File No.01225:呪遺物『繭の対針』―― 共有痛覚の共鳴

【File No.01225:『繭の対針まゆのついばり』に関する極秘事項】

■対象名称:紅綴べにつづり

 紅綴にまつわる口伝は、その多くが通俗的な恐怖譚としての側面を有している。一般的、あるいは民俗学的なアプローチにおいて、この呪詛は「二人の女が身体を縫い合わせた心中」もしくは「愛し合った双子の姉妹が身体を縫い合わせた心中」として記述されるのが常である。互いの肉を断ち、骨を穿ち、太い麻糸で繋ぎ止められ一体となった骸。それは愛執の極致、あるいは逃れ得ぬ刑罰としての結末であり、視覚的な凄惨さが物語の核を成している。

 しかし、実際に呪詛行使者に選別された者たちが残した証言の断片は、それとは明確に異なる様相を呈している。


 かつて、ある行使者が昏睡の淵で漏らした記録によれば。そこには、身体を切り刻むような直接的な破壊などは存在しなかったという。見えたのは、ただ、幼き二人の童女が静かに手を繋ぎ立っている姿。だが、その掌と掌の間。本来であれば温もりを分かつべき「境界」が、あらかじめ一つであったかのように、細い、あまりに細い何かで綴り合わされていた。掌そのものが、一枚の布のように。指と指が、まるで縒り合わされた糸のように。それは心中という情動的な破滅ではなく、存在そのものが「綴り合わされている」という、静謐せいひつで、それゆえに逃れようのない変異であったという。


 逸話における「心中」か、あるいは証言における「綴合ていごう」か。果たして、どちらがこの怪異の真実なのか。あるいは、その両者が等しく真実を撃ち漏らしているのか。紅綴という名の深淵は、いまだ語られる言葉を拒み、沈黙の中にその歪な輪郭を潜めている。



 ◇◆◇



 ――12月25日。


 正午を過ぎる頃、冬の陽光は厚い雲に遮られ、寝室には鉛色の湿った薄闇がよどんでいた。


 室温は低いはずなのに、シーツの海に沈んだ二人の肌は、病的なまでの熱を帯び、汗と脂、そして微かな鉄錆の匂いを放っている。


「……、……っ、はぁ、……っ」


 湊の喉から、掠れた呼吸が漏れる。


 己の上に覆い被さる結衣の体温が、今はただ、重苦しい物理的な質量となって湊を圧迫していた。


 8年という歳月が積み上げた「倦怠」という名の壁は、皮下に埋め込まれた『繭の対針』が放つ脈動によって、あまりにも暴力的に粉砕されていた。


 離れれば死ぬ。その極限の拘束は、二人の間に横たわっていた無関心を、生存本能に基づいた狂おしい「執着」へと強制的に変容させていた。


 結衣の指先が、湊の首筋を執拗に這う。その動きは愛撫というにはあまりに冷酷で、まるで獲物の解体場所を探る刃のようだった。爪が皮膚を立てるたび、湊の胸骨の下に埋まった針が、不快な音を立てて疼く。


「……湊。ねえ、湊。……あなたは、私がボロボロになっていくのが、ずっと心地よかったんでしょ?」


 結衣の声が、耳元で湿った毒のように響く。彼女は湊の身体を物理的な力でねじ伏せるのではなく、その柔らかな部分をなぞりながら、精神の核へと侵入していく。


「毎晩、私が終電で帰ってきて、リビングで死んだように眠るのを見て、……あなたは心のどこかで安心していたはずよ。……私が外の世界で磨り潰されるほど、あなたは『自分の方がまだマシだ』って、惨めな優越感に浸ってた。……そうでしょ?」


 結衣の指が湊の唇を割り、無理やり内側の粘膜を弄る。それは湊の言葉を封じながら、その奥にある本音を力ずくで引き摺り出そうとする、支配的な行為だった。


「あなたが書けなくなったのは、私のせいじゃない。……私の不幸を、あなたが生き延びるための『甘露』にしていたからよ。……歪んでいるのは、あなたの方よ」


 湊は、快楽と屈辱に目を細めながら、自分を犯すように見下ろす結衣の、歪んだ笑みを見つめた。


 その言葉は、湊がずっと自分にさえ隠してきた、もっとも卑劣な部分を正確に射抜いていた。


(ああ。……そうだわ。私は、この子が壊れていくのを見て、安心していた)


 湊は、胸の針が肉を裂くような疼きに耐えながら、結衣の手を逆に掴み、彼女を自分の内側へとさらに深く引き入れた。


「……なら、あなたはどうなのよ、結衣。……あなたが私を支えるふりをして、必死に働いていたのは……私が、二度と羽ばたけないようにするためだったんじゃないの?」


 湊の声は、憎悪と法悦が混ざり合った、震える響きを帯びる。


「私が書けずに、この部屋で腐っていくのを見て、……あなたは『これで湊はどこにも行けない』って、確信して笑っていたはずよ。……私の才能が死ぬのを、あなたは誰よりも望んでいた。……私を経済的に去勢して、自分無しでは呼吸もできない人形に変えたかったのは、あなたじゃない?」


 二人の間にあった「献身」という名の化けの皮が剥がれ落ち、そこには醜く、けれど紛れもない「独占」の軋轢が姿を現した。


 針は、この底の浅い、吐き気のするような自我を糧にして、さらに深く、二人の肉体を綴じ合わせていく。


「……そうよ。……そうだよ、湊。……あなたが書けなくなった時、私、本当は嬉しくて仕方がなかった。……これでやっと、あなたは私のものになるんだって……っ」


 結衣は泣き出しそうな、それでいて狂喜に満ちた顔で、湊の唇を奪った。


 それは接吻というよりは、相手の尊厳ごと食い破ろうとするような、共犯の儀式だった。


 8年分の醜悪な優越感と、歪んだ独占欲。


 それらすべてが、絡み合う舌と、皮下で共鳴する針の振動を通じて、二人を一つへと綴じ合わせていく。


 痛覚が共有されている。結衣が湊の身体を激しく侵せば、結衣自身の内側にも、引き裂かれるような熱い痛みが走り抜ける。


 自傷と他傷の境界が消え、二人は一人の巨大な怪異へと溶け合っていくような、圧倒的な充足に包まれた。


 乱れた寝室の隅では、テレビの画面が無機質な光を放っている。


『……ニュースをお伝えします。本日未明、左京区のマンションで発見された遺体の詳細が判明しました。死因は急性の肺水腫。……特筆すべきは、遺体発見場所が完全に乾燥した室内であったにもかかわらず、被害者の肺が自身の体液で満たされ、溺死の状態にあったことです。……現場付近では、不審な人物が目撃されており、警察は……』


 二人はそのニュースを、まるで別世界の出来事のように聞き流していた。


 絶頂の後。


 二人は、汗で張り付いたシーツの上で、どちらともなく腕を絡ませ合い、静かな余韻に浸っていた。


「……ねえ、湊。……私たち、本当に最低だね」


 結衣が、湊の胸元に顔を埋めたまま、掠れた声で呟く。


「ええ。……でも、この最低な本音を、私は今まで一行も書けなかった。……この呪いが、私に初めて『真実』を言わせたのよ」


 湊は、結衣の細い肩を抱き寄せた。


「この呪いに侵された人たちも、……きっとこうやって、お互いの底の浅さを笑いながら死んでいったんだわ。……綺麗事なんて、針が全部消し去ってくれる。……ねえ、結衣。……もう、独りで立たなくていい。……二人で、この泥の中に沈んでいきましょう」


 結衣は答えなかった。ただ、湊の肌に、自分のそれをより深く押し当てる。


 背後の闇の中で、市松模様の童女が、獲物が地獄を受け入れたことを祝福するかのように、声もなく笑い続けていた。



 ◇◆◇



【File No.00679:『繭の対針まゆのついばり』選別者の末路に関する記録】

 記録地点:京都駅周辺某ビジネスホテル

 日時:不明

 発見時状況:室内にて、二十代女性二名がベッドの上で死亡。

 死因:両名ともに急性心不全。

 状況:指先が互いの首を深く絞め合っていたにもかかわらず、その表情は法悦に満ちた、穏やかな笑みを浮かべていた。

 解剖の結果:両名のみぞおち付近の皮下から、長さ約十センチの骨製の針が一本ずつ発見された。その針は、心臓の鼓動を止める直前まで、お互いの「殺意」と「愛着」を吸い上げて、激しく脈動していた形跡があったという。

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