第4話 ハル

 朝のホームルームで、篠原先生からそのことを話された瞬間、僕の心臓に針山が落ちて来たような痛みが走った。

 その日の授業は全く見に入らなかった覚えがある。

 下校してすぐ、僕は着替えもしないで、制服のまま病院に直行した。

 清潔感のある病院のエントランスで面会の受付を済ませると、僕は看護師さんから教えられた病室に向かっていった。

 エレベーターのゆっくりと登っていく音は嫌に現実感を帯びていた。

 彼女の病室の前に着き、扉を開けようとしたところで、僕は手を止めた。

 彼女の啜り泣く声が微かながらも、耳に届いてきたのだ。いきなり声をかけては驚かせてしまうかもしれないと思った僕は、ひとまずノックをして反応を見ることにしたのだ。

 すると、扉の奥の泣き声は止まり、彼女から一言、質問が送られてきた。


「誰ですか?」


「古春さん、僕だよ。真木悠生。」


「ごめんね、ちょっと、待ってくれる?」


 この間、彼女はなるべく涙の跡が残らないように、いろいろと工夫をしていたのだと思う。「入ってきてもいいよ。」という許可が降りたときと同時に、僕は扉を開けた。

 病床に横たわる彼女は痩せていた。そして僕の発言は間違えていた。彼女に患者服は似合っていなかった。


「症状はどうなの?軽い?治りそう?」


 一歩一歩前に進みながら、問い詰めるように聞く僕に、彼女は両手で顔を隠した。

 嫌な予感がした。


「……私ね、もう、助からない。親に見捨てられちゃったの。」


 力が緩んだ隙に、僕の鞄は冷たいタイルの上に滑り落ちて、鈍い音を立てた。


「お医者さんには、肺癌のステージ三だって、診断されたんだけど、それでも、治療には、たくさんのお金が——」


 彼女は途中まで言って、苦しそうに咳をした。その声は掠れていて、長い言葉を紡ぐことはできなくなっていた。


「話すのも辛いと思うし、こんな気分が落ち込むような話はもうやめよう。」


 彼女は声を出す代わりに、こくりと頷いた。


「古春さんはこれからどうするの?」


「窓の外を見たり、天井のシミの数を、数えたりするかな。」


 彼女は「暇になっちゃった。」とでも言うかのように、肩を落とした。

 皮肉なことに、僕の記憶の中の彼女は病院にいることの方が多かった。

 僕は部活に入っていなかったから、用事のない日は、必ず彼女のお見舞いに行くようにしていた。その日に学校で起こったことや、新しく発見したことなど、面白いことを共有した。たまにクラスメイトとタイミングが被ってしまうことがあったけれども、二人きりの時間を過ごすことができた。

 あるとき、アングレカムという名前の花を持っていくと、彼女は口元を塞いで、僕と花を交互に見つめた。花が自分のために用意されたことを知ると、彼女は「花、ありがとう。でも、ここの、私の彩りは悠生くんだけで十分。」と言ってくれた。

 意外なプレゼントと貰った僕は、微笑む彼女を前にして、思わず頬を赤くしてしまったのだった。

 彼女と一緒にいる時間は、ささやかな喜びで溢れていた。傍にいて心が踊らなかったときはなかった。彼女が亡くなるまでは。

 彼女が亡くなったとされる日、辺りの落葉樹の葉は全て落ちた。ガサガサと葉が揺れる音がしないから、僕の心のざわめきはより際立っていた。

 その一週間ぐらい前から、彼女は全ての面会を拒絶するようになった。それが故に、僕は彼女の訃報を人伝に聞いただけでなく、最も苦痛なはずの時期を彼女に独りで過ごさせることになった。

 彼女は僕に遺書を残してくれた。それは今でも棚の中にしまって大切にしている。

 新学期のとき、話しかけてくれたことが嬉しかったこと、直接話したかった本音があったことなどが、三千に上る文字数で記されていた。

 その中で、特段に僕の印象に残った言葉があった。


「ハルが来た。私のハルが。」


 頭の中で、彼女の明るい声で再生された。

 初めてこの部分を読んだとき、春にはまだ程遠いのに、と僕は混乱した。今でも僕は彼女の意図を掴めていない。再び彼女がこの世に舞い戻って、僕に伝えられたらいいのに、と心から思う。

 アルバムをしまって、時間を確認した。そろそろ家を出ないといけない時間が差し迫ってきていることに気づいた俺は、荷物を持って家を出た。

 今日は同窓会があるのだ。会場に向かう途中で、僕は通っていた高校の前を通った。

 門の外からかろうじて見える桜は、かつてと同じように、僕に手を振っていた。

 今年の桜を通して、昔年の桜を見る人なんて、僕ぐらいしかいないだろう。

 僕以外は誰も知らない。太陽に向かって枝を伸ばし、立派な大人を目指す高校の中に、恋に憧れた少女がいたことを。

 今になっても、一人になるたびに僕は彼女のことを思い出す。

 夢の中で彼女に逢おうと試行錯誤したことがあるが、無駄だった。これほどまで自分の体質を恨んだことはなかった。

 そんな僕は古い春に囚われていると言えるだろう。けれど、僕はそのままでいい。ずっとそのままがいいのだ。

 

 

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完全無欠な君と夢を見れない僕 阿丘 @AkyuTyan

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