余命宣告された侯爵令嬢は、卒業までに恋をして世界を救うことになりました 〜選択の先に、運命が待っていました〜

　朝の空気は、もう春とは言い難い。

　陽射しは刺すように強く、風はぬるい。学園の石畳に落ちる影は、季節の進行を告げるようにくっきりと長く伸びている。

　

　ギルバートとペアを組んで、数日が過ぎた。

　それでも――実技の講義で彼の隣に立つ瞬間には、いまだに指先がこわばるような緊張が残る。

　

（慣れたようで、ちっとも慣れないんだよね……）

　

　魔法実技棟の一角。各生徒には個別の課題が割り当てられ、作業スペースは結界によって区切られている。

　

　アイリスに与えられた課題は単純だった。

　「種子を発芽させ、一定時間その状態を安定させること」。単純、なはずなのに。

　

「…………」

　

　種は、土の中でうんともすんとも言わない。

　指先に意識を集中させ、土の魔力を流してみる。押して、包んで、そっと支える。理屈は座学で完璧に理解したはずなのに、現実の種は沈黙を貫いたままだ。

　

（出ない。芽が。……一ミリも）

　

　ふと隣を見ると、そこには別世界の光景が広がっていた。ギルバートはとうに自分の課題を終えている。合格の印が魔法具に淡く灯っているにもかかわらず、彼はさらに高次元の修練を続けていた。

　

　――炎。

　小さく、しかし芯の通った火が灯る。熱は極限まで抑えられ、揺らぎは最小限。そこへ、鋭いが乱暴ではない風が添えられる。炎を煽ることも消すこともせず、ただ空間の密度を整えるためだけに流れる風。

　

（……凛としてる）

　

　派手さはない。けれど、一切の誤差がない。

　それは力を誇示するための魔法ではなく、「正しく在る」ことを前提とした王者の魔法だった。

　

（これは、私のアドバイスとか、いらないやつ）

　

　同じペア、同じ空間。それなのに、自分は土とにらめっこをしている。

　

（私、ここに立っている意味、あるのかな）

　

　不意に、視線を感じて顔を上げた。ギルバートが、無表情にこちらを凝視していた。

　

「……肩に力が入りすぎている」

　

　低く、ぶっきらぼうな声。

　

「え？」

「魔力の流れが散っている。方向が……めちゃくちゃだ」

　

　彼は言葉を選んでいるようだった。教えることに慣れていないのが手に取るようにわかる。

　

「指先じゃない。もっと、種そのものに意識を沈めろ」

「えっと……触らない方がいいって教わったけど」

「触るな。ただ、意識を向けろと言っている」

　

　短い指示。説明は足りないが、アイリスは言われた通りに深呼吸をした。土を“動かそう”とするのをやめる。ただ、種の存在だけを意識の中心に置く。待つ。静かに、待つ。

　

「……っ」

　

　一瞬。ぴし、と殻の内側で何かが弾けるような微かな感触。芽はまだ出ていない。けれど、確かに種が自分の魔力に応答した。

　

「……今のだ」

　

　ギルバートが、わずかに目を細めて言った。

　

「今の感覚を、忘れるな」

　

（……意外と、優しいところあるじゃない）

　

　そう思った瞬間、視線がぶつかる。

　

「……なんだ」

「いえ、なんでも！」

　

　慌てて首を振る。ぶっきらぼうで説明不足だが、彼はちゃんと自分を見ている。――その時だった。ぐらりと、視界が揺れた。

　

「……っ！？」

　

　教室内から悲鳴が上がる。誰かの課題魔法が制御を失い、暴走した魔力の波が空気を震わせた。結界装置が軋み、備品が大きな音を立てて倒れ始める。

　

「危ない！」

　

　アイリスの目の前で、巨大な棚の固定具が外れ、ゆっくりと傾いていく。その下には、腰を抜かした生徒がいた。

　

（助けなきゃ――！）

　

　アイリスは反射的に一歩踏み出す。根を出せばいい。床を割って、支えれば――けれど。

　

（……っ、出せない！）

　

　ここは実技用に補強された特殊な床だ。結界と魔法具が密に張り巡らされ、土属性の「根」を伸ばす隙間がどこにもない。焦りが、冷たい汗となって背中を伝う。

　

「――どけ」

　

　背後から低く鋭い声。腕を強く引かれ、視界が回転した。

　

　直後、猛烈な突風が室内を駆け抜けた。

　ごうっ、という轟音とともに空気が渦を巻く。傾いていた棚は、見えない巨人の手に押し戻されたかのように壁際へと叩きつけられた。風は必要な分だけ吹き、それ以外は何ひとつ傷つけない。完璧な、暴力的なまでの制御。

　

　気づけば、ギルバートがアイリスを庇うように前に立っていた。

　

「……動くな」

　

　短い、拒絶のような命令。

　

「力を持たない者が、分をわきまえずに無理をするな」

「……！」

　

　アイリスは思わず唇を噛んだ。彼の言うことは、残酷なまでに正しい。今の自分には何もできなかった。

　

（でも――。何もせずに見ているだけなんて。危ないって分かっていて、動かないなんて……）

（そんなの、できないよ）

　

　心臓が早鐘を打つ。無力感への怒りと、守られたことへの屈辱。

　

「……分かっています」

　

　口ではそう答えながら、視線を床へ落とす。続きの言葉は、熱を持って喉に詰まった。

　混乱が収束へ向かう中、少し離れた位置でロイドが独り言のように呟いた。

　

「……派手だったね」

　

　そして、隣にいる少年へ視線を向ける。

　

「……君も、ああならないといいね」

　

　ロイドの声は、驚くほど穏やかだった。

　

　結界装置の影で、ルイは自分の課題に向き合っていた。水属性の基礎課題――規定量の水を、器へ正確に出す。それだけのはずなのに、水面はまた縁を越えた。

　

「……っ」

　

　止めたいのに、止まらない。抑えようとすればするほど、魔力が過剰に流れ込む。

　

「難儀だね」

　

　隣でロイドが肩をすくめた。

　

「うん。簡単じゃない。君の場合は特に」

　

　ルイの喉が、微かに鳴った。図星だった。

　

「守るとか、守らないとか、そういうの、いったん置いときなよ。見てて」

　

　ロイドが指先をわずかに上げると、水は「思い出した」かのように自ら動いた。跳ねも、迷いもない。水はあるべき高さまで静かに満ち、ぴたりと静止した。それは制御を超えた、純粋な理解の結末だった。

　

「ほら。水はさ。守らなくても、勝手に落ち着くんだよ」

　

　ロイドはもう興味を失ったように手を引く。その背中は、誰とも繋がっていないように軽やかで、同時に絶望的に遠い。

　

　ルイは、言葉を失って器を見つめた。

　アイリスの動線を、危険の芽を、選択肢を。先回りして守るために、自分は魔力を、そして自分自身を縛り続けてきた。

　ロイドは、そんな内側に踏み込むことなく、肩をすくめる。

　

「だから」

　淡々と、他人事のみたいに。

「疲れるんだよ」