雪の娘 1-3

 少女に従って、母屋おもやの廊下を幾度も左右に折れ、知っているところはあらかた過ぎたと思うころ、哲夫は、かつて突き当たりだった廊下の端に、新しい扉が出来ているのを知った。

 その先は、若夫婦のために増築されたと覚しい、洋風の離れだった。


 草間は仕事帰りらしい背広姿のまま、寝室の古風な椅子にうずくまり、哲夫を待っていた。

 その足元には、草間の父親が仰向けに倒れていた。


 父親は厚手のバスローブだけをまとい、はだけた腰の下から薄黒い陰部が覗いていた。

 そして、肩口から脇腹にかけて袈裟懸けに切り裂かれた傷があり、その傷は、血糊の奥に骨や内臓が見えるほど深かった。

 周囲の絨毯は、赤い沼の面のようだ。


「悔やんではいないぞ」

 草間は青白い顔を上げて言った。

「俺は、断じて悔やんじゃいない」


 哲夫は、一応形ばかり、草間の父親の上に屈みこんだ。

 無論、とうに息絶えている。

 生前顔を合わせるたびに、こんな俗物の父親ひとりの家で、どうして草間のような潔い男が育ったかと不思議に思ったものだが、やはりそんな顔で死んでいた。


 哲夫は、椅子の横に投げ出されている日本刀を一瞥した。

 以前、母屋の座敷に飾られていた記憶がある。

 しかし見た目は同じでも、今、その鞘の中は血にまみれているのだろう。


「君と親父さんに何があったか、僕は知らないし、興味もない」

 哲夫は言った。

「里子はどこだ」

「……里子……こんな、馬鹿な」

「溶けた、と言ったな」

「……信じられん。しかし、美津江も……確かにそう見えたと」


 草間は救いを求めるように、扉の前で震えている少女に目をやった。

「本当に、溶けちゃったんです」

 美津江と呼ばれた少女は、かぼそい声を震わせながら言った。

「私がバスルームを覗いたら、奥様、泣きながらシャワーの栓を回して……湯気の中で……まるで、氷が溶けるみたいに」


 哲夫は、少女の指先に従って、寝室に隣接するバスルームを覗いた。

 ロココ調、とでもいうのだろうか、その広さも装飾も、彼にとっては風呂場の概念を超えていた。


「どうやら君のほうが頼りになりそうだな」

 哲夫は少女に言った。

「その時、里子はバスタブの外にいた? それとも、中?」

「……中だったと思います」

「よし。君はありったけの、そうだな、大きめのポリタンクがいい。そんなもので、蓋の閉まるものならなんでもいい。あるだけ持ってきてくれ。あと、バケツもほしいな」

「は、はい」

「それと、ポンプだ。庭の池の掻い出しに使うような、大きい電動ポンプがあればいいんだけど――ないだろうな」

「……はい」

「じゃあ、小さい手押しポンプでも」


 少女が慌ただしく立ち去ると、哲夫は、まだ呆けたように座っている草間の傍らに立ち、その肩に手を置いた。

「親父さんをなんとかしてやれ。何があったか知らないが、死んだら仏様だ」


 草間はうなずき、ベッドの毛布を剥ぐと、父親の死体を包みはじめた。

 草間は無表情に父親の死顔を見つめながら、独り言のように呟いた。

「……夜の接待が、客の都合でキャンセルになって、珍しく早く帰った。玄関に入ると、いきなり奥から里子の悲鳴が聞こえた。駆けつけたら、親父が里子に……里子を守るつもりだったんだ」

 哲夫が想像したとおりのようだった。

「殺す気はなかった。……いや、殺したかったのかもしれん。ずっと昔からな」


 それもまた、哲夫が以前から感じ取っていたことだった。

 草間の語気に、しだいにこもりはじめた感情と、顔に浮かびはじめた憎悪の色を、哲夫はむしろ好ましく思った。


 人に戻ってきている――。


 それまでの、ただ端正なマネキン人形のような顔は、ふだんの情熱的な草間を知っている哲夫にとって、かえって底知れず不安だった。


 草間は不安げにバスタブを見返った。

「しかし、里子は、いったい……」

「――雪娘の話を知っているか?」

「雪娘……あの昔話か?」


「ああ。――ある冬の晩、二人きりで暮らしている老夫婦のところへ、ひとりの女の子がやってくる。子供のなかった夫婦は、喜んで娘を迎え入れ、実の子のように育てる。しかし娘はどんな寒い晩でも、けして風呂に入らない。心配した老夫婦が、なだめすかして風呂に入れてやると――。外国にも、確かアンデルセンだったか、焚火で溶けちまう話があったな」


「馬鹿な。それは童話だ。御伽噺おとぎばなしだ。第一、里子は間違いなく九条家の娘だ。戸籍も見ている。絶対に養子なんかじゃない」


「でも、君は昔の里子を知らない。僕は生まれた時から知っている」

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