完全無欠な君と夢を見れない僕

阿丘

第1話 春風

 僕は夢を見たことがない。寝ているときも、起きているときもそうだ。

 もしも自分がお金持ちだったらとか、誰もが振り返るイケメンだったらとか、意味のない妄想なんかしない。

 完璧な人なんてこの世にはいないと世間の人はよく言う。僕もかつてはそう思っていた。彼女と出逢うまでは。

 高校生活二年目の新学期、桜がこちらに手を振る中で、僕は新しい教室に向かっていた。年季の入った教室の扉を開け、自分の座席の位置を確認して座った。

 春の新しい風に吹かれたのか、僕の心はそわそわとしていた。

 僕はその日、運良くいつも乗っているバスよりも一本早いバスに乗って学校に来ていた。ホームルームまでの空き時間がいつもより十分多くなったのにも関わらず、僕は何もせず、ただ席に座って呆けていた。

 視界の端には桜が映っていた。とても熱烈に「こっちを見て!」と存在を主張してきていた。僕の中にあった桜の慎ましやかなイメージが音を立てて崩れた。

 仕方なく窓の方を見ると、僕の視線は桜じゃない、別のものに釘付けになった。

 隣の席に座っていた彼女は花よりも綺麗だった。茶色に近い髪はウェーブがかかっていた。桜が反射した光を浴びた彼女は淡いピンク色に光っているように見えた。

 振り返ればみれば、僕が彼女に惹かれたのはきっとこのときだった。

 彼女の名前を知りたくなったが、声をかけて直接聞く勇気が出なかった。だから僕は座席表を通してこっそりと知ることにしたのだ。

 八百坂古春やおさかこはる——それが彼女の名前だった。古春という名前は彼女の雰囲気によく合っていた。

 それからというもの、今の彼女に知られてしまったら、笑われてしまうかもしれないが、僕は脳に焼き付けるように、心の中で彼女の名前を何度も何度も繰り返したものだ。

 しばらく時が経って、担任の先生が教室に入って来た。記憶が間違っていなければ、担任は篠原という名前の中年男性だった。下の名前は覚えていない。

 一番最初に担任が自己紹介をすると、そのままの流れで、僕達も自己紹介することになった。

 真面目に全部聞いていたって、どうせ全員が自己紹介を終えた頃には、忘れてしまう。趣味や好きな食べ物の傾向が合う人がいないか探すぐらいのつもりで、話を聞いていると、あっという間に僕の番が来た。


真木悠生まぎゆうきです。好きな食べ物は鮭おにぎり。得意な科目は英語です。」


 そんなことを言った気がする。

 三十人近くの人の自己紹介は、放たれた矢と同じぐらいの速さで終わったように感じたが、彼女の番までの六人の自己紹介は、異常なまでに遅く感じた。


「初めまして、八百坂古春です。好きな食べ物はおにぎりです。得意科目は……国語かな。」


 他の人は好きなアニメやら、好きな運動やら、情報を自由に組み合わせて自己紹介していたのにも関わらず、彼女の自己紹介の型は僕のものとそっくりだった。

 自己紹介の時間は篠原先生が思っていたよりも早く終わってしまったようで、残りの時間は自由に交流する時間にする、という言葉だけ置いていって、会議か何かのために出ていった。

 意外なことに彼女のところに来る人は少なかった。いや、いなかったに等しいだろう。女の子が一人だけ彼女に話しかけに来たが、その子は彼女の綺麗な二重と通った鼻筋を褒めたのち、話題がなくなってしまったためか、立ち去ってしまった。

 寂しげに曇る彼女の顔を横目で見ながら、申し訳なかったが、僕は話しかけるチャンスだ、と喜んだ。


「あの、隣になったことですし、仲良くしませんか?」


 彼女は驚いたように目を見開いた。そして差し出された僕の手の指先に少し触れて「はい、よろしくお願いします。」と笑った。

 ぺこりと浅いお辞儀をしたとき、風で揺れた桜の枝のように、彼女の髪がその肩から垂れた。


「八百坂さんはどこの中学校出身ですか?」


「呼び方は古春、でいいよ。私は——」


 今度は僕が驚く番だった。彼女が口にした中学校は僕が卒業した中学校と同じだったのだ。

 同じ中学校ならいろいろな思い出話ができる、そう考えた僕は躍起になって口を開いたが、また閉じた。彼女がすごく面白くなさそうな顔をしていたからだ。

 そのときの僕はとても暢気だった。中学校の頃の話ができないのなら、他のことを話せばいいと考えていたのだ。


「古春さんはゲームとかするの?」


「ゲームはあまりしないかな。」


「じゃあどんな音楽が好きなの?」


「好きな音楽のジャンルはないかも、あまり音楽を聞く機会がないから。」


「絵とか描いたりする?」


「絵かぁ…… 昔は絵画教室に行ったりしていたけど、もう辞めちゃったんだよね。」


 完敗だった。こうなるなら直接「趣味は何?」と聞いた方が間違いなく速かった。

 会話のキャッチボールで使ったのは、使い捨て用のボールだったが、彼女は嫌な顔をしなかった。それだけで、僕の黒歴史は一つ減ることになった。

 その後、担任の先生が戻って来て、連絡事項だけ一通り伝えると、みんなを解散させた。結局、あの交流の時間の中で、彼女から僕に何か質問することはなかったが、一緒に帰ることになった。

 バスの中で、彼女は本を読んでいた。


「なんの本を読んでいるの?」


 僕の問いかけに彼女は何も言わず、ブックカバーを外して本のタイトルを見せてくれた。

——「コハルちゃんは恋が何か知りたい!」

 この小説が何を語ったものなのかは一目瞭然だった。


「恋愛小説が好きなの?」


「うん、なんとなくそういうものに興味があるの。」


 そう答えた彼女の耳は薄らと赤くなっていた。確かに異性にこういった恋や愛に関する話はしづらかったかもしれない。次回からは考えなしに行動するのはやめる、と僕は心の中で誓った。

 突然、ガタンと音がして、バスが揺れた。乗客のほとんどがその影響を受け、彼女と僕も例に漏れなかった。

 彼女の体全体が僕の方に寄り、腕はぶつかって、顔は適切な友達の距離を超えた。彼女のまつ毛は正面から見るよりも、ずっと長く見えた。


「っごめん。」


「いや、こっちこそ。」


 しばらくも経たないうちに、彼女の視線は再び小説に戻った。それでいい、と僕は思った。

 バスが建物の影の上を走り、窓には本のページを捲る彼女と、上がる口角を必死に抑える僕の顔が映っていた。

 ぶつかったあの瞬間、ふわりと香ったムスクの香りを、僕はしばらく忘れられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る