第2話 緑の風と赤の炎

 士官学校の屋上。

 夕暮れの空が、茜色に染まり始めていた。


 風が少し冷たく、落ち葉を屋上のフェンスに絡ませる。

 ルーフスはいつもの場所に座り、古い魔法書のページをめくっていた。

 赤い髪が風に揺れ、茶色の瞳は文字に集中している。

 今日は訓練が早く終わった。

 だから、独りの時間が長く取れるはずだった。


 しかし、扉が静かに開く音がした。


「……また来たのか」


 ルーフスは顔を上げず、ぼそっと言った。


 そこに立っていたのは、ウィンターだった。

 茶色の髪を優しく風になびかせ、紫の瞳を少し伏せ気味にしている。

 手に小さな包みを持っていた。


「あ……ごめんね、ルーフス。今日も、来ちゃった……」


 ウィンターは申し訳なさそうに微笑みながら、ルーフスの隣にそっと座った。

 少し離れた距離で、でもいつもの場所に。


 ルーフスは本に目を戻したまま、ため息をついた。


「……別に。邪魔すんなよ」


 ウィンターはくすっと小さく笑って、包みを膝の上に置いた。


「うん……ありがとう。ルーフス」


 沈黙が訪れる。

 でも、それは苦しいものじゃなかった。

 風の音と、ページをめくる音だけが、穏やかに響く。


 しばらくして、ウィンターが小さな声で話しかけた。


「ねえ、ルーフス……今日の訓練、僕、また失敗しちゃって……。

 風魔法の制御が上手くいかなくて、みんなに笑われちゃったんだ……」


 声が少し震えていた。

 いつもの、怖がりで泣き虫な部分が顔を覗かせる。


 ルーフスは本を閉じて、ウィンターを見た。

 茶色の瞳が、鋭く、でもどこか柔らかく。


「……お前、いつもそれだな。

 魔力を細かく流せって、何度言えば分かるんだよ」


 口は悪い。

 でも、ルーフスは立ち上がって、ウィンターの前に立った。

 そして、自分の左手をかざす。


「見てろ。こうやって、少しずつ……イメージを固めて、風を形作るんだ」


 小さな火球が生まれ、ルーフスの手の上で静かに揺れた。

 それは、ただのデモンストレーション。

 でも、ウィンターの風魔法に応用できるように、わざとゆっくりと制御してみせた。


 ウィンターの紫の瞳が、輝いた。


「ルーフス……! すごい……やってみるよ。

 ありがとう……本当に、いつも助けてくれて……」


 ウィンターは立ち上がり、手を構えた。

 深呼吸をして、魔力を流す。

 最初は風が乱れたが、少しずつ、穏やかな渦が手のひらに生まれる。


「ほら……できた、かな……?」


 少し不安げに、ウィンターがルーフスを見上げる。


 ルーフスは腕を組んで、ぼそっと言った。


「……まあまあだな。

 まだ甘いけど……前よりはマシだ」


 でも、口元が少しだけ緩んでいた。


 ウィンターは嬉しそうに微笑んだ。


「ルーフスのおかげだよ。僕、ルーフスがいなかったら……きっと、もっとダメダメだったと思う……」


 ルーフスは顔を逸らして、耳を少し赤くした。


「……ふん。別に、大した事でも無いだろ」


 ウィンターはくすくす笑って、持っていた包みを差し出した。


「これ……お母さんから送られてきたお菓子なんだ。

 ちょっと素朴だけど……ルーフス、甘いもの好きだよね? 一緒に食べようよ」


 ルーフスは一瞬、包みを睨むように見て、それから無言で受け取った。


「……仕方ないな。一つだけだぞ」


 二人は並んで座り、お菓子を分け合った。

 夕陽が、二人の影を長く伸ばす。


 ウィンターが、ふと遠くを見ながら呟いた。


「ルーフスって……やっぱり僕の弟のウィルに、ちょっと似てるんだ。

 ルーフスとこうやってるの見てると、なんだか懐かしくて……嬉しいよ」


 ルーフスは黙って、お菓子を口に運んだ。


「……弟、か。

 ……お前、家族多いんだったな」


 ウィンターは頷いて、優しく微笑んだ。


「うん、弟が三人、妹が二人……。

 ウィルとは双子なんだけど……最近、色々あってぎくしゃくしちゃって……。

 でも、僕、ウィルのこと嫌いじゃないよ。

 むしろ……ありがとうって、思ってる」


 ルーフスは少し黙って、それからぼそっと言った。


「……お前、優しいな。

 ……馬鹿みたいに」


 ウィンターは目を丸くして、それから笑った。


「ふふ……ルーフスにそう言われると、なんだか嬉しいよ。

 ルーフスも、本当は優しいのに……いつも尖ってるんだもん」


 ルーフスが即座に反応した。


「優しくない。俺はただ……」


 言葉を切って、ルーフスはため息をついた。


「……お前が泣き虫すぎて、放っておけないだけだ」


 ウィンターの紫の瞳が、少し潤んだ。


「ルーフス……ありがとう。

 僕、ルーフスが初めての……本当の友達だよ。 ティールも大切だけど、ルーフスは……特別なんだ」


 ルーフスは顔を赤くして、慌てて目を逸らした。


「……うるさい。ティールに言うなよ、変な張り合いになるから」


 ウィンターはくすくす笑いながら、頷いた。


「うん、秘密だよ。

 でも、僕……二人とも、同じくらい大切だよ。

 ルーフスがいてくれるから、僕、強くなれる気がする……。怖いときも、頑張れる」


 夕陽が沈み、空が紫色に変わっていく。

 ウィンターの瞳と同じ色に。


 ルーフスは小さく呟いた。


「……お前は、俺がいなかったら……すぐ泣いて終わりだろ」


 ウィンターは首を振って、静かに、でも力強く言った。


「ううん。僕、守りたい人ができたから……

 ルーフスやティールを、絶対に守りたい。

 だから、諦めないよ」


 ルーフスはそれを聞いて、茶色の瞳を細めた。


(……守りたい、か)


 あの火事の日以来、ルーフスが抱えていた言葉。

 それを、こんな穏やかな声で言われると、胸が少し熱くなった。


「……ふん。なら、もっと練習しろよ。

 俺が……少し、付き合ってやる」


 ウィンターの顔が、パッと明るくなった。


「本当? ルーフス、ありがとう……!」


 二人は立ち上がり、屋上の片隅で魔法の練習を始めた。

 赤い炎と、緑がかった優しい風が、夕暮れの中で交差する。


 ウィンターにとって、ルーフスは

「ウィルに似た、放っておけない大切な存在」であり、

「初めて自分を必要としてくれた、優しいけど、素直になれない友達」。


 ルーフスにとって、ウィンターは

「泣き虫でうざいけど、初めて心を許せた相手」であり、

「守りたいと思えた、温かい光のような存在」。


 風が二人の間を優しく通り抜けていく。

 紫の瞳と茶色の瞳が、静かに交わる。


 これからも、二人はこうして──

 屋上の片隅で、少しずつ、強くなっていく。

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