目から、一筋の涙が零れ落ち、湊の肌を濡らした。


 呪いによって深まった絆が、呪いによって汚されていくことへの根源的な恐怖。


 湊は、結衣のその熱を、自分の内側に流れ込む他者の恐怖を、拒絶することができなかった。


 湊にとって、今のこの閉鎖的な共依存は、一種の救いでもあった。


 誰にも邪魔されず、1メートルという絶対的な圏内で結衣を所有し続けられる。


 他者を招き入れることは、その完璧な「二人だけの世界」に、致命的な亀裂を入れることに等しい。


「……今は、決められないわ」


 湊は静かにPCの画面を閉じ、部屋を完全な闇へと沈めた。


「今夜、ゆっくり考えましょう。ベッドの上で、貴女の心臓の音を聴きながら」


 湊は結衣の細い腰を抱き上げ、寝台へと導いた。


 1メートルの死線が、二人を物理的に密着させることを強いる。


 布団の中で重なり合う肌は、不自然なほどに熱く、滑らかであった。


 湊の指先が、結衣の鎖骨の下、あの銀の針が穿たれた痣の周りを、愛おしそうに撫でる。


 結衣は小さく喘ぎ、湊の首筋に歯を立てた。


 それは愛の証か、あるいはいつか訪れる「共食い」の予行演習か。


 湊は、結衣の迷いを、その涙を、すべて自分の舌で掬い取り、思考を白濁させていく。


 結衣の指が、湊の背中に爪を立て、絶頂への階段を二人で駆け上がる。


 湊の意識が快楽の淵で弾け、真っ白な光の中に溶けていく瞬間。


 耳元で聞こえた結衣の、途切れ途切れの、だが確かな声。


「いこう、湊。二人で……」


 湊は、抗う術を持たなかった。


 自らが先に絶頂に達し、力なく結衣の胸に顔を埋めたまま、湊は小さく頷いた。


「……わかったわ」


 明日、二人はあの日記が予言した絶望から逃れるために、未知の深淵へと足を踏み出す。


 それが救いなのか、あるいはさらなる呪詛への招待状なのかを、今はまだ、誰も知らない。



 ◇◆◇



【File No.00003:呪遺物『紅綴』における「対話」の記録断片】

 それは、絶望の果てに生じる、最も甘美な毒である。1メートルの檻に閉じ込められた依代たちは、やがて等しく、外部への「救い」を渇望し始める。


 しかし、忘れてはならない。この呪いにおいて、二人の間に他者が介在する余地など、最初から残されてはいないのだ。


 かつて、ある行使者は解呪を謳う「声」に従い、人里離れた廃屋へと辿り着いた。そこで彼女が目にしたのは、救済の儀式ではなく、さらに深く、さらに歪に綴り合わされた、先代たちの成れの果てであった。


 彼らは解呪を求めて集い、そして、一つの巨大な「肉の塊」へと綴じ合わされたのである。「解呪」という言葉は、怪異が新たな餌を誘い出すための、精巧な擬態に過ぎない。愛ゆえに離れることを望み、愛ゆえに未知の手に縋る。その高潔な意志こそが、呪いの回廊をより深く、より逃れ得ぬものへと完成させていく。


 愛し合う人よ、その扉を叩いてはならない。君が求めている「出口」は、より深い胃袋への入り口に過ぎないのだから。


【備考】

 回収された端末には、最後の一行として、以下の言葉が遺されていた。『隣にいる彼女の体温が、今はただ、ひたすらに、恐ろしい』

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呪詛行使者調査報告書:紅綴 女性向けホラー&百合小説が書きたい人 @dadadada_dayo

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