それがただの叫びとして
いきなりの実戦に、ユウキの思考は完全に追いついていなかった。
頭では理解している。
目の前にいるのは敵だ。
さっきまで自分を殺しかけた、あの化け物と同じ存在――モルテ。
だが、理解と行動はまるで別物だった。
「だ、大丈夫って……」
ナツミは軽い調子でそう言った。
“小さいモルテだから大丈夫”。
その言葉が、あまりにも現実離れしていて、逆に恐怖を煽る。
小さい?
何と比べてだ。
そもそも、普通に生きてきた人間が“化け物”と比べられる時点でおかしい。
モルテは低く唸るような音を立て、地面を這うように動く。
その動きは不規則で、まるで壊れた人形のようだった。
「っ……!」
本能が警鐘を鳴らす。
主人公は咄嗟に後ずさりし、足がもつれて転びそうになる。
――無理だ。
戦闘なんて、知らない。
殴り合いどころか、喧嘩すらまともにしたことがない。そもそも記憶がないのだ。
「な、なつみ……!!」
声が裏返る。
「どうすればいいんだ……!? 俺、何も……!」
必死の問いかけに、ナツミは首を傾げた。
その表情は深刻さとは程遠く、どこか間の抜けたものだった。
「んー……」
少し考える素振りを見せてから、彼女は言った。
「なんかー、こうー……内なる力がー、わいてーこない?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……は?」
間抜けな声が漏れる。
「内なる力って……何だよそれ……」
あまりにも抽象的で、あまりにも無責任だ。
怒りすら湧いてこない。ただ、虚脱感だけが広がる。
そんな説明で、どうやって戦えと言うのか。
戸惑いの中で足が止まった、その瞬間。
――影が跳ねた。
「――っ!!」
視界の端で黒い塊が弾ける。
反射的に身体を捻るが、完全には避けきれなかった。
鈍い衝撃。
一瞬、何が起きたのか分からない。
次の瞬間、右腕が“無い”ことに気づいた。
ふと後ろのモルテを見ると口らしきもので人の腕を貪っている。
「……?」
理解が追いつく前に、痛みが襲ってくる。
「――――――っ!!!!!!」
喉が裂けるほどの絶叫。
神経を直接引きちぎられるような、現実感のある激痛。
視界が歪み、世界が遠のく。
膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる。
「あっれー? おかしいなー」
その声は、あまりにも場違いだった。
次の瞬間、首元に冷たい感触。
縄だ。
なつみがユウキの首に縄をかけ、そのまま強引に引き寄せる。
「ぐっ……!!」
身体が宙を引かれ、モルテから引き離される。
地面に転がされ、息が詰まる。
ユウキは反射的に右肩を押さえた。
そこで、ようやく気づく。
「……血が……」
出ていない。
確かに、腕は抉り取られた。
感触も、衝撃も、痛みも、全部“本物”だった。
なのに、血は一滴も流れていなかった。
――それでも。
「……っ……ぐ……」
痛みだけは、容赦なくそこにある。
脳が焼かれるような、身体が壊れていく感覚。
「暫くしたら生えてくるよー」
なつみは、まるで怪我の説明をするような軽さで言った。
「幽霊だしねー」
「……は……?」
言葉が理解できない。
いや、理解したくない。
「しょうがないにゃー」
ナツミは一歩前に出る。
その背中が、妙に頼もしく見えた。
しかし、
「お手本、見せてあげるよ」
その一言で、空気が変わった。
つい先ほどまでの、あの軽薄な笑顔。
冗談めいた口調。
場違いなほど明るいテンション。
それらが、一瞬で剥ぎ取られる。
まるで“人形”から糸を切り離したかのように、なつみの表情は無機質になった。
感情が消えたわけではない。
むしろ逆だ。
底の知れない何かが、奥底で静かに蠢いている。
『未練を力に 後悔を武器に』
声は低く、静かだった。
怒鳴るでもなく、威圧するでもない。
それがかえって、不気味だった。
《ほどけない、リボン。》
その言葉が落ちた瞬間、世界が歪んだ。
何もないはずの空間から、異変が滲み出す。
まるで染みが広がるように、じわり、じわりと。
――縄だ。
無数の縄が、空間そのものから引きずり出されるように現れる。
ただ垂れ下がっているだけではない。
絡み合い、蠢き、擦れ合い、まるで生き物のように意思を持って動いている。
軋む音。
繊維が擦れ、引き伸ばされる、不快な音。
なつみの首にかけられた一本の縄は、他よりも異様な存在感を放っていた。
それは飾りではない。
象徴でもない。
――再現だ。
本当に首を吊っているかのように、縄は首元に食い込み、重力を無視して垂れ下がっている。
首がわずかに傾き、呼吸など必要ないはずなのに、喉元が締め上げられている錯覚を覚える。
その光景は、ユウキの記憶の奥を強く抉った。
二度目に襲われそうになった時。
一瞬だけ視界の端に映った、あの異様な姿。
――見間違いじゃなかった。
なつみが、ゆっくりと指を動かす。
次の瞬間。
縄が、一斉に跳ねた。
音もなく、しかし確実に。
空気を裂き、地面を撫で、影のようにモルテへと伸びる。
逃げる暇はない。
抗う時間もない。
モルテは瞬時に絡め取られた。
腕。
脚。
胴体。
首。
ありとあらゆる箇所に縄が食い込み、空中で無理やり固定される。
ぎしり、と。
嫌な音が鳴った。
縄が締まる。
ゆっくり、しかし容赦なく。
さらに締まる。
存在そのものを、内側から圧し潰すように。
モルテの身体が歪む。
形が崩れ、輪郭が溶ける。
そして。
この世のものとは思えない悲鳴。
それは声というより、潰れた内臓が空気を吐き出す音に近かった。
長く、濁り、耳に残る。
縄は止まらない。
締める。
締める。
締め続ける。
やがて、モルテは“壊れた”。
霧が散るように、存在が解体され、バラバラになり、何も残さず消滅する。
――処刑だった。
静寂が落ちる。
音が消え、風も止まったように感じられた。
ユウキは尻餅をついたまま、動けずにいた。
瞬きすら忘れ、ただ、その光景を見ていることしかできなかった。
作業が終わったかのように、なつみは小さく息を吐く。
彼女の周囲には、まだ無数の縄が垂れ流されている。
地面に触れ、影を落とし、まるで“まだやれる”と主張するかのように。
なつみは振り返る。
その顔には、さっきまでの明るさが戻っていた。
――それが、何よりも不気味だった。
「うーん……ユーくんって、不思議だねー」
こちらを見る目は、どこか観察するようだった。
「普通は、説明なんていらないんだけどなー」
ユウキは何も言えない。
右腕のない感覚と、消えない痛みが現実を突きつける。
「やっぱり記憶喪失だからー?」
なつみは淡々と続ける。
「ここに来たみんなはねー、自然とできるんだー」
「生まれた時からあるみたいに」
「手足を動かすみたいに」
「初めて買ったオモチャで遊ぶみたいに」
「……なんでかなー」
言葉が、胸に刺さる。
――自分だけが、違う。
――自分だけが、何もできない。
その瞬間。
胸の奥に、ずっと沈殿していたものが、限界を迎えた。
恐怖。
不安。
怒り。
混乱。
どれが最初だったのか分からない。
ただ、押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「……わかんねぇよ!!!」
喉から漏れた声は、最初は掠れていた。
まるで、泣き声の失敗作のような音だった。
「――何も……! わかんねぇよ!!」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
理解しようとするたびに、何かが音を立てて壊れていく。
ここはどこだ。
自分は何者だ。
なぜ、こんな目に遭わなければならない。
答えはどこにもない。
叫びは、もはや怒鳴り声ではなく、悲鳴だった。
「いきなり……いきなり、化け物に襲われて!!」
思い出すだけで、身体が強張る。
背後から迫る気配。
逃げ場のない恐怖。
そして、腕を失ったあの瞬間の感触。
「ここは死後の世界だとか!!」
冗談だと言ってほしかった。
悪い夢だと、誰かに笑って否定してほしかった。
でも、灰色の空は何も答えない。
「お前は幽霊だとか!!」
幽霊。
そんな言葉で、自分の存在が一言で片付けられる。
生きていたはずの自分は、どこに行った。
名前も、過去も、意味も、全部置き去りにされたまま。
「罰のために……殺し合いをするだとか!!」
何の罰だ。
誰が決めた。
自分が、何をした。
分からない。
思い出せない。
それなのに、罰だけは一方的に突きつけられる。
声が震える。
喉が焼けるように痛む。
それでも、止められなかった。
「――わけ、わかんねぇよ!!!!」
叫びは、空虚な灰色の空に吸い込まれていく。
返ってくるものは、何もない。
世界は、沈黙したままだった。
叫び終えた後、ユウキはその場に崩れ落ちた。
膝から力が抜け、地面に手をつく。
右腕のあった場所を、無意識に押さえる。
血は出ない。
なのに、痛みだけは確かにそこにある。
灰色の空の下。
色のない世界で。
生きてもいない、死んでもいない身体を抱えながら。
――ここは、生きている者の常識が、一切通じない世界。
――努力も、理解も、覚悟も、何一つ報われない場所。
そして。
自分はその中で、何一つ掴めないまま、立ち尽くしている。
助けを求める声すら、
もう、どこに向けて叫べばいいのか分からなかった。
ミレンダマシィ アキイロ @akiieodeizu
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