2. 気を付けて

 夏休みには、叔母の家に週一、二回行くことにしている。落ち着きのある周辺環境と、この庭にたくさん植えられている花が好きなのだ。スズラン、アジサイ。この時季はアサガオ。道路のめくれたアスファルトの向こうにはキョウチクトウ。居間の窓際にはシクラメンの鉢植えもある。顔は母に似ているのに違う雰囲気をまとう叔母との交流も楽しい。

「今日はお菓子を作ってあるから、持って帰ってくれる?」

「お菓子? すごいね、お菓子作りって難しいんでしょ? お母さんは全然やらないよ」

「簡単に作れるものもあるのよ」

 いつものようにシール容器に詰めたおかずを渡すと、叔母は可愛らしく微笑んだ。

「あとね、今日はみつるさんが帰ってくるの。空港から高速バスだって」

「ほんと!?」

 海外赴任中の叔父が帰ってくると聞き、私は喜んだ。もうすぐ五十歳、母と同じ年齢だというのに、若々しくて格好いいのだ。

「静香ちゃんに会いたがっていたわよ。お土産あるんじゃないかしら」

「さすが叔父さん、優しいなぁ。でもイタリアからのフライトじゃ、疲れてるよね?」

「少し話すくらいなら大丈夫よ」

 ふふふ、とおかしそうに笑う顔は本当に母に似ている。でも、決定的に何かが違う。姉妹とはいえ違う部分があっても当たり前なのだろうけれど、身長以外に探して名前をつけようとしてもうまくいかず、いつも煙に巻かれたような感覚に陥ってしまう。

「それにしても、血なのかしら」

「ん? 何が?」

「お姉さんも、充さんのこと好きだったから」

「……え? それって……」

「あ、取り合いとかはしていないわよ」

 叔母はまた微笑む。儚くて、一瞬でも目を離したらすぐに空気に溶けてしまいそうな表情。

「でも……美貴子さんと……」

「最初に好きになったのはお姉さんだったの。でも告白なんてできないってうじうじして」

「そう……だったんだ」

「もしかして何か心配してる? 私が充さんと一緒になってから、まだ十五年よ。お姉さんが結婚したあとだったんだから」

「う、うん」

「あ、そうだ、充さんのことで思い出した。静香ちゃん、お姉さんに伝えておいてくれるかな? 護身術習ってたこと、もう二度と話題に出さないで、って」

「えっ? あ、うん……」

 護身術と叔父に何の関係があるか全くわからない。でも、うなずくしかない。薄いヴェールに覆われた微笑みの向こうは、私の知らない領域だ。

 両手をぎゅっと握りしめる。何かがざわっと胸を騒がせるのに、一瞬で消えてなくなる。家の中に姿を現し、すぐに逃げてしまう害虫を見た時のように。

 私は叔父に会う前に、「用事を思い出した」と、手作りのお菓子も受け取らず逃げるように叔母の家を出た。


 ◇


「ごめんなさい、昨日お菓子もらうの忘れてて、取りに来ただけなの」

「大丈夫よ。手作りでも一週間くらいは平気だから」

 翌日の昼過ぎ、私は再び叔母の家を訪ねた。玄関先で出迎えたのは、昨日と同じきれいな顔と華奢な体だった。

「あっ、静香ちゃん、イモリが」

「えっ、どこ!?」

 叔母が指差すほうを見ると、すぐ脇のアジサイの葉に黒っぽいトカゲのような生き物が乗っていた。

「これが、イモリ……」

 体を引いてアジサイの葉を覗き込むと、ちらりとオレンジ色の腹が見える。

「毒があるから気を付けて。まあ、触った部分のお肌が荒れるくらいで済むと思うけど」

「う、うん」

 網戸のすぐ向こうの濃いオレンジと黒い斑点が思い出され、私はぶるりと身震いする。

「そうだ、充さんなんだけど、今日はいないの。友達のところに出かけてしまって」

「帰ってきたばかりなのに元気だね」

「日本にいる間は休暇みたいなものだから、って」

「美貴子さんほっとかれてかわいそう」

 叔母は「かわいそうなんかじゃないわよ」と軽やかに笑い、一旦キッチンへ戻っていった。

「じゃ、これ持っていってね」

「うん、ありがとう」

 細い手から手渡された紙袋には、きれいな包み紙で丁寧にくるまれた何かが入っている。

「そうだ、お姉さんに護身術のこと言ってくれた?」

「……あ、ごめん、まだ……」

「そう。必ず言っておいてね。忘れないで」

 まただ。またざわりと胸騒ぎが訪れた。そうして叔母の真剣な表情に、何とも言いようのない不安感を覚える。

「う、うん。……じゃ、またね」

「バイバイ。気を付けて帰ってね」

 叔母から視線を剥がし、ゆるい足取りで玄関先から何歩か歩いた。そうして門扉を閉めようとキィ、と金属の音を立てた次の瞬間、ザシュッ、という音が聞こえ、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 叔母が傘でアジサイの葉を叩いていたのだ。その衝撃で黒とオレンジ色の腹は地面に落ちていった。とても鮮やかに。

「何をしてるの」と言いかけ、口を閉ざす。叔母がとても楽しそうに見えたから。西日が作る濃い影の中で美しく弧を描くその口元は、イモリが逃げていった方に向かって力強い笑みをたたえていたから。


 暑い、とても暑い日差しが、じりじりと地上を焦がす。

 湿度の高い空気に息が詰まる。


――お姉さん、充さんのこと好きだったの。

――護身術習ってたこと、もう二度と話題に出さないで。


 イモリには触らないほうがいい。

 毒があるから。

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