第3話 マスクとワンピース

 その次の日、彼女は咳をしながら登校して来た。


「咳、大丈夫?」


「うん、大丈夫。正直に言って、昨日あれだけ雨に打たれのに、熱を出さなかっただけでよかったなって思ってる。」


 言い終わると、彼女はカーディガンのポケットから広告入りのティッシュを取り出して、鼻をかんだ。


「……昨日のこと、詳しく聞こうとしないんだね。」


「え?うん、まあ、古春さんも話しにくいかなって思って。」


「そっか、配慮してくれてありがとう。」


 新学期のときより柔らかくなった笑みは、僕に夏の暑さですらも忘れさせてくれた。


「あの後ね、家に帰ったら、お母さんが心配してくれたの。『無事でよかった。あなたの身に何かが起こったら困るもの。』って言ってね。」


「……関係が悪化してなさそうでよかった。」


 僕は彼女の母親の発言から、言葉に言い表せない気持ち悪さを感じていた。子供の気持ちも考慮しない親の口から出る「あなたの身に何かが起こったら困る。」という言葉には、健全じゃない意味が隠されているに決まっている。

 しかし僕はその考えを彼女に伝えなかった。何故ならそのとき、僕達はまだ未成年だった。それに、彼女を親の元から連れ出した上でも、彼女を笑顔にさせ続ける自信が僕にはなかったのだ。


「そうだ、また何か起こったら、すぐに相談できるように連絡先を交換しない?もちろん何も起こらないことが一番だけどね。」


 彼女の気軽に頼れる人になりたいという思いが大半を占めたが、彼女といつでも些細な日常を共有できる手段が欲しい、という思いもあった。

 けれども、そんな僕の期待も彼女から返って来た言葉によって、粉々に打ち砕かれた。


「あー、それは難しいかな。私、自分の携帯を持っていないの。」


 令和の高校生にとって、自分のスマホを持っていない人の存在は、にわかに信じがたいことだった。

 僕は、申し出を断られるか、断られないかの二択しか頭になかったため、完全に隙をつかれてしまっていた。

 僕が驚きで口を開けていると、彼女は閃いたように言った。


「完全に連絡できる手段がないとは言い切れないよ!何か言いたくなったとき、お互いあの公園に行くのはどうかな?」


「もし僕と古春さんのどちらか片方が来なかったらどうするの?」


「悠生くんの家庭にもいろいろな予定があると思うから、全ての話を聞いてもらおうとは思っていない。……そうだね、もしそういうことが起きたら、また次会ったときに約束すればいいと思う。」


 連絡先を交換することほど、堅実的ではなかったが、最大限までできることはやった。このとき、僕はやっと胸を撫で下ろすことができたのだった。

 楽しかったことを少し思い出そう。

 夏休み前最後の学校の日、僕は彼女を水族館に誘った。彼女は嬉しそうにして、僕の誘いに応えてくれた。

 あの日は一年で最も暑い日だった。別に大暑だったわけではない。僕の体感だ。

 マスクをつけた彼女は黄色いワンピースに着て、集合場所に現れた。


「本当はもっとオシャレをして来たかったけど、お母さんに図書館に行ってくるって言って誤魔化して来ちゃったから、あまりできなかったの。」


 そう言われて、僕は彼女のワンピースのデザインがシンプルだということに気がついた。けれど、彼女ならきっとどんな服を着ても可愛いだろう。シンプルな服は元々ある彼女の可愛さを引き立てる。派手な服でも彼女は何なりと着こなせただろう。

 そのことを伝えると、彼女は照れ臭そうに、でも満更ではなさそうに微笑んだ。

 電車を乗り継いで、僕達は水族館に向かった。

 そこは冷房がよく効いていたため、僕達は暑さを気にすることはなかった。

 狭い水槽を泳ぐ魚達を見ていると、彼女は突然僕に尋ねた。


「ねぇ、この水槽に閉じ込められた魚達は、幸せかな?」


 青い光が彼女を照らした。彼女の視線は、悠々自適に泳いでいるふりをする小魚に注がれていた。


「どうだろう、魚に幸せだという感情があるか、ないかで結構変わってくると思う。」


「じゃあ、あったとしたら?」


「少なくとも海から移住して来た魚は、幸せだと思い込むしかないんじゃない?大海原を自由に泳ぐ権利を失ったけど、その代わりに餓死する心配はなくなったと考えて。」


 いつの間にか、彼女の視線は僕に移っていた。その瞳には水の揺らぎが映っていた。


「なるほどね……生まれたときから水族館にいる魚と自然の海から来た魚のどちらかしか選べないんだったら、私は生まれたときから水族館にいる魚がいいな。悠生くんは?」


「古春さんがそれにするなら、僕もそれにしようかな。欲を言えば、古春さんと一緒に自然の海から来た魚になりたいな。そうしたら、水族館に連れて行かれても、思い出を話す相手がいるから、辛くない。」


「なにそれ、でも、悠生くんの話を聞いたら、私もそっちの方がいい気がして来た。」


 水族館の中での何気ない会話の中で、これだけが、不思議なことに頭に残っていた。彼女が咳をしていたから、水族館を回り終えると、僕達はそのまま各自の家に帰った。

 帰りの電車の中、彼女は僕の肩に寄りかかってうたた寝をしていた。起こしてしまわないように、こっそりと握った彼女の手は細かった。耳たぶにかかる彼女の髪はくすぐったかったが、心の底から何か暖かいものが湧き上がってくるような感覚がした。

 このときはまだ、これが最後の平穏な時間になるとは思ってもいなかった。

 夏休み明け、また彼女に会えると、心を躍らせながら僕は登校した。しかし、彼女は来なかった。一週間経っても、二週間経っても。

 また何かが起こったのかと思った僕は、約束した公園にも行ってみたが、そこにも彼女は現れなかった。

 葉が枯れ落ちて、木は活力を失い、全体的に寂しさを覚える季節だった。彼女が癌を患ったという知らせを受けたのは。

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