第3話 ゆっくり静かに

 異動させられた先の、おれの職場。

 一階上の五階。

 被虐待児童ひぎゃくたいじょどう精神科ってとこ。

 ウツ気味なやつが精神科勤務、それも虐待されてた負け確定の子ばかりのとこに放り込まれたんだぞ。陰謀だと思わないほうが無理だろう。

 

 まったく環境が違う。

 まず、子供相手だということ。

 しかもその子たちは心が傷だらけ。


 そんなとこに飛ばされちまった。


 男はおれだけ。

 ターボババアみたいなナース先輩のおつぼね様たちにこき使われてたわけさ。

「ほーんと、使えないんだから」

 とか陰口叩たたかれながらね。


            *


「自分の名前は、小森厨子王こもりずしおと申します」

「ズシオウではなくズシオです。王は忘れてください」

「ひと月ほど前に十九歳になりました」

「いちおう、いちおうですけどね、恋人募集中、なーんてこと口にするとドン引きされるから、言いません」


            *


 クリスマス前だったよ。

 いまとなってはもう遠い昔のように感じられるけど、あれが起こったのは十二月二十一日になったばかりの冬の深夜のことだったんだ。


 それは静かに、

 ほんとうに誰にも気づかれずに密やかにはじまった。


 八王子市郊外にある大学付属の巨大な医療センター。

 おれはそのときゆっくりと深夜の小児精神病棟の廊下を歩いていたわけ。

 廊下の床はリノリュームやカーペットではなく、弾力のあるラバーのようなゴム引きにしてある。

 子供たちが倒れたり転んだりしても怪我けがをしないようにというためだけれど、それはこちらの足音を消すためでもあるんだ。


 音を消す。


「……異常なし」

 今夜はみんなよく寝入っている。


 サヤカとマスコだけが起きているのはいつものこと。

 汚れたメガネがトレードマークのマスコはあんな感じだから夜行性。サヤカはいつも廊下にぺたんと座って天井を見上げている。

 二人はおれの姿を見ているのかどうかわからないほど、ただ起きているのだ。眼だけ開けている。


 とにかく、

 悪夢にうなされて悲鳴を上げたり叫びだしたりする子は、今夜はいない。そう思ったことを覚えてる。

(それがいちばん大事だったから)

 眠れないまま歩き回ったり、ベッドの下に隠れて震えている子もいまのところいない。サヤカとマスコを除いて、みんなきちんとベッドの中に入って寝息をらしている。


(……こわくないからねえ、いつものにいちゃんの巡回だよお)

(怪物なんかじゃないからねえ)


 そのとき————。


 キーンという鼓膜こまくから頭の中に突き抜けるような甲高い雑音がいきなり生じて、おれは思わず連絡用のイヤフォンを片耳からはずした。

 疲れ?

 頭痛?

 いや違うな、電波障害だろうか。

 脳の奥まできりで差し込まれるような、いままで耳にしたことがないノイズだった。


 でも、それだけ。

 再びインナータイプのイヤフォンを耳の奥に入れ込む。


 すると唐突に内線の電話が低く鳴り出したのだ。

 おれより早くAステの倉田ママが出ていて、「どういうこと?」と受話器に向かって叫んでいるのが聞こえる。


 声が大きい。相当慌あわてている。


 深夜なのにどうしたんだろ?

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