第2話 黒い傘

 始業式の翌日から、授業が通常通り始まった。一時間目から古文だった。

 学生時代、僕は国語、特に古文があまり得意ではなかった。このことは一生、彼女に伝えないつもりだ。言葉にしたら、自分で国語が苦手だと、認めてしまうことになる。彼女が好きだというものを、僕は苦手になりたくないのだ。

 国語の授業中、先生の解説がまるで呪文のように聞こえるから、僕はいつもうとうととしていた。その上、僕の席にはいつも陽光が当たって、暖かくなっていた。机の面に接しているところから体全体に熱が伝わっていくのが、気持ちよかった。対する彼女は、毎回ノートにメモをしたり、積極的に手を挙げたりして、真面目に授業を受けていた。

 彼女がクラスメイトに愛され、先生に気に入られることは、自然で当たり前のことだった。

 そういえば、彼女は成績も優秀だった。

 五月か六月に中間テストが行われた。出席番号順にテストが返されるため、僕は彼女よりも早く回答用紙を受け取った。けれども、僕は僕の平凡な結果を当時の友達と比較していたため、彼女より遅く席に着いた。

 そのとき、彼女の解答用紙の端にある赤い数字が見えてしまった。

 細かな数字はもう忘れてしまったが、見た瞬間、すごく自分が恥ずかしく感じたことは覚えている。

 その日から努力を始めたが、最後まで、僕は彼女を超えられることはなかった。


「どうしてそんなに成績がいいの?」


「勉強を頑張っているからね。」


「でも、同じことを続けるのは難しいでしょ?」


「まあね、でも夢とか目標があれば意外と簡単かな。」


 その言葉を聞いたとき、僕はたじろいだ。


「その言い方からして、古春さんは将来の夢があるんだ?」


「……うん、そんなに大それたことじゃないんだけどね。就職したとき、なるべくお金をたくさん稼げるようになりたいの。」


 彼女は苦笑いしてそう答えたが、僕は夢があること自体が素敵なことに思えた。大抵の人は、自分にないものを持っている人を羨ましがったり、その人が魅力的に見える。

 けれど、僕はまだ知らなかった。彼女がそう言った本当の理由を。

 あの日、母親からお使いを頼まれていた僕は、ネギやら、豚肉やら、いろんな食材が入ったエコバックを手に下げてバスに乗っていた。あまりにも酷い雨だったから、バスは乗客でいっぱいだった。

 半ば押し出されるようにしてバスを降り、僕はパーカーのポケットから折り畳み傘を取り出してさした。

 降りたバス停から今で言う実家までの道の途中に、公園があった。遊具にはかなり錆が入っていたが、種類に滑り台やブランコ、シーソーなどがあり、バラエティに富んでいた。

 至るところにできた水玉模様はだんだんと重なって、一つの大きいものになっていった。それが嫌で、僕は足早に歩いていた。本当なら公園のある方向など見るはずなかった。

 それほど風の強くない雨の日とブランコが揺れる音は、想像以上に似合わない。

 僕は何故こんな悪天候の中で、ブランコが動いているのか、と疑問に思って、公園の方を見た。

 すると、すぐにその疑問は解消されることになった。雨に打たれながら、彼女がブランコを漕いでいたのだ。

 様子のおかしい彼女に、早く帰りたい、という思いも消え、僕は彼女の方に歩み寄った。


「どうしたの?」


 何も返ってこないかと思いきや、しばらくすると、彼女は呟いた。


「親が嫌になったの。」


 小声ではあったが、この雨にも負けないほどはっきりと伝わって来た。

 彼女の頬を伝う水滴が、雨か涙か判別できない。そして、僕には彼女が怒っているのか、悲しんでいるのかも判別できなかった。

 僕が何も言わずに立っていると、彼女は続けて言った。


「……親は私に好きなことをさせてくれないの。この前、私の夢を話したことを覚えてる?あれ、本当は私のものじゃないの、親に押し付けられたものなの。」


 僕は彼女の言葉を得て、やっとあることに気がついた。

 彼女の優秀の裏には、心を押し殺さなければならないという大きな欠点があった。でも、社会はこれを欠点だなんて呼ばない。むしろ、親孝行や目標のために自分の好きなことを制限できる自立した人として、さらに良く評価される。

 彼女は優秀だ。誰にも否定できないほどに。

 彼女は優秀だ。“社会的に見て”優秀だ。

 僕は平凡、いや、幸せな家庭で生まれ育って来たから、彼女の感覚はわからなかった。けど、彼女の不満が雨のように、一滴一滴降ってきて、やがて大きな水溜りになっていくところは見えた。

 冷えで彼女の顔色は悪かった。彼女の身を考えたら、家に送り返すのが最適解だとわかっていたが、親といざこざを起こしている可能性が高いことを踏まえると、安易に「帰ったほうがいいよ。」だなんて言い出せなかった。


「ごめん、急にこんなこと聞かされても困るよね。私、帰るよ。」


「待って、それなら僕の傘を借りて行ったら?僕は走ったらすぐに家に着くからさ。」


 僕は傘を持った方の手を伸ばしたが、彼女はそれを両手で優しく押し返した。


「ううん、大丈夫。私はもう濡れちゃってるから、今更傘をさしてもあまり意味がないかも。そうして悠生くんも濡れるより、私一人だけ濡れた方が絶対いいよ。」


 そう言って、彼女は走り去ってしまった。その場に残された僕は、馬鹿みたいにしばらくの間、突っ立っていた気がする。

 その後、僕はやるせない気持ちを抱えながら、家のドアを開けた。

 流石にその日に食べた晩御飯がどんな味をしていたかまでは覚えていないが、きっと普段より少し苦く感じただろう。

 

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