File No.01225:呪遺物『繭の対針』 ―― 擬態する日常
【File No.00679:呪遺物『繭の対針』検体番号:035 ―― 解剖記録抜粋】
当該呪遺物『紅綴』によって死亡した二名の遺体を検分。
胸骨末端より刺入された骨針は、死後もなお、二人の心臓を一つの臓器であるかのように縫い合わせていた。強制的な引き離しを試みたところ、針より未知の神経伝達物質が分泌され、検死官の指先を激しく腐食させた。
この針は、もはや肉体の一部ではない。
二人の「執着」そのものが、物理的な質量を持って硬質化した成れの果てである。
◇◆◇
1メートルの死線を引き連れて、私は冬の街へと溶け出す。
築40年のマンション。
その剥げかけた外壁が、私たちの歪な共生を嘲笑うように冷たくそそり立っていた。
外出の準備。
それは、私たちにとって最も醜悪で、同時に最も官能的な儀式だった。
「……湊、手伝って。私一人じゃ、袖を通す間にあなたが死んでしまうわ」
結衣が、震える指先で自らのブラウスのボタンに手を掛ける。
私たちは今、六畳ほどの寝室の、そのさらに中心で、磁石の同極同士のように、あるいは死に損ないの双子のように密着していた。
彼女が服を脱ぎ、袖を通すという日常の動作において、その1メートルの「遊び」はあまりに脆い。
私が彼女の背後に回り、その華奢な肩を抱きすくめる。
鏡の中、裸の私たちが重なり合っていた。
結衣の白い胸元、その下で、鈍色の骨針が心臓の拍動に合わせて不気味に震えている。
その針穴から伸びる赤い糸は、そのまま私の胸へと、逃げ場のない臍の緒のように繋がっているように見えた。
準備を終え、私は黒のチェスターコートを纏う。
街は、暴力的なまでの喧騒に満ちている。
すれ違う人々は、スマホの画面に没頭し、他者の「距離」など気にも留めない。
スーパーマーケットのレジを抜け、街頭の大型ビジョンが私たちの網膜を焼いた。
『昨晩、左京区で新たに3名が急性肺水腫で死亡。いずれも健康な若年層であり、原因は依然不明』
冷たいアナウンスが、冬の空気に溶けていく。
私は、自分の胸骨に刺さった針が、かすかに疼くのを感じた。
私たちは1メートル以内にいなければ殺し合う。
けれど、この街のどこかには、私たちとは別の、けれど同じように冷酷な「何か」が胎動している。
肌を撫でる空気の乾燥が、まるで見えない呪詛の予感を含んでいるかのように重かった。
「……帰りましょう、結衣。これ以上、外の空気を吸いたくない」
私たちは逃げるように、薄暗い自室へと戻った。
玄関で靴を脱ぐ際も、互いの肩がぶつかるほど近くにいなければならない。
買ってきた食料品を、協力して冷蔵庫に詰めていく。
私が牛乳パックを棚に差し込み、結衣がその横で肉のパックを並べ、買ってきたばかりのものが下になるように冷凍庫に入れていった。
1メートルの檻の中で、私たちの手は幾度も触れ合い、そのたびに静電気のような死の予感が走る。
「……湊?」
結衣が不安げに私を見つめる。
私は彼女の視線を避けるように、小さく溜息を吐いた。
「……お手洗い。……一緒に来て」
その言葉を口にするのは、死ぬよりも恥ずかしかった。
けれど、1メートル。
個室の扉を隔てて待つことさえ、この呪いは許してはくれない。
狭いトイレの空間に、二人の大人が押し込められる。
頬をほんのりと朱に染めた結衣と目が合った。
「......少しの間、目と耳を塞いでもらえるとありがたいのだけれど」
「そっ、そうだよね、ごめん!」
結衣は私に背を向けて、目と耳を塞ぐ。そして交代して入れ替わり、今度は私が耳と目を塞ぐ。
指の隙間から結衣の赤面が見えたことは、彼女に言うわけにはいかなかった。
生理的な音さえも共有しなければならないこの屈辱が、私たちの尊厳を少しずつ、着実に削り取っていく。
排泄、入浴。
浴室の湯気の中で、私たちは絡み合う糸がもつれないよう、細心の注意を払って互いの肢体を洗う。
石鹸の泡が、胸骨の末端に刺さった針の周囲を白く染めた。
「ねえ、湊……痛い?」
結衣が私の胸元に手を触れる。
「痛くないわけがないでしょ。……生きている限り、ずっと」
やがて、夜が来る。
私たちはベッドに横たわり、最後にして最悪の儀式を始める。
異物を体内に入れたまま眠ることは生理的に受け入れ難かった。
「……抜くわよ」
私の言葉に、結衣は覚悟を決めたように瞳を閉じた。
私は指先で、彼女の胸骨に埋まった針の頭を掴む。
ゆっくりと、肉と骨の軋む感触を指先に感じながら、それを引き抜いた。
「っ……あ、ああ……っ!」
結衣の悲鳴が、夜の静寂を切り裂く。
同時に、結衣に私の針を抜いてもらう。
心臓を直接抉られるような激痛。
針を抜けば、1メートルの制約は無くなり、肌を重ねない限り、痛みに侵される。
呪いの力なのか、深々と穿たれたはずの傷口は、血を流しながらも、たちまちのうちに塞がっていく。
明日になれば、そこには傷跡一つ残っていないだろう。
けれど、それは救済ではない。
「おやすみなさい、結衣。……また、明日の朝に」
朝が来れば、私たちは再び、自らの手でその清らかな肌に針を突き立てなければならない。
癒える傷は、ただ何度でも痛みを与えるための猶予に過ぎなかった。
◇◆◇
【File No.00679:呪遺物『繭の対針』呪詛行使・共存個体による音声記録:抜粋】
[12日目:音声ログ]
(ノイズ。微かな衣擦れの音)「……まだ、大丈夫。腕が触れるだけで、指の先まで熱くなる。1メートル。この距離が、私たちの愛の証明だと思えるの。針を刺す痛みだって、彼女と繋がっている証だから。ねえ、聞こえる? 彼女の寝息。これが、私の世界のすべて」
[48日目:音声ログ]
(湿った水音。排泄、あるいは入浴の音か)「……消えてほしい。彼女が湯を浴びる音、肌を擦る音、そのすべてが耳の奥にこびりついて離れない。さっき、彼女が用を足す音が聞こえた。ただの生理現象なのに、どうしてこんなに汚らわしいの。1メートル。近すぎる。彼女の体臭が、私の肺を直接撫で回しているみたいで、吐き気がする。愛しているはずなのに。殺したいほど、鼻を突くの」
[79日目:音声ログ]
(激しい呼吸音。何かが激しくぶつかる音)「……また、目が合った。暗闇の中で、1メートル先に彼女の瞳がある。眠れない。彼女の心臓の音が、私の鼓動を邪魔する。ああ、神様。お願いだから、彼女を消して。でも、彼女が死んだら私も死ぬ。私たちは、互いの排泄物と体温に塗れたまま、腐っていくしかないの。針を抜きたい。抜いて、彼女を殺して、私も真っ白になりたい……」
【音声記録への考察:共依存における生理的拒絶、および愛の腐敗】
愛とは、本来、他者という深淵を分かつための「境界」にこそ宿る。しかし、呪いによってその境界を奪われた者たちは、やがて知ることになる。
かつて愛おしかった体温は、逃れ得ぬ「肉の腐臭」へと変わり、安らぎであった寝息は、自己を侵食する「不協和音」へと堕ちる。
1メートルという距離は、他者を他者として認識し得る、最後の尊厳であった。
それが失われた時、残されるのは純粋な憎悪ではない。自らの排泄物を、自らの内臓を、鏡越しに眺め続けるような、逃げ場のない「自己嫌悪」である。彼らは愛し合っていたのではない。ただ、一つに溶け合うことを夢見て、互いの汚泥を啜り合っていたに過ぎないのだ。
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