慣れたくないのに

ひろの

慣れたくないのに

軍務省事務局、辺境管区支部局舎ビル十二階。


夜も更ける時間帯だというのに、フロアの照明は落とされる気配もなく、白い光が机と床を均等に照らしていた。


エリーは端末の前に座り、淡々と作業を続けていた。


画面に並ぶのは、先の艦隊戦で発生した戦死者の名簿だ。所属、階級、死亡日時、遺体の有無、遺族の有無。すべての項目を確認し、照合し、問題がなければチェックを入れて次へ進む。


一人。

また一人。


完了ボタンを押すたび、画面は無慈悲なほどあっさりと次の名前を表示する。

そこにためらいを挟む余地はない。


戦死の通知書と遺族年金の手続きは、迅速でなければならない。

軍務省の通達文にはそう書かれている。遅延は遺族の不安を煽るため、厳禁。

エリーはその文言を何度も読んできた。


最初の頃は、名簿を見るだけで胸が詰まった。

画面の向こうに、顔も知らない誰かの人生があったのだと思うと、指が止まった。

だが、止まってはいけない。仕事は仕事だ。


いつの間にか、そう考えるようになっていた。


指先が自動的に動き、入力欄を埋めていく。

視線は数字と文字を追い、感情が入り込む余地はない。


ふと、名前の欄で目が止まった。


リンネ・クレイア。

住所――ヴェローニャン星系 第2惑星上コロニー 第七居住区、旧市街。


一瞬、呼吸が遅れた。


旧市街。

エリーの実家がある場所だ。

端末の画面を見つめたまま、彼女は瞬きを忘れた。


同姓同名かもしれない。

辺境とはいえ、名前が完全に被らない保証はない。

そう思おうとしたが、次の欄で否定された。


生年。

学籍履歴。

すべて、記憶と一致している。


リンネ。

学生時代、同じ講義室で並んで座っていた友人。

昼休みに売店の安い菓子を分け合い、くだらない噂話で笑った相手。


彼女は、前線に出ると言っていた。

自分は事務職に進むと言ったとき、リンネは少しだけ残念そうに笑った。


「エリーは、そういうの得意だもんね。裏から支えるやつ」


その声が、はっきりと思い出せてしまった。


画面の文字が、ただの記号ではなくなった。

名前が、思い出に変わる。


「……リンネ、死んじゃったんだ」


声に出してみたが、フロアは広く、誰もいない。

音は吸い込まれるように消えた。


目の奥がじんと熱くなる。

涙が溜まりかける感覚は、確かにあった。


だが、それ以上は来なかった。


エリーは瞬きをし、もう一度画面を見た。

必要事項を入力し、チェックを入れる。

完了ボタンを押す。


リンネの名前は、一覧から消えた。


次の名前が、何事もなかったかのように表示される。


胸の奥で、何かが静かに沈んでいった。

それが何なのか、考える余裕はなかった。


今日の処理予定件数をすべて終えたのは、深夜に近い時間だった。

端末をログアウトし、椅子から立ち上がる。


フロアには、彼女一人しか残っていない。

同僚たちはとっくに帰っているか、別の階で別の仕事をしているのだろう。


照明を落とし、エレベーターに向かう。

静まり返った廊下では、自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。


エントランスを抜け、駅へ続く連絡路に出る。

夜風が頬を撫でた。


「……いつから私、こんな風になったんだろう」


 誰に聞かせるでもなく、呟く。


「慣れたくなんかなかったのに……」


涙は出ない。

悲しいはずなのに、頭の中では電車の時刻表を思い浮かべている。


間に合うだろうか。

次の便は何分後だったか。


そのことを考えている自分に気づき、エリーは足を止めた。


おかしい。

友人が死んだのだ。

もっと取り乱してもいいはずなのに。


けれど、胸は静かだった。

痛みはあるが、叫ぶほどではない。


連絡路の途中に設置されたベンチに腰を下ろす。

バッグの中から、今日処理した書類の控え封筒が覗いていた。


リンネ宛の戦死通知書。

本来なら、すでに発送手続きに回っているはずのもの。


なぜ自分の手元にあるのか。

理由はすぐに思い出せた。


プリンタの不具合で、一部の書類が再印刷待ちになったのだ。

リンネの通知書も、その一つだった。


明日、出せばいい。

規定上、問題はない。


封筒を引き抜き、表面を見る。

実家の住所が、丁寧な文字で印字されている。


あの家。

休日になると、リンネが帰っていた場所。


封筒を持つ指が、わずかに震えた。


届ける役目は、自分ではない。

それでも、この紙切れ一枚で、誰かの日常が壊れる。


そういう仕事を、自分はしている。


ふと、今日処理した名簿の最後の方を思い出した。

確認しなかったわけではない。

だが、意識に残らなかった名前が、ほとんどだ。


それが普通になっている。


自分が壊れないために、そうなったのだと、どこかで理解していた。


感じないようにする。

考えすぎないようにする。

そうしなければ、毎日続くこの仕事は務まらない。


封筒をバッグに戻す。

電車の音が、遠くから聞こえた。


立ち上がり、歩き出す。

駅へ向かう人の流れに混じりながら、エリーは思う。


慣れてしまった自分を、責める気力はもうない。

それでも、完全に慣れきってしまうことだけは、怖かった。


明日も、名簿を見る。

明後日も、その次の日も。


名前が文字である限り、仕事は続く。

それでも、たまにこうして思い出に変わる瞬間がある。


それが残酷なのか、救いなのか。

エリーには、まだわからなかった。


電車がホームに滑り込む。

彼女は列に並び、無言で乗り込む。


封筒の重みだけが、現実として確かにそこにあった。

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