ショコラ・オランジュ(改訂版)

祐里

1. オレンジ色と黒

 叔母が高校生のときに『妖精』と呼ばれていたことを、母との雑談で初めて知った。

「美人だとは思うけど、妖精って大げさじゃない?」

「あの子、身長百四十八センチしかないし、細っこいし。それに、昼休みはあのクラス、放課後はあの教室、ってふらふらしていたから。気まぐれな妖精みたいに」

 そう言って母は笑った。

「なるほど。じゃあモテてたんだね」

「大変だったのよ。護身術習ったりして」

「へぇ、そうなんだ。でも何で姉妹でそんなに違うんだろ」

「なぁに? お母さんはモテてなかったって言いたいの?」

 苦笑いしながら「いやだわ」と続けて、母は麦茶のグラスを持った。

「身長だよ、身長。友達に『お母さん美人だね』ってよく言われるんだから。モテなかったなんて思ってないし」

「あら、そう? 見る目のあるお友達ね。身長は、お母さんそんなに高くないわよ。百五十八だもの」

「十センチも違うじゃない」

「まあそうだけど。ねえ、静香しずか、今日あの子のところ行くのよね? これ持っていってくれる?」

 冷蔵庫から、シール容器が二つ取り出される。中身は鶏肉とじゃがいものカレー炒めと、ぶなしめじとえのき茸のナムル。昨日の夕食のおかずと全く同じものだ。

 母に「わかった」と伝え、着替えるために一旦部屋に戻る。

「行ってきます」

 玄関で母が用意した保冷剤とおかず入りの紙袋を手に持つと、キッチンから「熱中症に気を付けるのよ」と声がした。


 ◇


「子供いないからかな。なんだかうちって地味よね。古いし」

 玄関の引き戸を開けて出迎えてくれた叔母が、ぼそりとつぶやく。

「私は好きだよ」

「あら。女子高生にそんなこと言ってもらえるなら、この家も悪くないかも」

 大げさに目を丸くして、叔母が私を見上げる。

 叔母がこの家に住み続けているのは、祖母が亡くなったときに独身だった叔母が家を継いだから。

 住宅地に建つ自分の家から徒歩十五分で来られる場所なのに、周辺には緑が多い。小さな林も田んぼも、少し歩けば沼地もある。その分じめっとした空気を感じるが、不快ではない。ここでは呼吸が楽になると、来るたびに思う。


 四人がやっと座れるようなテーブルセットが置かれている狭いダイニングルームも、叔母と二人だと圧迫感はあまりない。

「ねえ、美貴子みきこさん。若い頃モテてたんだって?」

 母が持たせたおかずをうれしそうに皿に移す叔母に話しかけてみる。

「え、何それ」

「お母さんが言ってたよ。『妖精』って呼ばれてたんでしょ?」

「やだ、そんなこと聞いたの? お姉さんったら娘に余計なことを」

 叔母はぷくっと頬を膨らませてみせてから、皿のおかずをつまみ食いした。

「余計なことだった?」

「そうよ。妖精なんて、本当はいいものじゃないんだから。いたずら好きって言われてたみたいだし」

 舐めた指をティッシュで拭く叔母が子供のように見え、私はもっとからかいたくなってしまった。

「あのさ、あと、護身術ちゃんと身についた?」

「……えっ? お姉さん、護身術のことまで話したの……?」

 皿を持ったままの格好、低い声で問われる。

「あ……、うん」

 あの母の笑顔につられて、明るく話してしまった。何気ない会話のつもりだったけれど触れられたくなかったのかもしれない。こういうことは、実際に本人に言ってみないとわからなくて困る。

「ううん。……その頃、家族に迷惑をかけていたから……お姉さんにとって嫌な思い出になっていなかったかなって、心配になっちゃったの」

「そっか。それなら大丈夫だと思うよ。だってニコニコしながら話していたもの」

「ニコニコしながら……まあいいけど……。そうだ、アイスあるけど食べる? 今日蒸し暑いよね」

「うん、食べる。ありがと」

 叔母が冷凍庫から出してくれたバニラアイスを食べていると、叔母の視線が窓のある一点に止まった。視線をたどるとそこには一匹のトカゲのような生き物が、網戸の下から十センチくらいのところにへばり付いていた。

「うわ、何あれ? オレンジ色……と、黒? 気持ち悪い」

「イモリね。ここらへんは水場が多くて、暑い時季はたまに見るのよ。毒があるの。少しだけど」

「そうなんだ……触っちゃったら怖いね」

「うん。本当に毒があるから、気を付けて」

 イモリには触らないほうがいい。毒があるから。

 ぼんやりとした不安が胸の奥で立ち上る。

 叔母がシール容器を洗う音を聞きながら、私は手に力を入れ、バニラアイスの柔らかい部分にスプーンを突き刺した。

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